Sunday, December 31, 2006

Saddam Hussein Gone... Anything Solved??

一国の元首であろうと、何人であろうと絞首刑寸前の画像を見るのはつらい。これで何が解決できたのか?

Saturday, December 30, 2006

Saddam Hussein executed

Saddam Hussein executed in Iraq

Snowy Hometown

間違いない。夢を見ながら、現実世界の音を聞くことができる。同時に、夢を夢と認識している自分が存在する。どういう心理状態、どういう精神状態なのか説明している本があったら読みたい。

けさ(29日)の京都。MAGNIFICENT!!(上は読売新聞、下は産経新聞から)

Friday, December 29, 2006

No Sleep... Off to Work

眠らなかった……。

来年からのつもりだったが、誘惑が強すぎて昨日から“Stalin: The Court of the Red Terror” を始めた。

Thursday, December 28, 2006

Let Me Hold Your Hand, My Little Boy. I am You

子どもの頃の自分と手をつないで歩こう。苗木だった彼と木になった自分。同じひとりの人間だから。

Tuesday, December 26, 2006

Ando-san, I Remember Your Mistake

ジムに行くつもりだったんだけど、会社前から駅に送ってくれるシャトルバスが来るまで30 分も待ってしまったのでやめた。その前に1台来たが、通り過ぎていった。まだ乗れそうだったのに。

安藤優子さんが再婚した。この人、「ニュースステーション」っていうかなりひどい番組が放送を開始して間もなく起きたフィリピン政変を取材して注目されたあと、別局の報道番組に出るようになった。ボスニアにNATO軍が派遣されて、米軍のたしかヘリコプターが友軍機に撃墜されたとき、クリントンが放送時間中に始めた会見の同時通訳を敢行。そのときは会見の元音声が聞き取れないほど下げられたのでわからなかったのだが、彼女が「ファクス(fax)」で情報を収集とか何とか言った部分は、あとで米テレビ局の放送で確認すると「事実(facts)」を調査中だった。できないんなら、やらなきゃいいのに。一気に信頼なくした。

「日本語を叱る!」を昨日眠る前に読了。

……カタカナ語、漢語、和語、さらには若者ことばやオノトペアを、それぞれ相互に言い換えてみる。
これはすでにして、海外帰国子女と国内在住者、南国の子と北国の子、おじいちゃんと孫などのあいだに、共通の言語を打ちたてようとする試み以外の何物でもありません。そしてその試みは、とどのつまり「翻訳」という概念に帰着することとなるでしょう。国内在住者は帰国子女の言葉を、北国の子は南国の子の言葉を、そして、孫はおじいちゃんの言葉を、それぞれ翻訳して理解しようとするわけですね。(166 ページ)

……漢語と和語との二重性は、もはやホンネをタコツボに閉じ込めるものではなく、むしろそれを、異言語間のダイナミズムのなかに開放するものであると思われます。
……私たちの日本語が、すでに開かれた言語となるための翻訳装置を満載しているということも、私たち日本人が、そもそも国際的なメンタリティーをもっているということも、もはや一目瞭然ではないでしょうか。(178 ページ)

「鳥インフルエンザ」を「鳥インフル」と書き始めたのはどこの新聞だろう。定着してしまったようだが、たいへん気に入らない。「インフル」?「インフラ」?「インフレ」?あと、「インフリ」と「インフロ」が出現すれば完璧か。略したければ「鳥流感」で押し通してほしかった。

Monday, December 25, 2006

Flexibility and Superficiality of Japanese

「日本語を叱る!」は、日本語の「詞」と「辞」から成る二重構造に注目。辞である「テニヲハ」に、漢語、西洋語、カタカナ語、流行語などを詞に当てはめれば、日本語としての体裁が整うことから、意味不明な文章の氾濫につながると指摘している。

……日本語は本質的に翻訳語として発達してきたのであり、根本的に二重構造をもっています。そこからすれば、「辞」は外国語を受け入れる鋳型であり、「詞」は、その多くが出入り自由の外国語であることになるでしょう。
「詞」は外国語なのだから、少しばかり疎遠な言葉でも、一知半解のものでもかまわない。鋳型となる「テニヲハ」さえ整っていれば、まがりなりにも日本語の体裁はつくろえるわけです。また、「詞」は、つねに文化の優れた外国からやってくるものでした。したがって、それはいつでも意味深長なありがたいものとしてうけ入れられてきたにちがいありません。(99ページ)

「詞」がブラックボックスのままでありながらも、私たちは「テニヲハ」のおかげで、どことなくわかったような気になってしまう……融通無碍に外国語を取り込んできた見事な日本語の構造も、実は内部に、言葉を未消化のまま放置するという思いがけぬ陥穽を隠しもっていたのです。(100ページ)

また、感情的に過ぎる文章も批判する。

この記事(「お受験殺人事件」)には、とりわけ周囲の人々の談話が多く、それぞれの引用符のあとに「と驚いた」「と容疑者の動機を理解できないといった様子だった」「と驚きの表情で語った」などの表現が添えられていて、ただでさえ感情的なバイアスがかかっています。
とくに興味深いのは、被害者と同じマンションに住む「飲食店経営の男性(四四)」によるコメントです。「若山さんとの家族とは面識はなかったが、毎日、新聞やテレビで関心をもって、ニュースを見てきた。私にも三人の子どもがいるが、子どもは親の宝物。殺さなくてもよかったのではないか」……
いかがでしょう。ここにはなぜ「家族と面識はなかった」人の談話などが引用されているのでしょうか。あるいはまた、当の男性に三人の子どもがいることなど、事件とは何のかかわりがあるのでしょう。それどころか、この人物が説く「子は親の宝」というお説教までが載せられ、さらにはこれが「宝物」「殺さなくても」という見出しにさえなっているのです。
つまるところ記者は、自分の語りたかった陳腐な常識を彼に代弁させ、読者の感情をあおりたてているわけですね。ここまでくるとこの記事は、もはや荒唐無稽の浪花節と言うしかないでしょう。(142ページ)

自分が常々疑問に思う報道記者のいい加減さが表されている。

Sunday, December 24, 2006

Material Society Cheapens Language

“Wings of Fire” を終えた。「日本語を叱る!」(加賀野井秀一)をやっと見つけて、読み始めた。明日には終われそうに思う。少なくとも正しい文法で話そうとすると、語数が増えて話が長くなる傾向がある。自覚していることだが、「一語文」社会では嫌われる。

The culture of working for material possessions an rewards must be discarded. When I see wealthy, powerful, learned people struggling to be at peace with themselves, I remember people like Ahmed Jallaluddin (husband of Kalam’s sister, Zohara) and Iyadurai Solomon (his teacher at the Schwartz High School). How happy they were with virtually no possessions! (p. 175)

インドが自前の技術でミサイル開発を進めた姿勢は、大手メーカーのモデルをコピーしてきた中国と対照的に自動車製造にも生きている(The Economist, December 16, “A different route”)。

Save the Boy! Just Another Strange Dream...

目が覚めてしまった。虐待というか、無視されているような少し指の爪が伸びた顔色の悪い男児。かと思った瞬間、この男児が白犬に変化した。周りにも同じような犬が数匹いたが、世話を受けていない様子なのはこの1匹だけ。あれ、隣の部屋には猫が5匹いる。何とか不幸な1匹を助けようとしていたら、目が覚めた。

昨日から「delete」も効かない。

「ジャングル鳥」は少し離れた場所へ引っ越したようだ。声は聞こえるが、以前ほど至近ではない。

The Second Russian Revolution

何年も探していた英BBCが1991 年に制作した“The Second Russian Revolution” 50 分8巻)を販売しているサイト(株式会社日本外語協会)を見つけた。336000円だって。ふざけた価格。おまけに個人には販売しないって。あんなにも感動した名作なのに、何で……。

Saturday, December 23, 2006

Long Long Way to Go...

まったく動けず、3カ月の無給休職を余儀なくされた1年前を思えば、進歩前進か。しかし、まだまだ先は長い。

甘ったるいロシア音楽が好きなわりには、ロシア文学に親しむ機会がなかった。ロシアと言えばソ連邦。自分の世代ならゴルバチョフとレーガンの米ソ・サミット、国の崩壊と米原万里が強烈な記憶だ。“American Prometheus” にあったように、スターリンは米国の「特殊兵器」開発に特に大きな関心を示さなかったらしい。来年は“Stalin: The Court of the Red Terror” から始めよう。そして革命前のロシア文学も(もちろん翻訳ものだが)。

Books of 2006

今年1年で何冊読めただろう。米原万里さんには遠く遠く及ばないが、常に何かを読んでいるように努めた。

Noonday Demon: An Anatomy of Depression (Andrew Solomon)
Electric Don Quixote: The Definitive Story of Frank Zappa (Neil Slaven)*
The Unfinished Presidency (Douglas Brinkley)
Generalissimo: Chiang Kai-Shek and the China He Lost (Jonathan Fenby)
Yasir Arafat: A Political Biography (Barry Rubin/Judith Colp Rubin)*
Arafat: The Biography (Tony Walker/Andrew Growers)
Elusive Peace: How the Holy Land Defeated America (Ahron Bregman)
Penguin Special: The Life and Times of Allen Lane (Jeremy Lewis)
菊兵団 軍医のビルマ日記(塩川優一)
死は易きことなり:陸軍大将・山下奉文の決断(太田尚樹)
山下奉文:昭和の悲劇(福田和也)
警察(サツ)回り(本田靖春)
人間将軍 山下奉文:「マレーの虎」と畏怖された男の愛と孤独(安岡正隆)
The Psychopathology of Everyday Life (Sigmund Freud)
The Schreber Case (Sigmund Freud)
Homage to Catalonia (George Orwell)
Touched with Fire (Kay Redfield Jamison)
From Oslo to Iraq: and the Road Map (Edward W. Said)
閉された言語空間:占領軍の検閲と戦後日本(江藤淳)
Zappa (Barry Miles)
メディアの興亡(上下)(杉山隆男)
American Prometheus (Kai Bird/Martin J. Sherwin)
Many Lives, Many Masters (Brian Weiss)
打ちのめされるようなすごい本(米原万里)
Wings of Fire: An Autography (A P J Kalam/Arun Tiwari)†

*水没のため破棄
読了予定

Friday, December 22, 2006

Sakura

桜の木の夢を見た。うちの裏にあった桜。すぐ横に柳の木が伸びている。花の色は本当の桜より濃いピンク。風で花びらの散る。北朝鮮の軍事パレードでも桜が舞っていた。雨で時期を早めて散ってしまった桜。新しく建設された大阪球場も夢に出た。屋根のない天然芝の球場。

Jean Kirkpatrick, RIP

昨日まで、元米国連大使Jean Kirkpatrick が亡くなっていたことを知らなかった。

眠りについて。とにかく眠い。薬のせいか催眠のせいか、わからない。とにかく眠い。

ひどい日本語:倖田(來未)は高さ13メートルの最上階に登場。「いいメンズ(男性)をゲッチューした?」と見物客3000人に呼び掛けた。(スポーツニッポン)おまけに「メンズ」「ゲッチュー」って英語も最悪。

Wednesday, December 20, 2006

Pay Me, You Slut!!

東京地裁が正式な婚約関係になかった男性と別れてから、2カ月後に別の男性と結婚した女性に「不誠実代金」120 万円の賠償を命じた。

今日(19 日)の夜。催眠療法に行ってきた。まだわからない。催眠状態になれるよう「協力的」な姿勢でいるが、邪念が紛れ込む。週1回の予定。今後に期待する。Jurong East から逆方向のMRT に乗ってしまい、ずいぶん余分に時間がかかってしまった。

Monday, December 18, 2006

Early Bird

早起きしてしまった。何度も目が開いたように思うが、そのわりにはスッキリしている。

寝る前に、「打ちのめされるようなすごい本」を終えた。今年読んだ本の中では、印象深い1冊になった。最後の掲載日は5月18 日になっている。その1週間後の25 日、彼女は亡くなった。

Sunday, December 17, 2006

Back to Basics as a Human

今に始まったことではないが、ビジネス記事を読むのがつらい。昔は圧倒的な知識不足を補うことに懸命で、義務感を感じていた。しかし、利益至上主義、能力主義、カネを動かしてカネを稼ぐ個人や企業について読むにつけ、「だからどうだって言うのか」との考えが頭をもたげる。貧乏人の僻みだろうか。貧しいながらも幸せであろうとする人たちの居場所がなくなっていく。1992 年だったか93 年だったか、米国にいたとき、ニュージーランド人の元同僚が自分宛に(偶然にも)チャンギ空港で投函した手紙には、インドネシア雨林に暮らす人たちを、少ない食糧を分かち合いながらも「最も幸せな人たち」と表現していた。

サダム・フセイン時代に命の心配をする必要のなかった一般市民が、利益至上国の軍隊による爆撃で落命する。国の概念より、種族や宗教の方を重視する人たちに米国式の統治を押し付けようとするのがそもそも誤りだろう。

「打ちのめされるようなすごい本」で「戦争で儲ける人たち」という書名で紹介されているのは、“The Iron Triangle: Inside the Secret World of the Carlyle Group” のことで、読んでおくべき1冊だと思う。

Saturday, December 16, 2006

She Read Seven Books a Day

居ても立ってもいられず、書店に向かった。「打ちのめされるようなすごい本」を読み進めてそうしない人がいるだろうか。米原氏は他の著書で、日本語は速読に適していると書いていたはずだが、それは母語だからという意味ではなく、漢字かな混じりの文体が理由だと。しかし、しかしだ。「……受験の丸暗記地獄から解放された頃から(読書)速度は面白いほど伸び、ここ20 年ほど1日平均7冊を維持してきた」とある。「1週間7冊」かと思ったら、何と何と「1日7冊」。そして、付箋を携帯しながら読むべきだとまたしても思い知る。

「打ちのめされるようなすごい本」(29ページ)から。

親類筋の女性Tがかつてネルーの信奉者だった。ネルーの思想と活動に手放しで共鳴し、親譲りの潤沢な資産を惜しげもなく注ぎ込んだ。熱烈なる敬愛の念は相手にも通じたらしく、インド独立式典への招待状が舞い込み、いそいそと出かけていった。貴賓席で待ち受けていると、憧れの君は民衆の歓喜の声に包まれて颯爽と登場。ボロをまとった女たちが感極まって駆け寄り壇上のネルーの靴に口付けしようとした瞬間、ネルーはあからさまに汚らわしいという表情をして女たちを足蹴にし、ステッキを振り上げて追い払った。周囲の囁きから、女たちが不可触賎民であることを知る。Tの「百年の恋」は冷めた。……明治4年の賎民廃止令発布の功労者と讃えられる大江卓が、全国の部落を回りながら、食器だけは持ち歩き、絶対に部落のものは使わなかったという……。(「よみがえる部落史」上杉聰)

彼女が紹介してくれている作品から、丸谷才一、星野博美、斎藤美奈子の著作を購入しようと紀伊國屋へと急いだ。エドワード・ラジンスキーの「赤いツァーリ」も。それぞれ見つかったが、「赤いツァーリ」はペーパーバックしかなく、ハードカバーを求めてBorders に走った。やはり10 年ほど前に初版が出たもので、ペーパーバックしかなかった。ラジンスキーの「真説ラスプーチン」も書棚にあったのばペーパーバックだった。いずれ、ネットでハードカバーを見つけることにして、結局、予定になかった「赤いツァーリ」後に出版された“Stalin: The Court of the Red Tsar” (Simon Sebag Montefiore) “Nehru: a Political Life” (Judith M. Brown) を買って帰った。合計S$145.65

また、来週火曜日から「催眠療法」を開始する決心をした。健康になるためにカネがかかるという仕組みに複雑な気分。「いかがわしい療法ほどカネがかかる」らしい。「溺れる者は藁をも掴む」とはこのことだ。催眠療法が藁でないことを祈る。

Palestinian Civil War?

パレスチナのハニヤ首相がエジプトからガザに入ろうとして阻止され、首相警備員が銃撃により死亡した。阻止はイスラエル国防相の指示だという。その後、西岸でハマスとファタハとの衝突に発展。英BBC は負傷者32人とし、アルジャジーラは少なくとも20人と伝えている。まったく無益だ。ファタハはイスラエルの一部隊に成り下がったのか

Overwhelmed by Her Reading and Writing

行かなくてもよかったのに、JB に行くはめになった。今日(15 日)でビザが切れることを昨日は覚えていたのに、すっかり寝入ってしまい、MOMの業務時間に間に合わなかった。再入国時にまた部屋に連れて行かれた。今度からICA に行くように言われた。そんなことなら、部屋に連れ込まなくても、入国カウンターで伝えれば済むのにと、気分が悪い。ただ、MOM ではないのかと念を押したが、ICA だと言う。まだ半信半疑だ。確認しなければならない。

「打ちのめされるようなすごい本」は第一部を終えた。天国の米原さんには海外で彼女の著作を読んでいる人がいることを知ってほしい。彼女の読み方、書き方をあらためて知って、ここに殴り書きしている自分を反省している。誰に読ませようと書いている訳でもないので、推敲することもなく、日本語の語彙を増やそうとしている訳でもなく、こんなことでいいのだろうかと思う。

第一部のどこかで、「自分にも書けそうな気にさせる」本のことに触れている。米原さんの読破量を知れば、「自分にも読めそうな気がする」と言いたくなる。ただ、おかげでこれから読みたいと思う本がずいぶん増えた。

Wednesday, December 13, 2006

Zionist Regime... Just Like the USSR. Book by the Late Mari Yonehara. Kim Il

"Just as the USSR disappeared, soon the Zionist regime will disappear." (Iranian President Mahmoud Ahmadinejad)

「日本語を叱る!」(加賀野井秀一:筑摩書房)「打ちのめされるようなすごい本」(米原万里:文藝春秋)「韓国野球の源流」(大島裕史:新幹社)「家族力」(山本力:文藝春秋)を読みたい本に選んで、ジム帰りに紀伊國屋に寄った。「一度に買ってもなぁ」と思い、「日本語を叱る!」に絞って探すが、見当たらない。店内検索機を利用してみると、あるじゃないか。それでも見つからない。あきらめかけたとき、隠れるようにして置かれている「打ちのめされるようなすごい本」を発見。迷わず購入した。

大木金太郎(金一)の追悼会・自叙伝出版記念会が東京で開かれた。デイリースポーツには、猪木とブッチャーの写真が掲載されている。猪木、馬場、そして坂口の去ったあとの日本プロレスを守ろうとした気持ち。遺恨試合と言われた新日本での坂口との試合、戸口正徳(キム・ドク)と組んで参戦した全日本での試合についてどう書かれているのか興味あり。

Monday, December 11, 2006

Chile's Pinochet dies at 91

General Pinochet dies at 91.

何で起きてなあかんのやろ……。疲れるわ。「ピント」って何語やろと考えたりしていた。ジャングル鳥は仲間と呼応して相変わらずうるさい。

小橋が武道館で「必ずリングに戻ります」(日刊スポーツ)
 腎臓がんの摘出手術を受けて長期欠場中のノア小橋建太(39)が10日の日本武道館大会で約半年ぶりに公の場に姿を現した。……今年6月に右腎臓に腫瘍(しゅよう)が見つか り、7月に手術を受けて成功。日常生活に支障はなく、現在はリハビリを続けている。

成功するのは手術なのに、「手術を受けて成功」って、何が成功したのか、はっきりせんな。不合格。

イラク報告書は「国民に対する侮辱」 大統領が拒否(共同)

てっきりブッシュ大統領だと思ったら、イラクのタラバニ大統領だった。紛らわしい見出し。

「ピント」を調べると、ニコンのウェブサイトにはオランダ語で「焦点」を意味する「brandpunt」が語源とあった。納得できるようなできないような……。

Sunday, December 10, 2006

Princess's 'Book Review Homework'??

