Wednesday, February 28, 2007

DISLIKE IT? I DEFINETELY HATE IT!

昼前にQが来た。結論の出るようなものではなかったが、何カ月か振りでまともな話ができた。昼食をごちそうになった。当面の借金をした。何とも情けない気分。爆発したい気分。

前回読んだときにすでに引用したかもしれないが、“Noonday Demon” から。

… the surest way out of depression is to dislike it and not let yourself grow accustomed to it. (p. 29)

I began complaining [to my analyst] that I was overwhelmed by the messages on my answering machine and I fixated on that: I saw the calls, often from my friends, as an impossible weight. (p. 45)

Becoming depressed is like going blind, hearing less and less until a terrible silence is all around you, until you cannot make any sound of your own to penetrate the quiet. (p. 50)

I can remember lying frozen in bed, crying because I was too frightened to take a shower, and at the same time knowing that showers are not scary. (p. 52)

… I would lie in the safety of the bed and feel ridiculous. And sometimes in some quiet part of me there was a little bit of laughter at that ridiculousness, and my ability to see that, is, I think, what got me through. Always at the back of my mind there was a voice, calm and clear, that said, don’t be so maudlin; don’t do anything melodramatic. Take off your clothes, put on pyjamas, go to bed; in the morning, get up, get dressed, and do whatever it is that you’re supposed to do. (p. 53)

One friend used to hold my hand while she sang lullabies. Some evenings, my father read to me from the books he had read me when I was a child. (p. 54)


恵まれてるじゃないか。うらやましい。そんなにいい友人と父親がいるなら、自分は元気満々だな。 多分、うれしさで大泣きすると思う。Solomon が最初に処方されたのはZoloft Xanax。自分にとってはどちらも馴染みのある薬剤だ。Xanaxについては、よほどフラフラさせる薬のように書いているが、Xanax でそんな状態になったことはない。一体、どんな服用量だったのか。

Still Cul-de-sac, Important Friend of 17 Years Now Gone?

おとといは夜10 時に就寝。午前1時半に目が覚めた。日中、眠くて何度か寝たが、“Uncovering Clinton” は終えた。当時大騒ぎしたスキャンダルだったが、今さら読んでも興奮はなかった。

昨日は深夜0時前に寝た。起きたのは朝4時半。 Epilim が効いているのか、眠りつけないことはないが、目覚める時間が早すぎる。

危機に際して、どこからか「何の心配もいらない。安心していればいい」と言う言葉を期待するのは恥じるべきことだろうか。

今年になってから中止したことにEの購読がある。中止するつもりではなかったけど、郵送がストップしてしまったことが理由。クレジットカードで支払おうとした購読更新料が引き落とされずに更新されなかったのではないかと思っている。以前なら、Eが読めないなんて事態になれば、相当あせって何とかしようとしたはず。17 年間、毎週会っていた友人が去ってしまったようなものなのに、今、淡々といるのはどうしたことか?

Monday, February 26, 2007

"Dicky Billy" is Such an Asshole! And Family Matters

昨日は深夜0時ごろに眠って、けさ5時に起きた。 9時になってから郵便局に行って、21日に続く2通目のファクスを兄宛に送付。カネの無心なんてこれが初めて。それほど切迫しているということ。

その後、数日前から始めたMichael Isikoff “Uncovering Clinton” を読み進めた。まだ大阪にいるときに買って、長年放っておいたうちの1冊。クリントンやこの男の周辺が躍起になってもみ消そうとするスキャンダルの内容はひたすらバカバカしい。注目したいことがあるとすれば、著者らの記者としての取材に対する慎重さや掲載の決断の方だ。

午後、会社に行って旅券を返してもらった。そのまま金曜日に行くはずだったクリニックで薬をもらう。ドシャ降りになったので、Tanglin Mall に避難。1時間ほどコーヒーを飲みながら、もう1度読むことにしたAndrew Solomon “Noonday Demon” を始めた。世界保健機関(WHO)が2000 年に出した報告からの引用だが、“Depression claims more years than war, cancer, AIDS put together.” (p. 25)

オーチャードへ行って、ジム契約の解除手続きをした。解約料金ではないが、さらに1カ月分の支払いが必要だった。その代わり5月末まで有効。そんなに長くは不要だと思うので、もうしばらく考えた上で返金可能なら、そうお願いする。

出費。出費。また出費。兄からの返事がいいものだといいが……。でなければ、万事休すの可能性あり。自分も過去に仕事がない時期があって金銭的に危ういことがあったが、それにしても一体どんな生活をしているのか……と思うのも事実。 Tanglin Mall からジムに行く途中、Borders に寄って読みたそうな数冊に手が伸びたが、いずれも棚に戻した。

大事な文章を忘れていた。理研の加藤さんが、「相手に負担にならない形で……」と同じ回答で、「うつ病の方に、友人として、恋人としてかかわるのはなかなか難しいことで、家族の方に中心にケアしてもらう他ありません。なぜなら、うつ病の方は友人や恋人といつもの関係を保つ心の余裕がなくなってしまい、むしろ負担に感じたりすることもあるからです。家族に対してすら、同じような気持ちを持つこともありますが、そうした事態を乗り越えて、最後まで面倒を見ることができるのは結局家族だけのように思われます」と付け加えている。自分はどうしたらいいの????

Sunday, February 25, 2007

A Diplomat being Diplomatic

朝日新聞が、スイスが仲介するイスラエル・シリア秘密交渉のイスラエル側担当者とのインタビューで、外務官僚の同担当者が日本は「経済援助は積極的だが、仲介外交で何かしたとの話は聞いたことがない。イスラエル、パレスチナ双方と良好な関係を持っており資格はある。試してほしい」と述べたと報じ、「期待を示した」と結んでいる。こういうのを外交辞令と呼ぶ。「期待を示した」の代わりに「落胆を示した」でも結べるコメントだが、読み手に与える印象は正反対。少しの記者経験からすると、「述べた」「話した」だけでは物足りなさを感じて、文をどのように終わらせるか苦労することがある。「警察が懸命に捜査している」とか、本当にどこまで懸命なのか確証もなく使う常套句があるが、こういったのも含めて無責任な文章だと思う。

Cul-de-sac

結局、休息が足りないということだろうか。「何もせず、じっとしている」金銭的余裕がなく、当然ながら「外国人の失業者」としての滞在資格がないから、気分がよくなった「ように感じる」と生活を改善させようと仕事に戻る。再発する。さらに状況が悪化する。この繰り返し。

事を急ぐ必要があるにもかかわらず、深く考えるエネルギーがない。どの選択肢も相当ひどく、その不安と焦燥感から逃避しようとして、無理やりにでも眠って1日を過ごそうとする。そうしている間に、時間はどんどん経過していくというのに。時間の存在しない空間はないものか。他人の迷惑や荷物になりながら生命を維持することに意味があるのか。

Kay Redfield Jamison が描いた著名な詩人などではなくとも、うつ病や躁うつ病の人が文章を書いたり、対人せずに自己表現することが比較的多いのは事実のようだ。自分の力では動かせない巨岩の如き症状を見つめて、理解しようとする作業の一部なんだと思う。

そう言えば……。本棚から“Prozac Nation” が消えて久しい。持ち出したのはQ 以外にあり得ないが、何のためにそうしたのかまったく不明。我が理解する彼女は、本を読了するような人ではない。捨ててしまったかもしれない。彼女ならやりかねない。Q について書くときの心境は複雑だ。先日書いたように、世話になっていることは間違いないから。しかし、しかしだ。旧正月休暇の前には、「あんたはなんで蹴り返さ(kick back)ないんだ?!私にだってよく似た経験はある!」と、あの恐ろしい表情で叱咤された……。だが、「書ける」だけまし、とも言える。触れることができない記憶や人もあるのだから。

しばしばブラウザーに異常が発生する。Firefox であろうとIEであろうと。表示している画面の最下部まで自動的にスクロールされ、上部への移動ができない。PCの再起動で回復する場合もあれば、しない場合もある。表示させたままにして時間が経つとケロッと正常に戻っている場合もある。この異常が現れると、ブラウザーを起動していなくても、指そうとするアプリケーションなどの選択項目にマウスを固定できず、他の項目が選択されてしまうことがある。

Blogger へのアップロードにも不具合あり。以前は問題なかったFirefox では、余分な行間が現れるほか、フォントサイズが反映されず、アップロードには使用できない。IEの場合は、実際の画面には問題ないものの、アップロード画面に表示される漢字が「中国漢字」になっている。例えば、「ほね」とタイプしてスペースキー(漢字変換キー)を押すと、候補の「骨」には「日本漢字」ではなく左右を逆にしたような「中国漢字」が表れる。

Friday, February 23, 2007

Questions of Q and If I Have to Go back... AND LEAVE ME ALONE BUT STAY WITH ME

I had a “What day is it? What time is it?” day, sleeping funny hours.

Here, I write a bit about Q. I have no doubt in my mind that she has done a lot for me, probably more than I deserve. Having said that, how she expresses her feelings is still something that’s incomprehensible for me. Maybe trying to get her messages across “effectively,” her chin sticks out, her eyes turn upward and her speech is forceful and rapid. If that’s her way to talk to me “effectively,” it is not working. It would certainly be better if she could talk calmly and logically with an effect of enough persuasiveness. Does she talk to other people in the same way?

For her and me, it could have been far better. An unfortunate point is that she seems start talking before thinking. Therefore, some of her comments lack credibility as when she talked to me on my birthday last year while walking down Orchard. She tried to salvage what little remained in our relationship by saying that now she wanted to marry me. “Then (when I proposed her many months earlier) I had no confidence” is what she told me. This is not something she shouldn’t have said in such a high-voltage situation. To me, it simply didn’t sound serious.

And I am sure she does see no value in old things, whatever they are. To me, some things have immeasurable values precisely because they are old. I have regretted more than a few times, “Why did I throw it away… It is now impossible to get it again.” I even suspect her inclination to disregard old stuff and make everything new and shiny has something to do with the history of this country, or lack thereof. She even discards foodstuff still completely eatable, from the fridge… What a waste… She never changes this practice. Right now, I am looking for an earthenware spoon that I brought from my family home in Kyoto as something that reminds me of my childhood days (in a good sense) and is as old as me or even older. I think I know what happned to it...

If things have come to such that I have to return to Japan, where would I live?? Kyoto is definitely an attractive place, but is it a nice idea to go back there? I am not sure of my own capability of judgment. But how about Okinawa or Hokkaido? Aomori? Niigata? Those places are far from big cities and somewhat foreign to me or relatively close to other countries (Taiwan and Russia).

理研の加藤忠史という研究者が自身のウェブサイトで、「うつ状態で落ち込んでいる人が、友人に必要としているのは、アドバイスではなく、こころの支えなのです」「相手に負担にならない形で、心配していること、いつでも待っていることを伝えてはいかがでしょうか。具体的には電話や訪問よりメールや手紙の方が良いかと思います。人と会うのがつらいうつ状態の方にとって、電子メールが生命線になることも確かにあるようです」 (http://square.umin.ac.jp/tadafumi/QandA.html) と相談に対して回答している。まったくその通りだと思う。

また林公一という医師は同様の相談サイトで、「特に転職に関しては、“うつ病になったのは仕事のストレスが原因、したがって仕事を変えれば治るはず”という誤った考えを、うつ病の時には持ちやすいということもあります。いま“誤った考え”と言いましたが、多くの方がこの誤った考えを持っておられます。仕事のストレスは、確かにうつ病の発症に関係はしていても、はっきりと原因とまでいえることはなかなかないものです。ですから、仕事の要因だけを取り除いても、それだけではうつ病は治らないのが普通です。逆に、それだけで治るようですと、元々うつ病ではなく擬態うつ病であった可能性の方が高いといえます」 (http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/dep0.html) と書いている。

うつ病に関するごく基本的な情報は、http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/dep0.htmlにある。

自分の場合、どこに転職してもこれまで結果は同じ。会うのはもちろん、電話で話すのも大きくためらう。自分の活字好き、単に読書という意味ではなく、文章、単語、文字、それからタイプすることも好きだというのは、症状がそういった気持ちを深めているのだろうか?ただ、何とも表現し難い焦燥感から集中力が失われ、目線だけが走って内容を理解しておらず、読み直さなければならない場合がある。

自分の気持ちははっきりしている。それは、“PLEASE LEAVE ME ALONE, BUT STAY WITH ME!!” ということ。

ECTについては、右手の甲への全身麻酔の注射と、通電をよくするためだと思うが、麻酔と同時にこめかみ部分を(多分アルコールで)「ゴシゴシ」されていたこと以外に記憶はない。読売新聞記事 (http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/saisin/20061027ik0d.htm) には、「ベッドに横たわった患者は、酸素マスクで酸素吸入をしながら、静脈から麻酔薬の投与を受ける。意識がなくなったら、筋弛緩(しかん)剤を投与。これは、筋肉が大きくけいれんすることによる骨折を避けるためだ。口の中を傷つけないようにマウスピースもくわえる。専用の機械につないだ電極パッドを額の左右にはり付け、数秒間、電気を流すと、間もなくけいれんが数十秒から1分ほど起こる。脳波でこれを確認した後、酸素を投与し、意識の回復を待つ。治療に要する時間は、準備を含めて20~30分ほど」とある。酸素マスクもマウスピースもまったく知らない。

Thursday, February 22, 2007

Inner Peace and Yoshikawa Byoin...

Have I had a good life so far? To answer this, I need to know, or define in my own way, what a good life means? Friends? Money? Profession? All of these are important factors.

Good friends can turn out to be totally boring and even betrayers. Money can provide material comfort but it does not guarantee one’s happiness. Profession, in the sense that this is something one DOES, is only a means to earn money.

One idea that has come to me quite often is one can be rich and discontent, partly because money does not provide inner peace. Just look at those super rich and supposedly ‘successful’ people who decided to take their own life. And partly because having money creates a mentality to make people get even more money out of greed or probably misplaced insecurity. Contrally, people can be dirt poor and always have a smile. Rachel, one of my old colleagues from New Zealand, mentioned in a letter so many years ago that she had met the happiest people in the world in a rural area of Indonesia. They were dividing what little food they had among themselves and even offered some to her.

Then, it finally comes down to the idea that the most important element is peace of mind. Peace of mind, this fleeting thing, is not an easy thing to attain in a modern society. I believe that it is too complicated for someone like me. Too complicated to have a moment of self reflection because you are not allowed to stop and reflect.

賭け将棋で生計を立てる「真剣師」と呼ばれ、ドラマのモデルにもなった将棋の強豪アマチュア棋士、大田学(おおた・まなぶ)氏が21日午前5時半、大腸がんのため大阪市西区の吉川病院で死去した。92歳。鳥取県出身。葬儀・告別式は近親者だけで執り行う。喪主は未定。(スポーツ報知)

「西区の吉川病院」って……。せっせと通ってた時期があったなぁ。

Wednesday, February 21, 2007

Further Confusion of Congress and Nehru's Death

国民会議には、ネルーの嫌う政争や派閥の争いがこれまで以上に増した。63年5月、「ザミンダーリー」の土地所有規制に関連する憲法改正の審議に100人を超える国民会議の議員が欠席し、改憲に必要な定足数を満たせなかったことも結束の乱れを表した。ネルーは十分な権限委譲をせずに職務を抱え込み、誤算が招いたとも言える中国との戦争で疲労困ぱいの状態だった。ガンディー主義的理想と現実の政治の場に必要な妥協のあまりに大きな差を嘆いた。精神主義、道徳主義のガンディーと衝突もしたネルーも現状を憂慮せざるを得なかった。ガンディーなら断食の実行などで道徳に訴えるところだろうが、ネルーにそのような選択は許されなかった。改憲審議と同時期に実施された下院の補欠選挙で、国民会議はネルーの地元ウタル・プラデシュ州の2議席とグジャラト州の1議席を失った。経済政策と国防に対する準備のなさへの批判だった。

同年末、ネルーは軽い脳梗塞に倒れるが、副首相を任命することを拒む。療養中はナンダ内務相と旧友のT・T・クリシュナマチャリ財務相が共同で代行を務めた。64年4月には職務に復帰するが、インディラとカシミールで3日間の休暇を過ごしてデリーに戻った翌日の5月27日、大動脈破裂で死去した。

“Nehru: A Political Life”を読了。予定より2日遅れた。“Shared Responsibilities and Unshared Power: The Politics of Policy-Making in Singapore” (Ho Khai Leong) を始めた。ムムム……。いかにもワープロソフトで作成したようなページのレイアウトやフォントが嫌いだ。

Nehru-Gandhi Blood Line

パンジャブ州アムリッツァルの黄金寺院(ハリマンディル、ゴールデン・テンプル)に立てこもっていたシーク教過激派の鎮圧のため国軍がこの寺院を攻撃したのが84年6月6日。インディラ・ガンディーがシーク教徒の警備兵によって暗殺されたのは同年10月31日。アルバイトの帰りだったと思うが、四条大橋南東側の京阪四条駅出入口で号外を受け取った。また、タミル人が手渡そうとした花束に隠されていた爆弾による長男ラジブの暗殺(91年5月21日)は、大阪難波にあるホテル南海のロビーにあった夕刊で知った。ラジブの長男ラーフル(70年生まれ)は04年4~5月の総選挙にウタル・プラデシュ州から出馬して初当選。長女プリヤンカは72年生まれ。政界入りは否定している。

Who's That Woman? Conditions of Indian Women and Sino-India War

それにしても、紀伊國屋で会ったあの女性は誰やったっけ?あの顔、あの声、知ってる(知ってた)人に違いないと思うけど。思い出せない。日本で会ったことのある人か、それともここで知った人か。テレビで見た人か。それも思い出せん。

女性の地位向上も解決困難だった。51年、男性1000人に対する女性人口は946人。61年にはこれが941人、71年にはさらに930人と減少する。結婚年齢の平均は01~11年に男性が20.2歳、女性13.2歳。51~61年には19.8歳と15.4歳と女性の年齢が上昇したものの、全国調査の結果であり、地方の状況に大きな変化はなかったと推察される。また、法律的には廃止された女性からの「持参金」の慣習は根強かった。

女性の識字率は51年にわずか8%。61年にはほぼ13%と上昇した(男性は25%から約34.5%)が、50~51年は約1億6200万人、61年には1億8500万人の女性が非識字と判断されている。ネルーは58年末、「政治、経済、社会の変革をもたらすために最も重要で革命的な要因は教育だ。教育だけで十分ではないが、教育なくして本当の発展はない」と述べる。「女性教育に関する全国会議」(58~59年)は性別間の識字差の縮小を目指したが、その効果は一時的で、60年代後半には教育を受ける女性の割合は大きく低下する。教育問題は各州が管轄する事項で、中央からの指導が行き届かず、50年代後半の金融危機と中印戦争以降の60年代前半には国防費が増大したことが原因となり、教育の優先順位は下がっていった。

62年10月、中国が国境を越え中印戦争が勃発する。国境線画定の問題はあったものの、54年には平和共存のための5原則「パンチシール」に合意し、中国に好意的だったネルーにとっては個人的なショックであるとともに、国防に対する準備のなさを露呈した。

外交案件について決定を下すのはネルー自身であり、内閣や議会が果たしていた役割は小さかった。50年代半ばには、外交経験の深いボンベイ州のG・S・バジペイー知事は中国がマクマホン・ラインを承認した事実はなく、国境の警備を強化すべきだと進言。59年にはプラサド大統領がチベットはもはや緩衝地帯ではなく、中国に対する注意が不足していると指摘している。情報の欠如も著しかった。中国は56年から57年にかけてチベット西部への物資供給のため、インド、チベット、パキスタンの国境が入り組み、中印間で帰属が確定していないアクサイチン地域に道路を建設していた。インド当局がこの事実を知ったのは北京のインド大使が地元の新聞報道を報告した時であり、偵察機での事実確認はそれから1年後という有様だった。

ネルーに両国関係は友好的との考えを変えるつもりはなかったが、59年初めに中国は国境問題は存在しないというインド側主張は受け入れらないと表明。さらに3月にはダライラマがチベットから亡命する。ネルーの態度に変化が見られるのはこの年からで、中国は「パンチシール」の合意に違反していると発言し、またチベット領内にとどまっているインド人の安全を懸念。両国は他方が越境していると非難し合った。周恩来は中国領土には、インドが自国領とみなす4万平方マイル(10万4000平方キロ)が含まれると主張した。中ソ対立を背景にネルーはソ連からの支持を得る。また59年12月には、アイゼンハワーがインドを訪問。この時点でネルーは中国が本気で越境してくるとは考えていなかったようだ。「ほとんど人の住んでいない地域を得るために攻撃するとは理解しがたい」と米国人ジャーナリストに語っている。

周首相によるインド訪問(60年4月)が不調に終わり、インドはようやく国境線に監視ポストを設置して警備する「前進政策(Forward Policy)」を採り始める。それでもなお、その実施は遅々とした。中国による侵攻に懐疑的なままで、さらに、ガザ地区とコンゴに兵を派遣していたこともあって、インド軍の規模は全面的な侵攻に十分とは言えず、インド政府にとって62年10月20日の紛争勃発は不意打ちだった。

中国は越境ではとどまらず、11月半ばにはウタル・プラデシュ州にまで侵攻した。ヒマラヤの地形がインド軍の守備に不利になっただけでなく、戦闘計画、装備、後方支援などに関してもまったく準備が足りていなかった。11月19日、ネルーは米国に軍機の派遣を要請。21日、中国はアクサイチン地域のほとんどを実効支配する一方、「北東辺境特別行政地域(NEFA)」の約70%をインド側に渡して、一方的に停戦を宣言して撤兵する。歴史的な外国支配への反発、国内での「大躍進」政策の失敗、中ソ対立、ネルーの国際的な評価と親チベットの姿勢が、中国の侵攻決定に影響したとされる。

中印戦争の結果、国連での過激な発言などで物議をかもしてきたクリシュナ・メノン国防相に非難が集まり、同相は辞任。野党だけでなく、国民会議内からもネルー政権への批判が出始める。63年5月、最後の総督だったマウントバッテン卿がインドの国防計画を支援するためインドを訪れる。戦争でまたもや明らかとなったのは、ネルー一極集中の政治システムだった。

Tuesday, February 20, 2007

Portuguese Goa, Planning Economy and Dalits

アラビア海に面するゴアはポルトガルの植民地であり続けた。非暴力を貫くガンディー主義の理想との相違がここでも生じる。キリスト教文明と過去の栄光の象徴としてポルトガルにはゴアを手放すつもりはなかった。インドにとっては、英国がインドを去ったように、時間が経過すればポルトガルが撤退するのではという期待は無策をも意味した。60年、国連は帝国主義の終焉を求める決議を採択。また、アフリカではポルトガルによるアンゴラ領有などへの批判が高まっていた。インド船舶や警察署に対するポルトガルによる攻撃が状況を悪化させ、本国は約450年に渡って領有してきたゴアの秩序を維持できないようだった。

61年12月になって、米英および国連のウ・タント事務総長がインドに武力解決を避けるように求めるが、同月17日、インド軍はゴア領内に進む。この動きに国内からの反対はほとんどなかったという。国連安保理事会では、即時停戦を求める決議が米国、英国のほか、フランスとトルコによって提案されるが、アラブ連合共和国、セイロン、リベリアは反対。ソ連が拒否権を発動したことで採択されることはなかった。インド軍に抵抗することなくゴアは本国の意向に反して降伏した。米国メディアは、カシミールで住民投票を実施しないネルーが、住民が「解放」を望むと表明していない土地を武力解放したことに非難が集まった。ネルーにとっては、ケネディーの理解を得るうえで、ボンベイの枢機卿からの指示を得られたことも大きかった。

大規模ダムの建設で50~51年には年間42億ボルトだった発電量は、65~66年には同330億ボルトに増大。50~65年に農業生産は5.16%、工業生産は7.7%の増加をみた。また、50~51年から65~66年の間に鉄鋼生産とセメント生産は、それぞれ4倍とほぼ5倍に伸びた。独立から発展を遂げるインドではあったが、5カ年計画の実行は思うように進んでいなかった。独立後数年の輸入に活用した英ポンドの差引残高は、50年代後半までに底をついていた。同時に、輸入品目の価格が上昇するのに合わせて、原料の輸出国としての競争力は低下していた。

人口増加も発展の遅れの一因だった。51年には3億6000万人余りだった人口は、61年には約4億4000万人まで増加した。人口増加による食料不足を補うため、57年にはソ連と大型の工業プロジェクトとの引き換えとして援助で合意。翌年には、米国、英国、カナダ、西ドイツ、世界銀行から成るコンソーシアムとも合意に至った。60~61年には最大の支援国、米国からの援助は額にして3億4800万ドルに近くなっいた。国内外の問題で独自性を維持しようとするネルーが食料の外国依存を懸念したのは言うまでもない。

「ザミンダーリー」の土地所有規制を法制化したものの、50年代半ば、およそ20%の農地が小作農に貸し出されたもので、状況はほとんど変わっていなかった。生産量の増加は耕地面積の増加やさらなる労働力利用が理由で、大地主は依然として存在していた。土地への権利を示す証拠を持たない小作農は、地主から容易に立ち退きを命じられた。地主はまた、貸し出していた農地を「個人農地」にすることで所有規制法をかいくぐることもできた。61~62年、土地所有者の80%以上が所有する耕地は全体のわずか31.5%にすぎず、そのほとんどは3ヘクタール以下だった。20ヘクタールを超える大規模な耕地は全体の約11%で、1%に満たない所有者のものとなっていた。

