Tuesday, February 20, 2007

Diplomacy, Communalism and Disorder in Congress

周辺国、とりわけパキスタンと中国との関係は重要だった。

独立時、インドでは多くがカシミールはいずれインドに帰属することを選択すると考え、ネルー自身もパキスタンの混乱を見て、国として生き残ることは困難との判断だったようだ。しかし、パキスタンが独立国として存在し続けることが明らかになるにつれ、両国統一は非現実的で、また両国外国の介入を招くのみとの認識から平和的共存を目指す。 ネルーとパキスタンの首相に就任していたモハマド・アリは53年にロンドンで会談したあとも相互訪問を行い、緊張緩和を印象付ける。だが、カシミール政府は帰属を決める住民投票に反対しており、54年には米国とパキスタンが締結した軍事同盟の影響から、カシミール問題の解決には至らなかった。

他方、国民党の蒋介石と夫人の宋美齢と親しい関係だったネルーは、中国とは国内問題の多くを共有していると理解していた。中国内戦で国民党が敗れると、蒋夫妻に対して個人的な思いはあったものの、「崩れ落ちている政府を指示するのは、善策ではない」として、49年には中華人民共和国を承認することを決める。ネルーは当初から、中国はアジアの国であり、ソ連に追随するようなことはなく、インド国境を武力で攻めることはないと考えていた。それゆえ50年に発生したチベット侵略には困惑した。彼の中国に対する考えは、後にインド自身に跳ね返ることになる。ネルーに中国情報を送っていたのはK・M・パニッカール大使だったが、パテル副首相は中国政府には領土拡大の意図があると読んだ。共産主義は帝国主義と変わらず、歴史的なつながりを持たずにイデオロギーをかざす中国の帝国主義は西欧より危険で、インド国境近くまで迫る中国の脅威を認識するように強く迫った。ネルーに北東部国境「マクマホン・ライン」を変更する意思はなかったが、中国による侵攻の可能性を否定し続けた。

53年12月から翌年4月まで行われた交渉の結果、中印両国は「領土保全と主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等と相互利益、平和共存」を定めた5原則「パンチシール(panchsheel)」に合意する。54年10月、ネルーは北京を訪問。中国の地図にはインド領を中国領として記載しているものがあると指摘した。周首相は、「古地図にすぎず、新たに地図を作成する時間がない」と述べたという。中国から帰国したネルーは55年1月、中国との国境に差し迫った危険はないと繰り返す。同年夏と56年には、中国側による越境行為が発生する。

国内は独立後数年を経過しても落ち着かない。首相兼外相としての重責に加えて加齢の影響も顕著になってきた。理想と原則を何より重視するガンディー思想と実際の政治に必要な妥協の狭間で苦悩することも多くなる。

民族、宗教、言語、階層が複雑な国土を州に分割する作業は困難だった。56年に制定された「州再編法」はグジャラティとマラーティを母語とする住民が混在するボンベイ州の問題を未解決のまま残していた。ネルーは国民会議への支持低下を受け、ボンベイをグジャラートとマハーラシュトラの両州に分割することを決断する一方、シーク教徒の宗教政党アカリ・ダルが主張したパンジャブ語州の創設には「混成国家」の原則に反するとして断固拒否した。

アッサム州に組み込まれていたネガ地域は同州からの分離を求めていた。55年、中央政府は秩序回復のために軍を投入。57年には自治権を持つ中央直轄地としたが、ネガ住民の不満を抑えることにはならなかった。中国との国境問題に関わる地域でもあり、ネルーは60年7月、「ネガランド」の創設に合意した。(正式な合意実施は63年。)

ヒンディー語を国の公式言語にすべきかも大きな問題だった。ヒンディー語と異なり、サンスクリット語を源泉に持つ言語を使用する南部住民はヒンディー語の採用が政府による雇用に影響することを懸念した。憲法は各地で地方言語を使用することを認め、ヒンディー語を母語とする住民が多数を占める地域と全国では同語 を公用語と定めた。英語は「15年間」に限って、国の公用語、また州間のやりとりに使用することを規定した。15年が過ぎようとすると、英語が公用語でな くなることを不安視する声が再び南部で強まり、ネルーはこの不安の軽減と英語使用の有益を考慮して、63年の「公用語法」でヒンディー語に加えて英語を公用語として継続使用すること決めた。

民主主義や選挙という権力、利権、妥協の絡む制度の中で、国民会議内部の団結の欠如、ネルーの出身地であるウタル・プラデシュ州など中央の意向通りにならない地方組織など、乱れも表面化する。国民会議総裁には55年にU・N・デバールが選出されて以降、ネルーは中央政府の首相が党内部の問題に深く関わることをためらっていたようだ。

南西部ケララ州では共産党が勢力を伸ばし、57年の地方選挙では126議席のうち60議席を獲得して第1党となった。同党が与党となったのはこれが全国で初めて。土地改革、労働者の権利といった分野で急進的な政策を推進するとともに、州からの助成を受ける私立の教育機関に対する政府権限を拡大する「教育法」を制定した。ケララ州国民会議は他の反共産党勢力とも協力して学校でピケを張るなど、与党の追い落とし狙う運動を展開。59年6月には警察の発砲によって数人が死亡、数千人が逮捕された。

同州国民会議の行動を黙認すれば民主主義原則に反し、強く抗議すれば党の分裂を招きかねない状況で、国民会議指導部は再度の選挙実施を求めることで事態収拾を図る。選挙のやり直しには、与党共産党が反発するのは必至。その場合は連邦大統領に事態調査を求めることで国民会議内部は合意したが、ケララ州を大統領直轄とすべきとの意見も存在した。また、食料の生産を停止して州政府に圧力をかける計画もネルーの知るところとなり、国民会議中央が地方組織への統制と影響を失いつつあることを表した。60年に実施された再選挙(対象議席数108)で共産党は39%の得票率を得たものの26議席に終わった。国民会議は得票率(34%)で共産党に及ばなかったものの、63議席を獲得した。

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