Wednesday, February 21, 2007

Who's That Woman? Conditions of Indian Women and Sino-India War

それにしても、紀伊國屋で会ったあの女性は誰やったっけ?あの顔、あの声、知ってる(知ってた)人に違いないと思うけど。思い出せない。日本で会ったことのある人か、それともここで知った人か。テレビで見た人か。それも思い出せん。

女性の地位向上も解決困難だった。51年、男性1000人に対する女性人口は946人。61年にはこれが941人、71年にはさらに930人と減少する。結婚年齢の平均は01~11年に男性が20.2歳、女性13.2歳。51~61年には19.8歳と15.4歳と女性の年齢が上昇したものの、全国調査の結果であり、地方の状況に大きな変化はなかったと推察される。また、法律的には廃止された女性からの「持参金」の慣習は根強かった。

女性の識字率は51年にわずか8%。61年にはほぼ13%と上昇した(男性は25%から約34.5%)が、50~51年は約1億6200万人、61年には1億8500万人の女性が非識字と判断されている。ネルーは58年末、「政治、経済、社会の変革をもたらすために最も重要で革命的な要因は教育だ。教育だけで十分ではないが、教育なくして本当の発展はない」と述べる。「女性教育に関する全国会議」(58~59年)は性別間の識字差の縮小を目指したが、その効果は一時的で、60年代後半には教育を受ける女性の割合は大きく低下する。教育問題は各州が管轄する事項で、中央からの指導が行き届かず、50年代後半の金融危機と中印戦争以降の60年代前半には国防費が増大したことが原因となり、教育の優先順位は下がっていった。

62年10月、中国が国境を越え中印戦争が勃発する。国境線画定の問題はあったものの、54年には平和共存のための5原則「パンチシール」に合意し、中国に好意的だったネルーにとっては個人的なショックであるとともに、国防に対する準備のなさを露呈した。

外交案件について決定を下すのはネルー自身であり、内閣や議会が果たしていた役割は小さかった。50年代半ばには、外交経験の深いボンベイ州のG・S・バジペイー知事は中国がマクマホン・ラインを承認した事実はなく、国境の警備を強化すべきだと進言。59年にはプラサド大統領がチベットはもはや緩衝地帯ではなく、中国に対する注意が不足していると指摘している。情報の欠如も著しかった。中国は56年から57年にかけてチベット西部への物資供給のため、インド、チベット、パキスタンの国境が入り組み、中印間で帰属が確定していないアクサイチン地域に道路を建設していた。インド当局がこの事実を知ったのは北京のインド大使が地元の新聞報道を報告した時であり、偵察機での事実確認はそれから1年後という有様だった。

ネルーに両国関係は友好的との考えを変えるつもりはなかったが、59年初めに中国は国境問題は存在しないというインド側主張は受け入れらないと表明。さらに3月にはダライラマがチベットから亡命する。ネルーの態度に変化が見られるのはこの年からで、中国は「パンチシール」の合意に違反していると発言し、またチベット領内にとどまっているインド人の安全を懸念。両国は他方が越境していると非難し合った。周恩来は中国領土には、インドが自国領とみなす4万平方マイル(10万4000平方キロ)が含まれると主張した。中ソ対立を背景にネルーはソ連からの支持を得る。また59年12月には、アイゼンハワーがインドを訪問。この時点でネルーは中国が本気で越境してくるとは考えていなかったようだ。「ほとんど人の住んでいない地域を得るために攻撃するとは理解しがたい」と米国人ジャーナリストに語っている。

周首相によるインド訪問(60年4月)が不調に終わり、インドはようやく国境線に監視ポストを設置して警備する「前進政策(Forward Policy)」を採り始める。それでもなお、その実施は遅々とした。中国による侵攻に懐疑的なままで、さらに、ガザ地区とコンゴに兵を派遣していたこともあって、インド軍の規模は全面的な侵攻に十分とは言えず、インド政府にとって62年10月20日の紛争勃発は不意打ちだった。

中国は越境ではとどまらず、11月半ばにはウタル・プラデシュ州にまで侵攻した。ヒマラヤの地形がインド軍の守備に不利になっただけでなく、戦闘計画、装備、後方支援などに関してもまったく準備が足りていなかった。11月19日、ネルーは米国に軍機の派遣を要請。21日、中国はアクサイチン地域のほとんどを実効支配する一方、「北東辺境特別行政地域(NEFA)」の約70%をインド側に渡して、一方的に停戦を宣言して撤兵する。歴史的な外国支配への反発、国内での「大躍進」政策の失敗、中ソ対立、ネルーの国際的な評価と親チベットの姿勢が、中国の侵攻決定に影響したとされる。

中印戦争の結果、国連での過激な発言などで物議をかもしてきたクリシュナ・メノン国防相に非難が集まり、同相は辞任。野党だけでなく、国民会議内からもネルー政権への批判が出始める。63年5月、最後の総督だったマウントバッテン卿がインドの国防計画を支援するためインドを訪れる。戦争でまたもや明らかとなったのは、ネルー一極集中の政治システムだった。

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