カースト制撤廃や男女間の社会格差是正にもついても、大きな改革の理想は実っていなかった。 不可触民への差別を犯罪として法律が55年に制定された後も、56年に全国で裁判となった例はわずか700件。その後、ネルー在任の最後の3年間の件数はさらに減少して371~393件だった。そのうち、有罪となったのは法制定後3年間がほぼ43%だったのに対し、60~63年は約31%に低下した。有能な弁護士を雇える原告が法の抜け穴を見つけて無罪を得る一方、不可触民側の証人となろうとする人は少なく、警察は判事にも偏見や地元の有力者に媚びる態度が見られた。

Diplomacy, Communalism and Disorder in Congress

周辺国、とりわけパキスタンと中国との関係は重要だった。

独立時、インドでは多くがカシミールはいずれインドに帰属することを選択すると考え、ネルー自身もパキスタンの混乱を見て、国として生き残ることは困難との判断だったようだ。しかし、パキスタンが独立国として存在し続けることが明らかになるにつれ、両国統一は非現実的で、また両国外国の介入を招くのみとの認識から平和的共存を目指す。 ネルーとパキスタンの首相に就任していたモハマド・アリは53年にロンドンで会談したあとも相互訪問を行い、緊張緩和を印象付ける。だが、カシミール政府は帰属を決める住民投票に反対しており、54年には米国とパキスタンが締結した軍事同盟の影響から、カシミール問題の解決には至らなかった。

他方、国民党の蒋介石と夫人の宋美齢と親しい関係だったネルーは、中国とは国内問題の多くを共有していると理解していた。中国内戦で国民党が敗れると、蒋夫妻に対して個人的な思いはあったものの、「崩れ落ちている政府を指示するのは、善策ではない」として、49年には中華人民共和国を承認することを決める。ネルーは当初から、中国はアジアの国であり、ソ連に追随するようなことはなく、インド国境を武力で攻めることはないと考えていた。それゆえ50年に発生したチベット侵略には困惑した。彼の中国に対する考えは、後にインド自身に跳ね返ることになる。ネルーに中国情報を送っていたのはK・M・パニッカール大使だったが、パテル副首相は中国政府には領土拡大の意図があると読んだ。共産主義は帝国主義と変わらず、歴史的なつながりを持たずにイデオロギーをかざす中国の帝国主義は西欧より危険で、インド国境近くまで迫る中国の脅威を認識するように強く迫った。ネルーに北東部国境「マクマホン・ライン」を変更する意思はなかったが、中国による侵攻の可能性を否定し続けた。

53年12月から翌年4月まで行われた交渉の結果、中印両国は「領土保全と主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等と相互利益、平和共存」を定めた5原則「パンチシール(panchsheel)」に合意する。54年10月、ネルーは北京を訪問。中国の地図にはインド領を中国領として記載しているものがあると指摘した。周首相は、「古地図にすぎず、新たに地図を作成する時間がない」と述べたという。中国から帰国したネルーは55年1月、中国との国境に差し迫った危険はないと繰り返す。同年夏と56年には、中国側による越境行為が発生する。

国内は独立後数年を経過しても落ち着かない。首相兼外相としての重責に加えて加齢の影響も顕著になってきた。理想と原則を何より重視するガンディー思想と実際の政治に必要な妥協の狭間で苦悩することも多くなる。

民族、宗教、言語、階層が複雑な国土を州に分割する作業は困難だった。56年に制定された「州再編法」はグジャラティとマラーティを母語とする住民が混在するボンベイ州の問題を未解決のまま残していた。ネルーは国民会議への支持低下を受け、ボンベイをグジャラートとマハーラシュトラの両州に分割することを決断する一方、シーク教徒の宗教政党アカリ・ダルが主張したパンジャブ語州の創設には「混成国家」の原則に反するとして断固拒否した。

アッサム州に組み込まれていたネガ地域は同州からの分離を求めていた。55年、中央政府は秩序回復のために軍を投入。57年には自治権を持つ中央直轄地としたが、ネガ住民の不満を抑えることにはならなかった。中国との国境問題に関わる地域でもあり、ネルーは60年7月、「ネガランド」の創設に合意した。(正式な合意実施は63年。)

ヒンディー語を国の公式言語にすべきかも大きな問題だった。ヒンディー語と異なり、サンスクリット語を源泉に持つ言語を使用する南部住民はヒンディー語の採用が政府による雇用に影響することを懸念した。憲法は各地で地方言語を使用することを認め、ヒンディー語を母語とする住民が多数を占める地域と全国では同語 を公用語と定めた。英語は「15年間」に限って、国の公用語、また州間のやりとりに使用することを規定した。15年が過ぎようとすると、英語が公用語でな くなることを不安視する声が再び南部で強まり、ネルーはこの不安の軽減と英語使用の有益を考慮して、63年の「公用語法」でヒンディー語に加えて英語を公用語として継続使用すること決めた。

民主主義や選挙という権力、利権、妥協の絡む制度の中で、国民会議内部の団結の欠如、ネルーの出身地であるウタル・プラデシュ州など中央の意向通りにならない地方組織など、乱れも表面化する。国民会議総裁には55年にU・N・デバールが選出されて以降、ネルーは中央政府の首相が党内部の問題に深く関わることをためらっていたようだ。

南西部ケララ州では共産党が勢力を伸ばし、57年の地方選挙では126議席のうち60議席を獲得して第1党となった。同党が与党となったのはこれが全国で初めて。土地改革、労働者の権利といった分野で急進的な政策を推進するとともに、州からの助成を受ける私立の教育機関に対する政府権限を拡大する「教育法」を制定した。ケララ州国民会議は他の反共産党勢力とも協力して学校でピケを張るなど、与党の追い落とし狙う運動を展開。59年6月には警察の発砲によって数人が死亡、数千人が逮捕された。

同州国民会議の行動を黙認すれば民主主義原則に反し、強く抗議すれば党の分裂を招きかねない状況で、国民会議指導部は再度の選挙実施を求めることで事態収拾を図る。選挙のやり直しには、与党共産党が反発するのは必至。その場合は連邦大統領に事態調査を求めることで国民会議内部は合意したが、ケララ州を大統領直轄とすべきとの意見も存在した。また、食料の生産を停止して州政府に圧力をかける計画もネルーの知るところとなり、国民会議中央が地方組織への統制と影響を失いつつあることを表した。60年に実施された再選挙(対象議席数108)で共産党は39%の得票率を得たものの26議席に終わった。国民会議は得票率(34%)で共産党に及ばなかったものの、63議席を獲得した。

Monday, February 19, 2007

Tiger Jeet Singh

カナダでは狂虎タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)の半生を描いたドキュメンタリーが昨年テレビ放送された。ぜひ見てみたい。

カナダCBC放送のウェブサイトwww.cbc.ca/documentaries/cinemareal/tiger_interview.html)によれ17歳のとき(21歳説あり)、パンジャブ州からバンクーバーに移住。そのときポケットには6ドルしかなかったという。高校卒業後にトロントに移る。

日本では、新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃など、リングの外でもさんざん悪役だったこの人、実はカナダや米国ではベビーフェース役もやっている。猪木とのNWF選手権試合できわめてクリーンファイトに徹したこともあった。このCBCのインタビューは、「日加タイムズ」の記事から翻訳されたものらしいが、「天皇も大ファンで何度も招待を受けた」などと答えるなどといい加減なところもある。写真はNWFベルトを巻いたご本人。

Bandung Conference, Suez Crisis and Hungary Uprising

非同盟原則が世界に大きく知られるようになった契機のひとつが、55年4月にインドネシアで開催された第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)だ。前年に開かれたビルマ、セイロン、インド、インドネシア、パキスタンによる首脳会議がその準備だったと言える。バンドン会議には29カ国が参加。中国からは周恩来首相が出席した。51年に米国と安全保障条約を締結した日本も参加している。

会議の目的は、参加諸国間の理解と友好の促進、共通する国内問題の討議、国際情勢の分析、世界平和への貢献などだった。会議がまとまりを欠くと開催国インドネシアに対する評価にかかわると懸念して、ネルーはこの会議の準備に細かく関与したという。開催中、非同盟原則を堅持しようとするインド、ビルマ、そしてインドネシア、エジプトに対し、トルコ、パキスタン、イラク、レバノン、イランなどは親米路線を主張。間に入ったエジプトの努力で何とか妥協にこぎつけたらしい。採択された10原則には、国連憲章に則って自衛権保持が明記されている。周首相は、中国が領土拡大や他国の内政に干渉する意図を持っていないことを表明した。

ネルーはバンドン会議が非同盟諸国のまとまりのなさを露呈させ、周到な準備によって最小限の団結を示すことができたと感じ、参加国首脳は意見の差異があからさまになることを避けて、以降の会議開催を見送った。

ネルーの非同盟原則堅持に大きな危機が訪れたのは、スエズ危機とソ連軍のハンガリー侵攻が同時発生した56年だった。下院が第2次5カ年計画を審議している最中とも重なり、首相兼外相のネルーが抱えた重荷は相当だった。

ネルーはエジプトのナセル大統領と緊密に連絡を取っており、西側諸国は仲介者として期待を持った。スエズ危機はネルーにとって、主権維持と帝国主義支配から脱却した国の現実を示した。また、スエズ運河の自由な通行はインドの通商と経済発展に不可欠だとの認識だった。インドはエジプトからの軍事物資提供の要請を拒否したものの、パント内相はパキスタンが英仏イスラエルを支持した事実を指摘するのを忘れなかった。

ネルーは交渉による解決を目指したが、10月末に英仏があからさまな軍事介入を開始したことに激怒。米国が英仏に反対する立場を取ったことが停戦を生み、結果的にインドと米国の関係を良好化に寄与した。インド国内には英国が植民地主義に回帰したかのような状況にもかかわらず、英連邦残留を決めたネルーへの批判もあった。

