Sunday, February 18, 2007

Nehru's Ecomonic and Non-Alighment Policies, and What's Nomo Doing?

社会主義者を自認したネルーの経済成長策は、工業化に必要な社会基盤構築における国の役割を重要視。また土地制度の改革を推進するため、戦略的産業は国営を維持しながら民間の能力も利用するものだった。第1次5カ年計画(51~56年)の支出は、治水と発電(28.1%)や運輸・通信(23.6%)を中心にして、農業と地域社会開発(15%)に大きく割かれた。雇用拡大、経済的格差の是正を図って急速な成長を遂げようとするのは、第2次5カ年計画(56~61年)になってからで、結果として農業や公共サービスへの支出割合は減少した。

国の経済成長には土地改革が不可欠との考えから、大地主が所有する土地、「ザミンダーリー(zamindari)」の規模を制限しようとする。しかしビハール州で制定された規模制限法が違憲と判断され、ネルーは51年6月に憲法を修正してザミンダーリー廃止に関する法律を裁判所の権限外とした。実際には、土地の再分配や地方社会の発展に大きく貢献できる結果とはならなかった。大地主らは規模制限法案の内容を事前に知り得て、その意図を骨抜きにするような措置を講じていたという。

一方、憲法発布から10年以内に14歳までのすべての児童に無料で基礎教育を受けさせる計画だったが、これも思うようには進まなかった。政府支出の教育への割合は第1次5カ年計画の8.7%から第2次計画では6.7%と後退し、教育の占める優先順位の低さをうかがわせる。政治家は自身の子供の教育への支出に不自由しているわけではなく、また州政府には教育改革に必要な膨大な資金が欠如していた。

ネルーの掲げた政策が計画通りに実らなかった理由には、民主的だからこそ生じる意見対立や既得権益の維持のほか、権限を十分に委譲しなかったため実行の効率性に影響したことが挙げられている。

ネルーは外相も兼任し、冷戦で対峙するどちらの大国の同盟国にもならず非同盟主義を貫く。同時に、独立して間もない国の安定には諸国との友好的関係が不可欠であることも十分認識していた。特に陸からの侵略ルートとなる北方の周辺国、パキスタン、ソ連、中国との関係を重視した。また、共和国となったため、英連邦(コモンウェルス)への帰属も問題となった。民主的理想のほか、独立インドの制度の多くの部分が英国のそれを継承していること、通商や英国製武器の使用など、現実的な利益もあって英連邦にとどまる判断となった。49年4月の英連邦首相会議はロンドン宣言で、「英国王室を独立国の自由な連合の象徴」と規定し、法的な問題を解決した。

野茂くんはどうしてるんかんなぁ?彼の姿は出てこんかったかけど、あんまりよくないニュースを「夢で」見たので、ちょっと心配。公式サイトのメッセージは年末に「焦らずに」と更新されたのが最後。同世代の「英雄」だからな。彼の方が若いけど。

続いて、イヌを飼うことにした夢を見た。茶色でハナ筋の通った大型犬だが、まだ子供。ペットショップのおばちゃんが、「年齢は、明日連絡してあげる」と言っていた。たいへんなついてくれてうれしい。

48年11月、ネルーは国連総会で演説。国連憲章の原則に沿ってインドが行動することを誓う。後に大国ゲームの道具と化していき、またカシミールを始めとする問題解決などへの国連の有効性に疑問を抱くようになるが、この組織を世界平和への舞台とする姿勢は変わらなかった。50年代初めには米国が反対する中、中国全土を掌握した中華人民共和国の国連加盟を強く主張した。51年1月の英連邦会議までにネルーのアジア問題に関する発言は重さを増す。この会議でも中華人民共和国の重要性とこれを孤立させようとする米国の路線と一線を画すことを強調した。

ソビエト連邦は独立当初のインドをそれほど真剣に見ておらず、インドは言語と民主主義という点で親密さのある米国寄りの立場だった。米国との関係がぎくしゃくし始めるのは、51年。食糧援助を巡ってだった。ネルーは米国がインド独自の外交方針を理解していると考えていた。しかし、援助の決定は米国議会でなかなか進展せず、最終的に決定された援助は、食糧200万トンの輸送監視などを主張する内容だった。

さらに関係を悪化させたのは54年の米国とパキスタンの軍事同盟で、ネルーにとっては南アジアに冷戦を持ち込むものだった。ネルーは議会で、「パキスタン支援は対インドを意図したものではなく、インドへの経済・技術援助には影響しない」というアイゼンハワーによる書簡の内容を明らかにしている。米国のパキスタン支援は、カシミールの非軍事化後に住民投票実施という計画を実現不可能なものにし、ネルーの米国外交政策への態度はより厳しいものになった。非同盟の原則を理由に、フランス兵と輸送する米軍機の領空通過を認めなかったのもこの頃だ。米国内では、パキスタン支援に反対しながら、食糧援助は受け入れるというインドの方針に批判が出た。

ソ連との関係も近いものではなかった。だが、ソ連は52年からカシミール問題に関して国連の場でインドを支持するようになる。インドはあくまで非同盟を崩さなかったが、55年には両国首脳の相互訪問とソ連からの技術支援を受けることになったほか、フルシチョフとブルガーニンの訪問中、ネルーはインド共産党を援助せず、インドの国内問題には介入しないとの確約を得る。ネルーはスターリン後のソ連を「世界革命」より国内発展を優先するだろうと判断した。

No comments: