国民会議には、ネルーの嫌う政争や派閥の争いがこれまで以上に増した。63年5月、「ザミンダーリー」の土地所有規制に関連する憲法改正の審議に100人を超える国民会議の議員が欠席し、改憲に必要な定足数を満たせなかったことも結束の乱れを表した。ネルーは十分な権限委譲をせずに職務を抱え込み、誤算が招いたとも言える中国との戦争で疲労困ぱいの状態だった。ガンディー主義的理想と現実の政治の場に必要な妥協のあまりに大きな差を嘆いた。精神主義、道徳主義のガンディーと衝突もしたネルーも現状を憂慮せざるを得なかった。ガンディーなら断食の実行などで道徳に訴えるところだろうが、ネルーにそのような選択は許されなかった。改憲審議と同時期に実施された下院の補欠選挙で、国民会議はネルーの地元ウタル・プラデシュ州の2議席とグジャラト州の1議席を失った。経済政策と国防に対する準備のなさへの批判だった。
同年末、ネルーは軽い脳梗塞に倒れるが、副首相を任命することを拒む。療養中はナンダ内務相と旧友のT・T・クリシュナマチャリ財務相が共同で代行を務めた。64年4月には職務に復帰するが、インディラとカシミールで3日間の休暇を過ごしてデリーに戻った翌日の5月27日、大動脈破裂で死去した。
“Nehru: A Political Life”を読了。予定より2日遅れた。“Shared Responsibilities and Unshared Power: The Politics of Policy-Making in Singapore” (Ho Khai Leong) を始めた。ムムム……。いかにもワープロソフトで作成したようなページのレイアウトやフォントが嫌いだ。
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