Monday, December 25, 2006

Flexibility and Superficiality of Japanese

「日本語を叱る!」は、日本語の「詞」と「辞」から成る二重構造に注目。辞である「テニヲハ」に、漢語、西洋語、カタカナ語、流行語などを詞に当てはめれば、日本語としての体裁が整うことから、意味不明な文章の氾濫につながると指摘している。

……日本語は本質的に翻訳語として発達してきたのであり、根本的に二重構造をもっています。そこからすれば、「辞」は外国語を受け入れる鋳型であり、「詞」は、その多くが出入り自由の外国語であることになるでしょう。
「詞」は外国語なのだから、少しばかり疎遠な言葉でも、一知半解のものでもかまわない。鋳型となる「テニヲハ」さえ整っていれば、まがりなりにも日本語の体裁はつくろえるわけです。また、「詞」は、つねに文化の優れた外国からやってくるものでした。したがって、それはいつでも意味深長なありがたいものとしてうけ入れられてきたにちがいありません。(99ページ)

「詞」がブラックボックスのままでありながらも、私たちは「テニヲハ」のおかげで、どことなくわかったような気になってしまう……融通無碍に外国語を取り込んできた見事な日本語の構造も、実は内部に、言葉を未消化のまま放置するという思いがけぬ陥穽を隠しもっていたのです。(100ページ)

また、感情的に過ぎる文章も批判する。

この記事(「お受験殺人事件」)には、とりわけ周囲の人々の談話が多く、それぞれの引用符のあとに「と驚いた」「と容疑者の動機を理解できないといった様子だった」「と驚きの表情で語った」などの表現が添えられていて、ただでさえ感情的なバイアスがかかっています。
とくに興味深いのは、被害者と同じマンションに住む「飲食店経営の男性(四四)」によるコメントです。「若山さんとの家族とは面識はなかったが、毎日、新聞やテレビで関心をもって、ニュースを見てきた。私にも三人の子どもがいるが、子どもは親の宝物。殺さなくてもよかったのではないか」……
いかがでしょう。ここにはなぜ「家族と面識はなかった」人の談話などが引用されているのでしょうか。あるいはまた、当の男性に三人の子どもがいることなど、事件とは何のかかわりがあるのでしょう。それどころか、この人物が説く「子は親の宝」というお説教までが載せられ、さらにはこれが「宝物」「殺さなくても」という見出しにさえなっているのです。
つまるところ記者は、自分の語りたかった陳腐な常識を彼に代弁させ、読者の感情をあおりたてているわけですね。ここまでくるとこの記事は、もはや荒唐無稽の浪花節と言うしかないでしょう。(142ページ)

自分が常々疑問に思う報道記者のいい加減さが表されている。

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