9日は皇太子妃の誕生日だった。宮内庁発表文を各紙が掲載したが、「感想文」っていうのはどうか……。妃殿下の読書感想文かと思った。

昨日午後。ジムに行った。そのあと、Little India までMRT で行ってHillman Restaurant のあるFarrer Park まで歩いた。何年ぶりかでMustafa Centre にも寄ってみた。Orchard 周辺まで戻ったときには汗だらけで、$15 のシャツを買って着替えた。

Saturday, December 09, 2006

Yamaguchi-kun

山口くん……。と言っても、山口敏夫元代議士ではない。中学校で同級生だった秀才山口くんのことで、彼には自尊心というものを徹底的にぶち壊された。彼の父親は自分の父親と交流があったらしい。ずいぶん年齢が離れているはずだが、写真の趣味が共通でうちに何度も来ていたという。そんな昔の親同士の付き合いもあって、2年生で同じクラスになったとき仲良くなったのだが、彼は秀才、自分は上の中あたり。2学期。隣同士の席になり、彼は何様のつもりなのか自分の授業理解に口を出す。

「(英語の)関係代名詞がわからんかったら、この学期は意味あらへんわ」
「……」

という具合だった。

学校で起こったことだったのかどうか場所は覚えてないが、ある日、彼は「キミのお母さんが“(自分のことを)よろしく頼む”と言っていた」と明かし、おせっかいの理由がわかった。親も親なら、彼も彼だ。いくら秀才でも彼は同級生。「息子をよろしく」と言う親もひどければ、それを真に受けて振舞うこいつもひどい。侮辱された気分で、すっかり彼のことを避けるようになった。何に必要だったのか、当然忘れたが、彼に数千円を貸したことがあって、その返済を求めるはがきを送りつけてやった。はがきなら家族の目にも触れることを承知のうえでやったことだった。彼はうちまで返しに来た。「すぐ返してきなさい」とうちで言われたはずだ。彼は私立の秀才コースに進学した。高校生になっても朝の通学電車で会うことがあったが、話し掛けられても無視した。30年近く経った今、どこかで会ってもやっぱり無視すると思う。

Russian Night

まったく久しぶりに“Russian Night” DVD Berliner Philharmoniker, Seiji Ozawa, recorded at the Waldbühne, Berlin, 20 June, 1993)を見て聴いて、そしてみんながあんまり楽しそうなので涙した。夏休み恒例だった八坂神社近くの円山公園音楽堂での演奏会も思い出した。

Friday, December 08, 2006

'Ozato-hen'??

朝9時なんかに予約してしまって……。行けなかった。夜、ジムに行こうかとも思って出かけたものの、行かなかった。明日はジムに行って、できれば仕事にも行きたい。

以下、産経新聞から。

馬英九台北市長(中国国民党主席)の後任を決める台北市長選は、40%を超える支持率で同党の●(赤におおざとへん)龍斌・元環境保護署長(環境相)が先行する。それを与党・民主進歩党の謝長廷・前行政院長(首相)と親民党の宋楚瑜主席という大物政治家が追う展開だ。終盤戦で謝氏が浮動票の取り込みに成功 すれば、市長選をステップに次期総統選の有力候補に躍り出る可能性もある。

漢字「郝」の説明にある「おおざとへん」って。漢字部首の右側を「へん」と呼んでいいのか。左側なら「こざとへん」、右側は単に「おおざと」のはずだが。

Thursday, December 07, 2006

I Need Cymbalta. Really...

朝、クリニックに電話したら、10 日まで休診との留守電メッセージだった。そう言えば、前回薬をもらったときにそんな話を聞いたような、聞かなかったような。その間に薬が必要になった人のために、メッセージには別のDr への連絡用に電話番号が残されていた。休診期間を忘れる(知らない)などという患者は自分ぐらいか。ともかく、その別のDr に連絡して、明日午後9時の予約を入れてもらった。Efexor に代わって処方してもらっているCymbalta が数日前になくなり、けさからあの「電気ショック」状態。万一、余分に出費することになっても、もう待ったなし。

Bad Editing Work

火曜日の夜から“Wings of Fire” を、昨日の夜から数年前に買って本棚に置いたままだったDr. M の演説集“Reflections of Asean” を始めた。

“Reflections…” の編集の悪さは特筆すべきかも。まだ、演説3つ分しか読んでないが、いずれにも意味を成さない個所がある。

本を読んで眠気を誘う人もある。自分の場合、眠くなるのは昼間の読書で、肝心の時間に睡眠を助けてはくれない。

I Knew It

ほ~ら、やっぱり眠れない。

Wednesday, December 06, 2006

I Just Need Some Calmness

15 時間以上、眠った。徹夜明けなんで、仕方ないかとも思うが、情けないことに変わりなし。

何のためにジムに行ったりして、健康を維持しようとしているのか皆目わからん。昨日の夜などは食欲もあり、特に気分が悪い訳ではない。しかし、この睡眠パターンはどう考えてもおかしい。まずまずすっきり目覚める日が1カ月に何日あるだろうか。徹夜しないと仕事に行けないなんて。

Tuesday, December 05, 2006

Yamaguchi-san Chi no Toshio Kun

キーボード故障でショートカット・キーが使えず、入力言語変更にカーソル操作が必要になった……。

“Many Lives, Many Masters” を終えたばかりでpsychic ぶるつもりはないが、夢に登場した人と翌日、あるいは数日後に出会うという経験が何度もある。出会ったときには夢のことを覚えていないことも多く、そんな場合は時間が経過してから「あれ、あの人は確か……」となる。

夢だったのか、それともまだ覚醒中だったのか忘れたが、先日「新自由クラブ」のことを考えていた。田中角栄時代に自民党の金権体質を批判して同党を離れ、河野洋平らが中心になって結成した小政党だが、テレビに出てくるのは決まってと言っていいほど、小さい体と比較してネクタイの結び目がやたらと大きかった山口敏夫だった。

1983年の総選挙直前に出演した「11PM」で当時の山口議員は巨泉に「自民党とは組まないと言えますか」と問われ、「組むことはない」と明言。しかし、選挙後は知らん顔して、自民党と連立しただけでなく、ご本人はその後ちゃっかり労働大臣に収まった。

そんな新自由クラブのことを考えていたら、今日夜のニュースは 旧東京協和、安全両信用組合の不正融資事件で、最高裁が山口元労相の上告を棄却したと伝えている。しかし、この裁判、まだ続いてたんだ。ちなみに、河野洋平は復党して総裁にまでなるが、自民党総裁で首相を務めなかったのはこの人だけ。現在は衆議院議長。

Give Me Sound Sleep, PC in Terminal Condition?, Oppie's Life

Couldn’t sleep at all… Horrible memories were coming back, and that jungle bird was making things even worse. These days the bird seems to have found friends in this neighborhood and it calls to other birds in a very loud and jungle type of shout.

Tried to sleep of course but gave up when the birds started BARKING. Turned to “AM” and finished it.

… In 1960, he visited Tokyo, where reporters greeted him at the airport with a barrage of questions. “I do not regret,” he said softly, “that I had something to do with the technical success of the atomic bomb. It isn’t that I don’t feel bad; it is that I don’t feel worse tonight than I did last night.” The translation of that ambiguously loaded sentiment into Japanese could not have been easy… (p. 564)

… One Christmas dinner [the Oppenheimers] served their guests champagne and Japanese seaweed. (p. 572)

“Japanese seaweed”???? And with champagne???

Oppenheimer’s security clearance was not renewed mainly because of years-old stories of his communist connections. After the hearing (i.e. trial), he is no longer as active in voicing his opposition to the US nuclear policy… The sort of morality Truman and Eisenhower to the arms race with the Soviet Union had should be questioned.

In 1964, Oppenheimer received an advance copy of a book with a startling new interpretation of the decision to use the bomb on Hiroshima. Using such newly opened archival sources as former secretary of war Henry L. Stimson’s diaries and State Department materials related to former secretary of state James F. Byrnes, Gar Alperovitz argued that atomic diplomacy against the Soviet Union was a factor in President Truman’s decision to use the bomb against a Japanese enemy that appeared to be defeated militarily. Atomic Diplomacy: Hiroshima and Potsdam: The Use of the Atomic Bomb and the American Confrontation with the Soviet Power created a storm of controversy…. [Oppenheimer] still thought the Truman Administration had used atomic weapons on an enemy already essentially defeated. (p. 578)

The opinions of those who knew the Oppenheimers are extreme whether positive or negative. I’d rather stay away from these strong, controversial characters even with their intelligence.

On balance, it seems that the couple left more suffering than happiness to their two children. The son, Peter, twice married and twice divorced, ended up as a “contractor and carpenter.” Their daughter, Toni, twice married and twice divorced, killed herself when she was only 31 or 32.

