Tuesday, February 20, 2007

Portuguese Goa, Planning Economy and Dalits

アラビア海に面するゴアはポルトガルの植民地であり続けた。非暴力を貫くガンディー主義の理想との相違がここでも生じる。キリスト教文明と過去の栄光の象徴としてポルトガルにはゴアを手放すつもりはなかった。インドにとっては、英国がインドを去ったように、時間が経過すればポルトガルが撤退するのではという期待は無策をも意味した。60年、国連は帝国主義の終焉を求める決議を採択。また、アフリカではポルトガルによるアンゴラ領有などへの批判が高まっていた。インド船舶や警察署に対するポルトガルによる攻撃が状況を悪化させ、本国は約450年に渡って領有してきたゴアの秩序を維持できないようだった。

61年12月になって、米英および国連のウ・タント事務総長がインドに武力解決を避けるように求めるが、同月17日、インド軍はゴア領内に進む。この動きに国内からの反対はほとんどなかったという。国連安保理事会では、即時停戦を求める決議が米国、英国のほか、フランスとトルコによって提案されるが、アラブ連合共和国、セイロン、リベリアは反対。ソ連が拒否権を発動したことで採択されることはなかった。インド軍に抵抗することなくゴアは本国の意向に反して降伏した。米国メディアは、カシミールで住民投票を実施しないネルーが、住民が「解放」を望むと表明していない土地を武力解放したことに非難が集まった。ネルーにとっては、ケネディーの理解を得るうえで、ボンベイの枢機卿からの指示を得られたことも大きかった。

大規模ダムの建設で50~51年には年間42億ボルトだった発電量は、65~66年には同330億ボルトに増大。50~65年に農業生産は5.16%、工業生産は7.7%の増加をみた。また、50~51年から65~66年の間に鉄鋼生産とセメント生産は、それぞれ4倍とほぼ5倍に伸びた。独立から発展を遂げるインドではあったが、5カ年計画の実行は思うように進んでいなかった。独立後数年の輸入に活用した英ポンドの差引残高は、50年代後半までに底をついていた。同時に、輸入品目の価格が上昇するのに合わせて、原料の輸出国としての競争力は低下していた。

人口増加も発展の遅れの一因だった。51年には3億6000万人余りだった人口は、61年には約4億4000万人まで増加した。人口増加による食料不足を補うため、57年にはソ連と大型の工業プロジェクトとの引き換えとして援助で合意。翌年には、米国、英国、カナダ、西ドイツ、世界銀行から成るコンソーシアムとも合意に至った。60~61年には最大の支援国、米国からの援助は額にして3億4800万ドルに近くなっいた。国内外の問題で独自性を維持しようとするネルーが食料の外国依存を懸念したのは言うまでもない。

「ザミンダーリー」の土地所有規制を法制化したものの、50年代半ば、およそ20%の農地が小作農に貸し出されたもので、状況はほとんど変わっていなかった。生産量の増加は耕地面積の増加やさらなる労働力利用が理由で、大地主は依然として存在していた。土地への権利を示す証拠を持たない小作農は、地主から容易に立ち退きを命じられた。地主はまた、貸し出していた農地を「個人農地」にすることで所有規制法をかいくぐることもできた。61~62年、土地所有者の80%以上が所有する耕地は全体のわずか31.5%にすぎず、そのほとんどは3ヘクタール以下だった。20ヘクタールを超える大規模な耕地は全体の約11%で、1%に満たない所有者のものとなっていた。

カースト制撤廃や男女間の社会格差是正にもついても、大きな改革の理想は実っていなかった。 不可触民への差別を犯罪として法律が55年に制定された後も、56年に全国で裁判となった例はわずか700件。その後、ネルー在任の最後の3年間の件数はさらに減少して371~393件だった。そのうち、有罪となったのは法制定後3年間がほぼ43%だったのに対し、60~63年は約31%に低下した。有能な弁護士を雇える原告が法の抜け穴を見つけて無罪を得る一方、不可触民側の証人となろうとする人は少なく、警察は判事にも偏見や地元の有力者に媚びる態度が見られた。

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