Monday, December 04, 2006

Grow up, My Fellow Japanese

「東日本の」縫製工場が研修で来日したイスラム教徒のインドネシア女性に礼拝や断食の禁止を記した誓約書に署名させていたと読売新聞が報じている。社名を明らかにして、厳しく処分すべきだ。先進国を称される国の中で日本ほど閉鎖性を維持している国はない。労働力としてのみ外国人を受け入れるのであれば、搾取という言葉がぴったり当てはまる。他の民族や文化に何の理解もなく、白人支配からの解放を掲げ、誰もが神国の理念を理解して当然との立場で領土を拡大していった日本軍の思想そのままではないか。成長せよ。

Ahhhhh... (3), Questions Remain about Past Regression

まだ情けない。ずっと情けない……。半覚半眠状態が気分に大きく影響する。腐った食べ物か水を口に入れて吐き出した夢を見た。閉めていた部屋のドアのノブを回す音が聞こえて、目を開けた。正常な状態とは思えない。

“Many Lives, Many Masters” を読んでしまったが、疑問が残る。人間の「一生」は一生ではなく、輪廻によって永遠に継続するという理解がなぜ治療に役立つのか。患者本人が催眠状態で語る過去がなぜ治療に役立つのか。この本が説明しているとは思えない。

PCのキーボードに異変。左矢印、上矢印や「alt」キーが反応しない。「alt」キーなしでは、日本語と英語の切り替えに支障がある。

Sunday, December 03, 2006

Catherine's Amazing Story, PC Trouble

“American Prometheus” はまだ終えていないし、AがBharat からわざわざ持ってきて、プレゼントしてくれたカラム大統領の自伝“Wings of Fire” は始めてもいないが、数日前から“Many Lives, Many Masters” Brian Weiss)を読み始め、すでに半分以上を終えた。患者“Catherine” が語る過去はあっと驚くもので、東洋の宗教思想にある輪廻そのものと言っていい。催眠状態によって数世紀にもさかのぼる過去を語ることがなぜ症状改善に役立つのかは、この本の最後に説明されていることだろう。

ところで、昨日からPCの具合がおかしい。何の操作もしていないのに、MSワードを使用中に下から上へと文章が消されていったほか(暴走)、点滅する「黒い縦線」が勝手に行末に移動する。ウイルス感染をチェックしたが、問題は見つかっていない。ブラウザーの右に表示されるスクロールバーも機能しないことがある。

けさの夢。ジムのトレーナーが実は日本人だった。彼女は大学でトレーニングを学び、著書もある。それから、京都の喫茶店「ミューズ」にいた。店内は自分が知っている「ミューズ」のものではなく、喫茶店と呼ぶよりはレストランらしかったが。

Saturday, December 02, 2006

Flying Train, Welcome by Nakatani Family

昨日見た夢。

白無地の紙を使って、簡単な列車の模型を作っていた。「のりしろ」も計算して。車両は1両に車輪が1対あるだけで短い。目の前にある遊園地のジェットコースターに乗せてみると、問題なく滑走する。車両前部を「流線型」にしようかとも考えたが、工夫することをあきらめた。

1両目がうまくいったので、連結する車両も作った。連結したあと、まとめて走らせてみると、速い。あっと言う間に手の届かない場所まで進んでしまい、見えなくなった。あわてて自転車に乗って町の中を追った。「着地」しそうな場所を推測して、先回りしようとするが遅かったようだ。

着地していたのは、壁に白いペンキが塗られた3畳ほどの建物の上。倉庫のようだったが、内部はわからない。列車はすでに列車ではなく、太い針金を短いゴムチューブを連続させて巻いたものになっていた。先端のチューブは青色だっただろうか。建物の前には女性が2人立っていて、空から飛んできた「この物」について話していた。1人は上新庄アパートの大家さんだった。自分が飛ばしてしまったことを説明して……。そのあと、不明。

上新庄のアパート自体も繰り返すように夢に登場するような気がする。以前の部屋を無断で借りて、大家さんに見つからないように住んでいる夢など。

けさの夢。目覚めた瞬間は覚えていたのに、今はわからない。

以前見た夢を突然思い出すことがあるので、けさの夢の記憶もまた戻ってくるかもしれない。そんな夢のひとつに「たこ焼きの中谷さん」がある。

小さいころ、実家から本町通(直違橋通)を墨染方面に歩くと、「中谷さん」といううちがあって、本業かどうか知らないがたこ焼きを売っていた。ある夢で、その店を訪れると、おばあちゃんもおばちゃんも、店の様子もそのままで(どんな風だったのか記憶がないのに「そのまま」と言うのはいい加減だが)、「よく来てくれた」と歓迎してくれた。店の中にはたこ焼きの出来上がりを待つ人のために長椅子が置いてあり、奥にはテーブルもある。客数は多い。歓迎してくれた中谷さんのおばあちゃんとおばちゃんは、店ではなく家の中に招いてくれて、ごちそうしてくれた。中谷家の人ではないが、その場にいて子供のころをいっしょになつかしんだのは「淳子ちゃん」だった。この子は実家の向かいに住んでいた家族の親戚で、墨染駅の近くに住んでいたはず。夢の中で彼女の姓を思い出そうと必死だったがダメだった。今も思い出せない。

数日前、イタリアのベルルスコーニ前首相が演説中に意識を失ったというニュースがあった。「急に血圧が下がった」らしい。これは自分が倒れるときの症状と同じ。きっと脳天から汗が流れ落ちていたことだろう。

Friday, December 01, 2006

Ahhhhh... (2)

ずっと情けないまま……。

オッペンハイマーが危ない。米国政府の核増強路線に警笛を鳴らし、軍備の現状を明らかにすることを促す(“candor”)が、核開発の機密をソ連側に漏らすよう依頼されたなど、過去の共産党員との付き合いと水爆開発への反対をネタに揺さぶられる。冷戦激化とウィスコンシンのマッカーシー上院議員による「赤狩り」が背景にあるが、Atomic Energy Commission のボス、ルイス・シュトラウス(Lewis Strauss)を筆頭に、オッペンハイマーを個人的に嫌う勢力が彼を葬ろうと躍起だ。政権に都合の悪い考えは排除しようとする姿勢は全体主義と何ら変わるところがない。

公式には、日本本土上陸による米兵の犠牲を回避できたとして原爆投下を正当化する米国政府だが、そんな主張はここでは見られない。核軍備の優位を何とか保とうとするあからさまな軍備増強への意識しか見て取れない。

While in London, Kitty and Robert had dinner one evening with Lincoln Gordon, a classmate of Frank’s at the Ethical Culture School, and someone whom Robert had met in 1946 when Gordon served as a consultant to Bernard Baruch. Gordon would always remember the dinner conversation that evening. Robert was in a somber, reflective mood and when Gordon gingerly mentioned the atomic bomb, Oppenheimer spoke at some length about the decision to use the bomb. He acknowledged that he had supported the Interim Committee’s decision – but he confessed that he “didn’t understand to this day why Nagasaki was necessary….” He said this with sadness in his voice, not anger or bitterness. (p. 476)

Leaving Peter and Toni in the care of his secretary, Verna Hobson, Robert and Kitty boarded a train at Trenton and arrived in Washington in the late afternoon… (p.484)

ニュージャージー州のトレントン駅。1989年の出張の際、プリンストン近くからニューヨーク市に向かうために列車に乗ったあのトレントン駅だ。

Ahhhhh...

また情けない1日だった。

Thursday, November 30, 2006

It's Already 1:30 pm!!

「こうありたい」と思っていたら、爆睡してしまった。会社に着いたのは午後2時半。時計を見て、(すでに遅い)11時半かと思ったら昼を過ぎた1時半だった。時計のアラームをセットするのを忘れたようだ。情けない。仕事のあと、ジムに行けたのが今日の救い。

Tuesday, November 28, 2006

Kakushi Ken, Oni no Tsume (Hidden Blade)

昨日、ジムにも行って、「たそがれ清兵衛」を見たので、こっちもと思っているうちに、店頭から姿を消してしまっていた「隠し剣 鬼の爪」のDVD を買って帰った。S$16.95 まで値下がりしていて助かった。

昨日の夜、買ってきた「隠し剣」を見た。剣は立つがまったく威勢を張ることなく、誠実で生まじめな侍。カネにはあまり縁がない。「たそがれ清兵衛」とよく似た話だが、「片桐」の生き方も見習うべきだろう。

ジムのシャワーから出てきて、鏡で自分を見ると相当顔色が悪かった。酸欠状態のように。

今日。調子よし。明日もこうありたい。

Sunday, November 26, 2006

Old Ford Factory Again

書き忘れていた。1週間か10 日ほど前、Old Ford Factory を再度訪れる機会があった。「祝出征 由西小学校 重村巽先生」の垂幕が、名前はあるが、どこの人なのか手がかりのないものに代えられていた。意図的か。そうだとしたら、悪意に満ちている。

Robert & Kitty and H-bomb

さっぱり眠れんかった。夕べ飲んだビールがもったいない。

Kitty はアル中っぽい。嫉妬深く、激情型で残酷。Robert は冷徹で残酷。知人の言うことはさまざまだが、人としてはあまりいい印象を与えていない。友人にはしたくないタイプだと思う。

1949 年8月29 日。ソビエト連邦がカザフで核実験を行ったことで、米国の核兵器を巡る議論も変化する。水爆(“Super”)開発を進めて軍事的な優位維持を狙う、エドワード・テラーらの科学者を含む強硬派に対し、交渉によって核不使用を制度化したいオッペンハイマーだが、交渉実現が難しいと悟っていく。52 10 31 日(米国時間)、米国は太平洋のマーシャル諸島で10.4 メガトンの水爆実験「マイク」を実施。都市全体を破壊する威力のある水爆使用に反対することで、戦術核の開発と使用の可能性を高めてしまう皮肉もある。

Lebanon, November 89, Hiroshima and after the Bomb

レバノンのピエール・ジェマイエル産業相が暗殺されたのは21日。「ジェマイエル」の名は、レバノン政治中心のひとつ。1989 11 月、初めて訪れた米ニューヨーク。マンハッタンをひとりで歩いていると、タイムズスクエアの電光ニュースはレバノン大統領(Muawwad)暗殺の速報を流していた。

このときのアメリカ行きは、出発時点から大ニュース続きだった。

成田空港内のテレビは、中華人民共和国の鄧小平が最後まで握っていた軍トップの地位を譲ると報じていた。オレゴン州ポートランドを経由して到着したのは五輪開催が決まったアトランタで、チェックインしたのは郊外の「ホリデーイン」。部屋のテレビ画面に最初に映ったのは現副大統領のチェイニー国防長官だった。何やら、大事件らしい。そう、東西ベルリンを隔てていた壁が崩されているまさにその時だったのだ。

出張中、仕事そっちのけで新聞とテレビに没頭していたことは言うまでもない。

広島市内への原爆投下成功の知らせにLos Alamos は複雑な感情に満ちた。

Later in the day (August 6, 1945), the news was announced over the Los Alamos public address system: “Attention please, attention please. One of our units has just been successfully dropped on Japan.” Frank Oppenheimer was standing in the hallway right outside of his brother’s office when he heard the news. His first reaction was “Thank God, it wasn’t a dud.” But within seconds, he recalled, “One suddenly got this horror of all the people that had been killed.” (pp. 315-316)

… That evening a crowd gathered in an auditorium. One of the younger physicists, Sam Cohen, remembers a cheering, foot-stamping audience waiting for Oppenheimer to appear. Everyone expected him to come onstage from the auditorium wings, as was his custom. But Oppenheimer chose to make a more dramatic entrance from the rear, making his way up the center aisle. Once onstage, according to Cohen, he clasped his hands together and pumped them over his head like a prize-fighter. Cohen remembers Oppie telling the cheering crowd that it was “too early to determine what the results of the bombing might have been, but he was sure that that Japanese didn’t like it.” The crowd cheered and then roared its approval when Oppie said he was “proud” of what they had accomplished. By Cohen’s account, “his [Oppenheimer’s] only regret was that we hadn’t developed the bomb in time to have used it against the Germans. This practically raised the roof.”

It was as if he had been called upon to act out a stage role, one to which he was truly not suited. Scientists are not meant to be conquering generals. And yet, he was only human and so must have felt the thrill of pure success; he had grabbed a metaphorical gold ring and he was happily waving it aloft. Besides, the audience expected him to appear flushed and triumphant. But the moment was short-lived.

Alice Kimball Smith later insisted that “certainly no one [at Los Alamos] celebrated Hiroshima.” But then she admitted that ‘a few people” tried to assemble a party in the men’s dormitories. It turned into a “memorable fiasco. People either stayed away or beat a hasty retreat.” Smith, to be sure, was referring only the scientists, who appear to have had a decidedly muted – and different – reaction than the military enlisted men. [Ed] Doty [a soldier] wrote home: “There were parties galore. Invited to three of them, I managed to get to only one…. It lasted until three.” He reported that people were “happy, very happy. We listened to the radio and danced and listened to the radio again… and laughed and laughed at all that was said.” Oppenheimer attended one party, but upon leaving he saw a clearly distraught physicist retching his guts out in the bushes. The sight made him realize that an accounting had begun.

Robert Wilson had been horrified by the news from Hiroshima. He had never wanted the weapon to be used, and thought he had grounds for believing it would not be. In January, Oppenheimer had persuaded him to continue his work – but only so that the bomb could be demonstrated. And Oppenheimer, he knew, had participated in the Interim Committee’s deliberations. Rationally, he understood that Oppie had been in no position to make him any firm promises – that this was a decision for the generals, Secretary of War Stimson and, ultimately, the president. But he nevertheless felt his trust had abused. “I felt betrayed,” Wilson wrote in 1958, “when the bomb was exploded over Japan without discussion or some peaceful demonstration of its power to the Japanese.”

Wilson’s wife, Jane, happened to be visiting San Francisco when she heard the news about Hiroshima. Rushing back to Los Alamos, she greeted her husband with congratulatory smiles, only to find him “very depressed,” she said. And then, three days later, another bomb devastated Nagasaki. “People were going around banging garbage can covers and so on,” Jane Wilson recalled, “and he wouldn’t join in, he was sulking and unhappy.” Bob Wilson recalled, “I remember being just ill… sick… to the point that I thought I would be – you know, vomit.” (pp. 316-317)

On August 14, Radio Tokyo announced the government’s acceptance of this clarification (“the authority of the emperor to rule would be ‘subject to the Supreme Commander of the Allied Powers…’”) and, therewith, its surrender. The war is over – and within weeks, journalists and historians began to debate whether it might have ended on similar terms and around the same time without the bomb. (p. 318)

At noon on Friday, September 21, 1945, Oppenheimer went to say farewell to Henry Stimson. It was both Stimson’s last day in office as secretary of war and his seventy-eighth birthday. Oppenheimer knew that Stimson was scheduled to give a parting presentation a the White House that afternoon in which he would advocate, “very belatedly,” thought Oppenheimer, the case for “an open approach on the atom….” By Stimson’s diary account, he would bluntly tell President Truman that “we should approach Russia at once with an opportunity to share on a proper quid pro quo the bomb.”

… Stimson asked him to accompany him to the Pentagon barbershop, where he had his thin gray hair trimmed. When it was time to go, Stimson rose from the barber’s chair, shook Oppenheimer’s hand and said, “Now it is in your hands.” (p. 322)

核兵器を開発して戦争を終わらせたオッペンハイマーは、全米で賞賛される。

さて、原爆がドイツではなく、日本に投下されたことについて、「人種差別的な考慮によるもの」との意見が日本にはあるが、この本による限り、その批判は正しくない。原爆はドイツ降伏時にはまだ開発中であり、ドイツの降伏を知ったオッペンハイマーは「間に合わなかった。遅すぎた」と言い、上に引用したように、対ナチスに使用できなかったことを悔やんでいる。

[Oppenheimer] soon began to make his private brooding public. “We have made a thing, a most terrible weapon,” he told an audience of the American Philosophical Society, “that has altered abruptly and profoundly the nature of the world… a thing that by all the standards of the world we grew up in is an evil thing. And by so doing… we have raised again the question of whether science is good for man….” The father of the atomic bomb explained that it was by definition a weapon of terror and aggression. And it was cheap. The combination might someday prove deadly to whole civilizations. “Atomic weapons, even with what we know today,” he said, “can be cheap… atomic armament will not break the economic back of any people that want it. The pattern of the use of atomic weapons was set at Hiroshima.” The Hiroshima bomb, he said, was used “against an essentially defeated enemy… it is a weapon for aggressors, and the elements of surprise and terror are as intrinsic to it as are the fissionable nuclei.” (pp. 323-324)

After Hiroshima and the end of the war, such work, he said, was felt to be “against the dictates of their hearts and spirits.” He was a scientist, he told a reporter disdainfully, not an “armaments manufacturer.” Not every scientist, of course, felt this way. Edward Teller was still promoting the ”Super” to anyone with the patience to listen. When Teller asked Oppenheimer to urge that research on the Super continue, Oppie cut him short: “I neither can nor will do so.” It was a reaction that Teller would never forget – or forgive. (p. 325)

When President Truman issued his message to Congress on October 3, 1945, many scientists initially thought it reassuring. Drafted by Herbert Marks, a young lawyer working for [Secretary State Dean] Acheson, the message urged Congress to establish an atomic energy commission with power to regulate the entire industry. Unbeknownst even to Washington insiders, Oppenheimer had helped Marks write the message. Not surprisingly, it reflected Oppie’s own sense of urgency about both the dangers and the potential benefits of atomic energy. The release of atomic energy, Truman pronounced, “constitutes a new force too revolutionary to consider in the framework of old ideas.” Time was of the essence. “The hope of civilization,” Truman warned, “lies in international arrangements looking, if possible, to the renunciation of the use and development of the atomic bomb….” Oppenheimer thought he had won the president’s commitment to seek the abolition of atomic weapons. (pp. 325-326)

… [A]t 10:30 am on October 25, 1945, Oppenheimer was ushered into the Oval Office. President Truman was naturally curious to meet the celebrated physicist, whom he knew by reputation to be an eloquent and charismatic figure. After being introduced by Secretary Patterson, the only other individual in the room, the three men sat down. By one account, Truman opened the conversation by asking Oppenheimer’s help in getting Congress to pass the May-Johnson bill, giving the Army permanent control over atomic energy. “The first thing is to define the national problem,” Truman said, “then the international.” Oppenheimer let an uncomfortably long silence pass and then said, haltingly, “Perhaps it would be best first to define the international problem.” He meant, of course, that the first imperative was to stop the spread of these weapons by placing international controls over all atomic technology. At one point in their conversation, Truman suddenly asked him to guess when the Russians would develop their own atomic bomb. When Oppie replied that he did not know, Truman confidently said he knew the answer: “Never.” (P. 331)

… Finally, sensing that the president was not comprehending the deadly urgency of his message, Oppenheimer nervously wrung his hands and uttered another regrettable remarks that he characteristically made under pressure. “Mr. President,” he said quietly, “I feel I have blood on my hands.”

The comment angered Truman. He later informed David Lilienthal, I told him the blood was on my hands – let me worry about that.” But over the years, Truman embellished the story. By one account, he replied, “Never mind, it’ll all come out in the wash.” In yet another version, he pulled his handkerchief from his breast pocket and offered it to Oppenheimer, saying, “Well, here, would you like to wipe your hands?”

[After the meeting,] the President was heard to mutter, “Blood on his hands, dammit, he hasn’t half as much blood on his hands as I have. You just don’t go around bellyaching about it.” He later told Dean Acheson, “I don’t want to see that son-of-bitch in this office ever again.” Even in May 1946, the encounter still vivid in his mind, he wrote Acheson and described Oppenheimer as a “cry-baby scientist” who had come to “my office some five or six months ago and spent most of his time wringing his hands and telling me they had blood on them because of the discovery of atomic energy.” (p. 332)

冷戦の本格化とともに米国の「赤狩り」が始まる。カリフォルニア時代に米国共産党員との付き合いがあり、左翼思考の強かったオッペンハイマーも当然調査の対象となる。フーバー長官のFBI が放っておくわけがない。一方、妻Kitty との仲は……。

Saturday, November 25, 2006

Crustacean Enigma Solved

“Prawn” “shrimp” の謎。

この2つの語句、エビの大きさによって使いわけることは知っていた。“Shrimp” の方が大きい種。そうだとすると、どちらも食用なので店に“shrimp” と書いて売られているものがあってもいいのにと思っていた。それが、“shrimp” は抹殺されたように見当たらない。どこで大小を区別するかは動物学的だが、一般的に両語は「区別なく」使用されているようだ。

英国領だった国や地域では、“Prawn” が圧倒的に優勢。米国や日本では“shrimp” が使われているらしい。やっと納得した。

Wednesday, November 22, 2006

Brian Weiss

高島屋に戻って寄った紀伊國屋では、Brian Weiss “Many Lives, Many Masters” を買った。心理学の場所をしばらく探してないので、あきらめかけたら“new age” の書棚にあるのを見つけた。

Strangely Happy Day

目覚めだけではなく、不思議な日だった。

午前中、めったに連絡し合わないL から体調を心配するSMS をもらい、昼食の際にはGMS のインストラクターだったT さんに会った。3年ぶりだろうか。

仕事のあと、白い“Nintendo DS lite” を求めてオーチャードへ。白限定。Paragon Toys“R”us にはあったものの、ゲームソフトとセット販売だった。高島屋のおもちゃ売り場はDS そのものを売ってなかった。そこでひらめいたのは、専門店やデパートに行くからないのであって、ラッキープラザのどっちかというと観光客向けの店にはあるかもしれないということだった。

案の定、ラッキープラザにはあった。しかも、他より安く。ラッキー。

Let's Talk about Your History Too

歴史認識を正そう。

韓国新統一相、朝鮮戦争しぶしぶ「南侵」拉致「事実かどうか(産経新聞)
 【ソウル=黒田勝弘】「朝鮮戦争が北の侵略戦争だったかどうか言えない」「北による外国人拉致など事実かどうかは判断できない」-が韓国で盧武鉉 大統領によって新しい統一相に指名された李在禎氏(62)が、国会の人事聴聞会であまりにも親・北朝鮮的な姿勢を見せ問題になっている。ハンナラ党な ど野党陣営は「南北関係を担当する統一相にはふさわしくない人物」として正式任命には反対しているが、盧大統領はそのまま任命強行の方針だ。
 李氏は神学博士号を持つ英国聖公会系の牧師出身。左派・親北のキリスト教反政府活動家として知られ国会議員も務めた。盧大統領当選に功績があり、先の内閣改造で統一相に起用され保守派などから強い懸念の声が上がっていた。
 李氏は国会聴聞会で「金日成をどう評価するか?」と聞かれ「(評価は)歴史がやることだが歴史的に(まだ)整理されていない」と回答を避け、「朝鮮戦争は北による侵略と思うか?」との質問にもしばらく沈黙した後、「自分がここで言うのは適切でない」と述べた。
 質問者が「北を非難したくないというのは分かるが、歴史的事実には明確な認識が必要だ」とさらに追及したためやっと「南侵という事実はすでに規定されている」としぶしぶ答えた。
  また「スパイ事件やドル偽造、麻薬密売など北朝鮮による国際的な不法行為が拡散しているが」との質問に対しては「確証がない」と述べ、「北では拷問、公開 処刑、女性の人権侵害、外国人拉致なども起きているが」という質問に対しても「民主化された国でも似たようなことがある。そうしたことは検証する方法が ないので事実かどうか判断することはできない」と答えた。
 拉致事件に関しては、日本人拉致にかかわったとして日本政府が国際手配したキム・ミョンスクや辛光洙容疑者(韓国政府が北に送還)について韓明淑首相は国会答弁で「(そんな人物は)知らない」と答えている。
 さらに李氏は「過去、韓国の軍事政権は統一の障害物として批判したが北の軍事政権は批判しないのか?」との質問には「北はともに統一すべき相手であり、わが国の内部体制を批判することと北を批判することは違う」と述べるなど、最後まで北朝鮮に対する批判、非難は避けた。
 盧政権は対北政策で表向き対米協調や日米韓協力を強調しているが、今回の統一相人事をはじめ国内的には依然、親北姿勢を維持、強化するなど二重性が目立つ。

途中で何度か目が開いたけど、前日寝てないだけあって、けさ、スッキリ。何カ月ぶりだろう。うれしい。

Tuesday, November 21, 2006

Man with a Thousand Faces, 64 Years Old

「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスって64 歳だって。昭和45 年に初来日(初戦の相手は星野勘太郎。スパイロス・アリオンと同時に来日)する前、「まだ見ぬ強豪」のひとりだったころから知ってるけど、驚いた。現役。

Damn It!! This Is Going to be a Hard Day

やっぱり眠れんかった。人の迷惑になるのもいい加減にしないと……。

心理以外にひとつ、眠りを邪魔しているものがある。最近数週間(と言うか、それ以前は気づいていなかったが)、毎朝5時ごろから夜明けまで大声で叫び続ける鳥がいる。(実際には鳥かどうかも確認できないが。)「ちゅんちゅん」とか「か~か~」ではなく、聞いたことのないサイレンのような鳴き声。仲間を呼んでいるようにも聞こえる。耳栓をしても十分うるさく、眠りを妨げられる。苦情好きのシンガポールの人、ここのコミュニティー・カウンシルに訴えてほしい。

I need help...

この落ちてしまいそうな気分。何とかしてほしい……。I need help…

Laywer or Nurse

独28人殺害:元介護士に無期 「患者へ同情」で薬物注射(毎日新聞)
 【ベルリン斎藤義彦】ドイツ南部のケンプテン地裁は20日、病院で患者28人を薬物注射で殺害したとして殺人罪などに問われた元介護士の男(28)に、求刑通り無期刑を言い渡した。元介護士は患者への同情から殺害したとしている。
 判決によると元介護士は03~04年にかけ独南部ゾントフォーフェンの病院で、高齢や重病の患者計28人に複数の薬物を混ぜた注射を行い、殺害した。判決は12人を殺人罪、15人をより罪の軽い故殺罪、1人を自殺ほう助罪で有罪とした。
 元介護士は、起訴事実の認否で殺害を認めたものの、個別の事案については「多くを覚えていない」と証言を避けた。弁護士は「患者への同情心から行った」として、殺意が十分でない場合に適用される故殺罪や、無罪を主張していた。
 専門家は介護の重い負担が動機となったのではないかとみている。

28人殺害の看護師に終身刑(日刊スポーツ)
 ドイツ南部ケンプテンの裁判所は20日、入院中の患者28人に薬物を注射して殺害したとして殺人罪などに問われた元看護師の男(28)に求刑通りの終身刑を言い渡した。ドイツ公共ラジオなどが伝えた。
 判決によると、男は南部ゾントホーフェンの病院で働き始めた直後の2003年初めから、逮捕された04年7月までの間、病院内で盗んだ薬物を高齢の患者らに注射するなどした。男は公判で、患者に同情したのが殺害の理由だと説明していた。

Monday, November 20, 2006

Another Episode/Bout or Whatever You'd Call It...

今までの経験から、用心しないといかん。このまま真っ逆さまの可能性も否定できないから。「負の連鎖」を切断しないと。

放送を開始したAl Jazeera International のライブが少しだけネットで無料視聴できる。うちでもテレビで見られるとうれしいんやけど。

Hiroshima Bombed and Budding of Cold War

The atomic bombs that Oppenheimer had organized into existence were going to be used. But he told himself that they were going to be used in a manner that would not spark a postwar arms race with the Soviets. Shortly after the Trinity test, he had been relieved to hear from Vannevar Bush that the Interim Committee had unanimously accepted his recommendation that the Russians be clearly informed of the bomb and its impending use against Japan. He assumed that such forthright discussions were taking place at that very moment in Potsdam, where President Truman was meeting with Churchill and Stalin. He was later appalled to learn what actually happened at that final Big Three conference. Instead of an open and frank discussion of the nature of the weapon, Truman coyly confined himself to a cryptic reference: “On July24,” Truman wrote in his memoirs, “I casually mentioned to Stalin that we had a new weapon of unusual destructive force. The Russian premier showed no special interest. All he said was that he was glad to hear it and hoped we would make ‘good use of it against the Japanese.’” This fell far short of what Oppenheimer had expected. As the historian Alice Kimball Smith later wrote, “what actually occurred at Potsdam was a sheer travesty….” (pp. 314-315)

1945 年8月6日、午前8時14分。「エノラ・ゲイ」が広島にウラン原爆を投下。

Psychiatric Pendulum

けさ(日曜日)までまったく眠れんかった。悔しい。

午後、ムリやり眠ろうとしてけど、あんまり深く眠れなかった……。

夕方、目覚めたのに、またゴロゴロしていた。今回は「サスケ」が発端かもしれない。ちょっと「興奮する」と、「揺り戻し」がやって来る。特になつかしい、子供のころの何かが対象だとそうなるようにも感じる。子供に戻りたいということか。

Sunday, November 19, 2006

William Styron

At 60, when he gave up alcohol (“an invaluable senior partner to my intellect”), Styron fell victim to depression. Visiting Paris to receive an award for “Sophie’s Choice”, he was overcome by a pain of “ferocious inwardness”. “Darkness Visible” (1990), his last work, was an unflinching study of this “despair beyond despair”. Depression, Styron argued, was not a matter of frailty or weakness but of unendurable pain; a death sentence…

… In 1985 Styron decided to take his own life. To his immense annoyance, he found that eloquent parting words failed him. Unabled to compose a suicide note, he abandoned the idea… (The Economist, November 11)

そう簡単に決められないんや。この病を経験し、命を絶とうとした人なら、理解できる。

Two Nightmares in One Night

金曜日、仕事に行けなかったので気分が悪く、さっさ寝ようとした。また蚊に襲われた。それから「“声が出せない・動けない”悪夢」が2つ。

左右に窓がある部屋。ベッドで寝ていると、開けたままの両側の窓から強風。窓に掛けられたカーテンが激しく揺れて寝ている自分に触れる。それを嫌がってもがき苦しんでいた。大声で叫ぼうとしたが、こんな夢の場合にお決まりのように声がでない。「うぅぅぅっ」と言うのが精一杯。力を振り絞って、カーテンを掴んだ。カーテンから連想されるもの、何やろ。

数々の場面。混雑した列車でKalamazoo に到着。途中の駅の公衆トイレ。タバコのポイ捨てをチェックする人。入寮するために荷物を運ぶ。それぞれに2つのベッドが置かれている3つの部屋がつながった構造のスペース。学校の寮にしてはかなり豪華。部屋のテーブルに置いたRay-Ban のサングラス。登場した人の数は多いが、脈略なし。

5~6匹の犬。よくなついてくれてかわいい。 いつもいっしょにいようとしたのか、虫ほどの大きさになる。「身につけて」行動する。

父親が兄弟それぞれに600 万円の預金を残していたことが発覚。実家のタンスからオランダの銀行の預金証書が見つかる。正夢ならいいと期待もできない夢。

またベッドで寝ている場面。起き上がろうとしても体が重くてできない。叫ぶこともできない。

夢から覚めたのは午後5時だった。鼓動が落ち着くまで、数時間かかった。ドキドキではなく、「上滑り」しているような鼓動。結構つらい。今日は出国せねばならぬ日だったので、木曜日に大使館で受け取った新しい旅券を持って出かけた。

Friday, November 17, 2006

Oh No...

目覚めると午後7時前だった。昨日は元気、けさはだめ、何が理由か教えてよ。またか……。

昨日はジムに行った。兄から手紙やら年金に関する書類が届いていた。手紙に気分に影響するような内容はなし。ネットで「忍者サスケ」の主題歌が聞けるサイトを発見。繰返して何度も聞いた。そして歌った。

眠ろうとすると、蚊に襲われた。殺虫剤をスプレーし、ドアと窓を閉めて、クーラーをつけた。

夢は電車の駅や病院だった。数年帰国しないうちに自動改札機の様子も変わったようだ。従来の改札機の先端上部には、それに交差する2つめの改札機が設置されていて、カードがどこから出てくるのかわからなかった。機械は大きなものではなく、黒ペンキが塗られていた。券売機で買った切符ではなくて、交通機関共通らしいカードを使っていたのはなぜだろう。日本で使ったことのあるカードらしきものと言えば定期券しかなかったのに。

駅ホームに進もうとしても方向がわからない。1階下のホームを窓からのぞくと、先頭車両にだけ乗車しようとする人だかりが見えた。その電車が南方面(大阪方面?)行きだと気づいて、「島型」ホームの反対側に降りようとすると、ここにも大勢の人。窓を乗り越えて、傾斜のついた軒にまで人があふれていた。「電車に乗りたければ、軒に下りて来い。そこからホームに飛び降りるから」と言われたのか、自分も窓を越えた。到着した電車はすぐに満員となって、それには乗れずじまいだった。

病院は、診療所と言ったほうがいいほどで大きくなかった。狭い階段を上がると入口。母親が入院しているようで、病院の人に様子をたずねようとすると本人が現れた。兄からの手紙が母親の近況について書いていたし、最近毎週のように電話があるからなぁ。会話したのかどうかは不明。保険加入を継続するには入金が必要だと病院から聞かされ、思案する。5万円を越える金額だった。

同じ病院でソフトレンズを買おうともしていた。左レンズを紛失して、ソフトにすることを決心したようだ。右レンズをはずすと、周辺が割れて欠けていて、使うのがあぶない状態だった。レンズが巨大化していたり、ひび割れていたりする夢は、これまで何度も見ている。

それから、吹奏楽部の練習の夢も。自分は、とっくに高校を卒業した人で、練習には参加させてもらえず、離れた場所から眺めていた。

Thursday, November 16, 2006

World's First Nuclear Bomb Test

Meanwhile, a group of scientists in Chicago spurred on by [Leo] Szilard, organized an informal committee n the social and political implications of the bomb. In early June 1945, several members of the committee produced a twelve-page document that came to be known as the Franck Report, after its chairman, the Nobelist James Franck. It concluded that a surprise atomic attack on Japan was inadvisable from any point of view: “It may be very difficult to persuade the world that a nation which was capable of secretly preparing and suddenly releasing a weapon as indiscriminate as the [German] rocket bomb and a million times more destructive, is to be trusted in its proclaimed desire of having such weapons abolished by international agreement.”… Truman never saw the Franck Report; it was seized by the Army and classified. (p. 297)

One day, Oppenheimer called Robert Wilson into his office and explained that he was a consultant to the Interim Committee that was advising [Secretary of War Henry L.] Stimson on now the bomb should be used. He asked Wilson for his views. “He gave me some time to think about it…. And so I came back and said I felt that it should not be used, and that the Japanese should be alerted to it in some manner.” Wilson pointed out that in just a few weeks they would be conducting a test of the bomb. Why not invite the Japanese to send a delegation of observers to witness the test? (p. 298)

科学者たちは、米国政府が日本の暗号をすべて解読しており、「無条件降伏」を「国体護持の条件付き」にした上で、ソ連を仲介にしてまで終戦を図ろうとしていることを詳細には知らなかった。知っていれば原爆投下への反対はもっと激しかったに違いない。

Two weeks after Oppenheimer wrote his June 16 memo summarizing the views of the science panel, Edward Teller came to him with a copy of a petition that was circulating throughout the Manhattan Project’s facilities. Drafted by Leo Szilard, the petition urged President Truman not to use atomic weapons on Japan without a public statement of the terms of surrender: “… the United States shall not resort to the use of atomic bombs in this war unless the terms which will be imposed on Japan have been made public in detail and Japan knowing these terms has refused to surrender…” Over the next two weeks, Szilard’s petition garnered the signatures of 115 Manhattan Project scientists. A counter-petition mustered only two signatures. (p. 302)

そして、1945 年7月12 日午前5時30 分、米国は人類初の核兵器実験を秘密裡に実施する。

Sunday, November 12, 2006

My Glass Is Less Than Half Full. But It Has Almost Stopped Leaking

仕事のことやけど、「やっぱりダメやった」と思いたくない。ほとんど空っぽやったコップに少しずつ水がたまり始めてる。まだ空の部分を見るか、たまった部分を見るかの違いや。コップの底にある穴も小さくなってきてる。それから、日本に帰る選択は今はない。この国にいるのが偶然の結果やったとしても、ここにいる以上、ここに留まりたい。

Saturday, November 11, 2006

Mukashi, Mukashi...

昔をなつかしむようではあかんけど、「カリキュラマシーン」に「新八犬伝」からさらにさかのぼると、「吉本」「松竹」に行き着く。

吉本所属で「ロボタン」にも声優で出演していたルーキー新一の「いや~ん、いや~ん」は子供がマネし、「これはエライことですよ。これは」もあった。「ん~っ、ん~っ、ちょーだい!」の財津一郎も吉本にいた。

すでに藤山寛美時代やったけど、秀哉、慶四郎の両小島、月城小夜子の松竹新喜劇と吉本新喜劇は、土日の関西の午後にはなくてはならん存在やった。あんなにテレビ見て笑うことてなくなったなぁ。今、ベテランとなってしまった吉本の当時若手、コメ1、三枝、やすし・きよし、仁鶴らの番組で、「体力の限界に挑戦する」「爆笑寄席」(関西テレビ:怒ってる~のね、??ちゃん。泣いてる~のね、さゆりちゃん。ルミ子ちゃんも、マリちゃんも寄っといで~)もあった。「怒ってる」のは誰やったっけ?「細腕繁盛記」をギャグにした週で、三枝のセリフ「中でみな聞きました」もなぜか覚えてる。吉本傍系の(テレビでみんな見る)「お笑いトップホット」(奥津由三、赤井タンク、「動物いじめ」の桂朝丸)もあったなぁ。

花紀京と岡八郎の2人コント「だましやがったなぁ!」。原哲男の「誰がカバやねん」。「カバ」は沢田研二と田中裕子が夫婦で共演している「大阪物語」に出演してる。数年前、この映画を日本人会で見たとき、彼がスクリーンに登場すると「おーっ」と男性が声を上げた。関西人に間違いない。

「はんじ・けんじ」の「ダイビング・クイズ」。「いとし・こいし」の(10万円、7万円、5万円、運命の分かれ道!)「がっちり買いましょう」。両親が(と)見ていた日曜日夜の「夫婦善哉」(ミヤコ蝶々)に鳳啓介・京唄子の「おもろい夫婦」。毎日放送・斎藤努アナウンサーが(多少)カッコよくて、仁鶴夫人「たかこ姫」も出てた「ヤングおー!おー!」(日清カップヌードル)。「ニッポンの常識です!」は映画の題名やったかな?もう少し若い「先輩」にもなる鶴瓶はアフロヘアにオーバーオールだった。
コマーシャルでは、「メタル・インドカレ~」に「リボンちゃん」(リボン・シトロン)などなど。

Friday, November 10, 2006

Me... His Father's Generation

昨日は元気、けさはだめ、何が理由か教えてよ。

毎日新聞万能川柳から:父南海 兄ダイエーと言うホークス(神奈川 荒川淳)

Wednesday, November 08, 2006

Fatah+Israel+US, Pigeon, A-bomb, etc.

!!! “… [A]n unofficial alliance between Fatah, Israel and the United States has begun to consider a military way to force Hamas out.  In the name of ‘security reform’, America is financing a training camp outside Jericho for the Palestinians’ Force 17, a recruitment pool for the presidential guard.  Israel has sanctioned the transfer of heavier weapons and allowed Fatah’s Tanzim militia to rearm…” !!!  (The Economist, November 4th)

自民党造反議員の復党問題。戻すことに反対している議員より、「戻してくれ」と頼んでいるヤツらの方がよっぽど問題。

核保有議論封鎖問題。鳩山さん(民主)には西村真悟政務次官(当時)が核武装を論じたときの自分自身の発言を思い出してもらいたい。ハトさんにはもう魅力なし。

Daniel Ortega wins Nicaragua presidential election.
Republicans loses House majority in US.

“American Prometheus” は、重要な章(“Now We’re All Sons-of-Bitches”)に入った。ドイツ降伏で原子爆弾の投下目的がなくなったあと、米国政府はすぐに日本に目を向ける。

まず、1945 年3月の東京大空襲について。

The fire bombing was no secret.  Ordinary Americans read about he raids in their newspapers.  Thoughtful people understood that strategic bombing of cities raised profound ethical questions.  “I remember Mr. Stimson [the secretary of war] saying to me,” Oppenheimer later remarked, “that he thought it appalling that there should be no protest over the air raids which we were conducting against Japan, which in the case of Tokyo led to such extraordinary heavy loss of life.  He didn’t say that the air strikes shouldn’t be carried on, but he did think there was something wrong with a country where no one questioned that…” (p. 293)

ソ連に開発の情報を原爆使用の前に明らかにして、戦後の軍備競争を防ごうとするOppie Bohr ら、また5月31日の“Interim Committee” でソ連の科学者を核実験実施の際に迎えてはどうかというGeorge Marshall 将軍の考えは、受け入れらなかった。

But [James F.] Byrnes was already beginning to think of the bomb as an American diplomatic weapon.  Running roughshod over Oppenheimer’s and Marshall’s arguments, the secretary of state-designate reinforced Lawrence by insisting that they had to “push ahead as fast as possible in [atomic] production and research and make certain that we stay ahead and at the same time make every effort to better our political relations with Russia.”  (p.295)

The Soviets would not be adequately informed about the Manhattan Project, and the bomb would be used on a Japanese city without warning.  (p. 297)

Shin Hakkenden!

昔はテレビ局でもビデオテープが高価で、古い録画は消去して使っていたらしい。そんなわけで、子供のころあんなにあんなにあんなに必死になった「新八犬伝」のテープはDVD 化された数話分しか残っていないそうだ。3冊セットになった(発売は順次)NHKの「新八犬伝」。彼が講談師風のイラスト衣装を着て、人形たちに囲まれているジャケットだった坂本九のシングルレコード(以下2曲)……。

回る回る回る因果は糸車。回る回る回るお日様笑い顔。明日は~どんな人に会うだろう~。地震、カミナリ、火事、怨霊。矢でも鉄砲(テッポ)でも、持ってこいこいドンドンドンドン。大きな気分でいってみよう!仁義礼智忠信考悌!いざとなったら珠を出せ。力が溢れる不思議な珠を!!

♪ 夕焼けの空を君は見てるか。真っ赤なまぶたに涙をためて~。ひとりぼっちじゃないんだ。ま~だ知らないだけなんだ。胸を割り、心開いて~。語り合い、信じあう友はきっと~。どこかで、どこかで~、待~っている。夕焼けの空は僕たちの血の色。愛し合い、助け合う誓いの赤。

滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」は子供用から一般向けまでいろんな出版社のを買ってもらった。

「新八犬伝」の映像や音声を探している人たちが大勢いるようだ。自分はなぜあの番組にあんなにも一生懸命になったのだろう。ある日、うちにあった「オープンリール式」のテープレコーダーを持ち出し、テレビから直接録音するための接続方法がわからないので、テレビの前にレコーダーを置いて、録音を始めた。そんなときに限って電話が鳴ったりする悲劇もあった。見始めたときは、すでに放送が開始されていた。記憶では、犬飼現八が犬山角太郎を探して上野国を訪れるあたりから見始めたようだ。

そのうち、フィンガーファイブが(おそらくナショナル製)カセットテープレコーダーのコマーシャルを始め、これを小学校の近くにあった電気店で買ってもらった。番組の開始とともに「せいのっ」で録音ボタンを押し、せっせとテープを集めていた。(どこへ行った、あのたくさんの録音テープ……)また、学校では、八犬士や玉梓が怨霊、網乾左母二郎(「さもしい浪人、網乾左母二郎たぁ、俺のこったぁ」)など、登場キャラクターのイラストを授業の間の休憩時間に描いていた。同級生が自分に描いてもらおうと、列を作っていた時期もあった。カッコよさでは犬塚信乃と同格だったが、いちばん描くのが難しいのは犬山道節。英国の衛兵の帽子みたいなあの髪型がどうなっているのか今でも知りたい。

奈良県の「あやめ池遊園地で」あった「新八犬伝」展示にも連れて行ってもらった。遠かった。どこでもらえたのか覚えてないが、八つの珠の「ゴムボール」ももっていた。映画も見に行った。

辻村ジュサブローさん作の人形を何とかもっと知りたいと裃や袴に関心を持ち、時代劇ドラマも見て「研究」していることを知った近所のおばあちゃんは、自分用に「ちゃんちゃんこ」を作ってくれた。そのころのドラマで好きだったのは、高橋英樹の「ぶらり新兵衛:道場破り」。♬ 新兵衛さんの長屋は十六軒。つ~るとふたりでぶ~らぶら。

それから、何度も三味線を習いたいと思うことがあるのも、藤井凡大さんが作曲したあのイントロ曲が原因だ。ホントは琵琶じゃないかと思うが。和服がほしいと思うのも「新八犬伝」だ。

里見義実、房姫、八房、舟虫、役の行者(旅の衣はすずかけの~)、扇谷定正……。尽きない。「南総里見八犬伝」をもう一度読んでみたい。

「新八犬伝」から「日航ジャンボ機墜落事件」を連想してしまう。

Sunday, November 05, 2006

Sophie's Choice, Tatlock, Bohr, Ortega...

“Sophie’s Choice” の著者、William Styron が3日前に亡くなった。もっと早く読んどけばよかった。今日、ジムのあと紀伊國屋に行こうとしたけど時間が遅すぎたので、DVD だけでも見ておこうと思ってHMV 行ったけど見つからなかったBorders に行けばよかったと、あとで思いついた。

By the mid-1980s, he was suffering severe depression and spent some time in hospital after coming near to suicide.

"Death was now a daily presence, blowing over me in cold gusts," he wrote in Darkness Visible. (BBC)

20年以上前の話やけど、バイト先の先輩が“Sophie’s Choice” を読んでいたのを思い出す。

“American Prometheus” はゆっくりとしか進んでいない。Oppie と一時期いい仲で、サイカイアトリストになったJean Tatlock は、自ら命を絶った。原因は不明だが、同性愛を苦にしたとの説もあるという。

… “‘Jean was Robert’s true love,’ a friend would later say. ‘He loved her the most. He was devoted to her.’” (p. 114)

“Some time after Jean’s death, one of her friends, Edith Arnstein Jenkins, went for a walk with Mason Roberson, an editor of People’ World. Roberson had known Jean well and he said that Jean had confided to him that she was a lesbian; she told Roberson that in an effort to overcome her attraction to women she ‘had slept with every ‘bull’ she could find. This prompted Jenkins to recall one occasion when she had entered the Shasta Road house on a weekend morning and seen Mary Ellen Washburn and Jean Tatlock ‘sitting up and smoking over the newspaper in Mary Ellen’s double bed.’ In remarks suggesting her perception of a lesbian relationship, Jenkins later wrote in her memoir that ‘Jean seemed to need Mary Ellen,’ and she quoted Washburn as saying, ‘When I first met Jean, I was put off by her [large] breasts and her thick ankles.’” (pp. 251-252)

Oppie = Bull???

当時57歳で「マンハッタン計画」に参加することになったデンマークの物理学者、Niels Bohr は戦後の核軍備の競争についてすでに警笛を鳴らしていた。それを防ぐには計画の存在をスターリンに明らかにし、ソ連を敵視していないことを伝えることが重要だと。ルーズベルトもチャーチルも同意する気はなかった。

ニカラグアの大統領選挙が始まった。

Daniel Ortega… 米誌を読み始めた80年代半ば、この人の名前が出てこない週はなかった。“Sandinista” 革命政権とその転覆を狙うゲリラ組織“Contra” による内戦。オルテガが返り咲いたら、Contra 兵士を“freedom fighters” と呼んだReagan は墓場でひっくり返ることだろう。

繰り返し夢に出てくる場面がある。また夢の中で夢だと気づいてる不思議。本や雑誌を読む時間を確保するために、新幹線で東京まで行ったり、予約なしで飛行機に飛び乗ってニューヨークまで行ったり……。

Son of Nittaku Home Flyers Owner?

うの2000億円企業社長と来春結婚(日刊スポーツ)

タレント神田うの(31)が、交際中のレジャー産業グループ社長の西村拓郎氏(36)と結婚することが4日、分かった。近く両家で結納を交わし、来年春に も挙式する。2人は8年前に出会った。その後、うのは別の男性から婚約指輪を受け取るほどの恋を経験したが、間もなく破局。悲劇もデザイナーとしての成功 も、友人として見守り続けてくれた西村氏と結ばれた。
西村氏はパチンコチェーン「エスパス」で知られる日拓リアルエステートなどの社長を務める。創業者の御曹司で不動産業など関連会社で構成する日拓グループは従業員約1300人で05年の売上高は2000億円を超える。

誰と結婚してくれても、いいけど、「日拓」の西村さん?日拓ホーム・フライヤーズのオーナーの息子か?

Thursday, November 02, 2006

LUDICROUS...

Last night. Q came at about half past ten. Still behaved like my gf. Even tried to sleep in my bed. Asked her to move out and locked the door. Felt so disrupted and intruded. So bad when I am trying to organize my everyday and keep the dark mood at bay. Ignored, avoided her and reminded her of the discussions we had. She seemed not so sure of what I was talking about. Wondered what sort of memory capacity she has.

This morning. She asked me where I was going when I was leaving for work. Doesn’t she know that I have a job now?? Explained about this position to her many weeks ago.

Tonight. Walking down Orchard to go to the gym when she found me. What a strange coincidence!

Right now. SMSed me to say she wants to have a “clean” break and I agreed. At the same time, she talks about my “new gf.” What is happening now is so ludicrous.

Tuesday, October 31, 2006

Are You Still a "Girl"????

「出会い系サイト」へ行くと、30 歳以上でも自分のことを“woman” “lady” ではなく、「平気で」“gal” とか“girl” とか呼んでる人が大勢います。どういう意識なんやろか。