一方、ハンガリー動乱はインドの評価を低下させることになる。

スエズ危機と比較して、東側ブロックに関する情報は乏しかった。情報はソ連とユーゴスラビアのインド大使館から入ってきたが、ハンガリーでのインド代表を兼任していた駐ソ連大使が病気だったことも状況を悪化させた。ブダペスト常駐のK・A・ラーマン第一書記は暗号保持の手段を持っておらず、機密情報のやり取りは不可能だった。米国が国連への付託提案を持ちかけても、直接情報の欠如から同意できない有様だった。同時進行していたスエズ危機で、できればソ連をエジプト側に付かせたい思惑や、スターリン後のソビエト指導部への信頼もあり、ネルーの立場は困難なものとなった。11月になってハンガリーから介入要請が届く。インド外務省の高官、N・R・ピライの「これまで主張してきた原則に照らして」ハンガリー情勢を再検討するべきとの主張や、国民会議の旧友J・P・ナラヤンの「旧帝国主義より危険な革命の衣を借りた新帝国主義」を黙認してはならないとの忠告があり、また米国はエジプトでの帝国主義的行動を非難しながら、ハンガリー動乱には沈黙する姿勢を懸念すると警告していた。

ネルーは11月2日、駐ソ連大使にインドの懸念と自由を希求する人民への理解をソ連指導部に非公式に伝えるよう指示。翌3日、同大使に事態悪化は、スエズ危機から注意をそらすことになることもあり、最も不幸なことだと伝えるが、情報の不足を理由にソ連を公に非難することはなかった。国内の支持者からも二重基準を批判され、国連大使クリシュナ・メノンが事態をさらに悪化させる。8日と9日、動乱はハンガリーの国内問題でソビエト軍の武力行使を非難する決議を棄権した立場を「自身の判断で」正当化する演説を行う。(ちなみにメノンは57年1月23日、インドのカシミール問題に対する立場を擁護する演説を国連安保理事会で8時間に渡って行っている。)16日になって、ネルーはソビエト軍の撤退を求め、19日には動乱はハンガリー国民の外国支配への反対行動だと述べる。国連事務総長と監視団の受け入れをソ連に迫ったことから、「ソビエトにとってハンガリーは、カシミールがインドにとって重要なのと同じ」だと、ソ連指導部の怒りを買う。スエズ危機とハンガリー動乱は、首相と外相を兼ねることの困難さを浮き彫りにした。

久しぶりに電気ショックを経験している。薬がなくなったためだ。連休が終わったら、もらいに行かないと……。また出費。

Sunday, February 18, 2007

NISHITETSU/TAIHEIYO CLUB LIONS and NANKAI HAWKS

太平洋クラブライオンズのなつかしい見覚えのある写真を見つけた。週刊ベースボールに掲載されたものに違いない。東尾修と加藤初が並んで写っている。ストッキングの伸ばし方はこうじゃないとあかん。最高だな。場所は西宮スタジアム。元ワシントン・セネターズの主軸だったハワードが来日してキャンプに参加したとき、ボルティモア・オリオールズのレギュラーだったビュフォードと並んで「凸凹コンビ」として掲載されていたのもなつかしい。もう一度見たい!ユニフォームは白と青のホーム用だった。それから、福岡の「稲尾スポーツ」が西鉄ライオンズのキャップやジャンパーを販売していることも発見!

南海ホークスものを復刻して販売しているサイトもあるが、写真を見る限り「本物」とは認められない。まったく買う気にならない。自分で作った方がいいものができる!

Nehru's Ecomonic and Non-Alighment Policies, and What's Nomo Doing?

社会主義者を自認したネルーの経済成長策は、工業化に必要な社会基盤構築における国の役割を重要視。また土地制度の改革を推進するため、戦略的産業は国営を維持しながら民間の能力も利用するものだった。第1次5カ年計画(51~56年)の支出は、治水と発電(28.1%)や運輸・通信(23.6%)を中心にして、農業と地域社会開発(15%)に大きく割かれた。雇用拡大、経済的格差の是正を図って急速な成長を遂げようとするのは、第2次5カ年計画(56~61年)になってからで、結果として農業や公共サービスへの支出割合は減少した。

国の経済成長には土地改革が不可欠との考えから、大地主が所有する土地、「ザミンダーリー(zamindari)」の規模を制限しようとする。しかしビハール州で制定された規模制限法が違憲と判断され、ネルーは51年6月に憲法を修正してザミンダーリー廃止に関する法律を裁判所の権限外とした。実際には、土地の再分配や地方社会の発展に大きく貢献できる結果とはならなかった。大地主らは規模制限法案の内容を事前に知り得て、その意図を骨抜きにするような措置を講じていたという。

一方、憲法発布から10年以内に14歳までのすべての児童に無料で基礎教育を受けさせる計画だったが、これも思うようには進まなかった。政府支出の教育への割合は第1次5カ年計画の8.7%から第2次計画では6.7%と後退し、教育の占める優先順位の低さをうかがわせる。政治家は自身の子供の教育への支出に不自由しているわけではなく、また州政府には教育改革に必要な膨大な資金が欠如していた。

ネルーの掲げた政策が計画通りに実らなかった理由には、民主的だからこそ生じる意見対立や既得権益の維持のほか、権限を十分に委譲しなかったため実行の効率性に影響したことが挙げられている。

ネルーは外相も兼任し、冷戦で対峙するどちらの大国の同盟国にもならず非同盟主義を貫く。同時に、独立して間もない国の安定には諸国との友好的関係が不可欠であることも十分認識していた。特に陸からの侵略ルートとなる北方の周辺国、パキスタン、ソ連、中国との関係を重視した。また、共和国となったため、英連邦(コモンウェルス)への帰属も問題となった。民主的理想のほか、独立インドの制度の多くの部分が英国のそれを継承していること、通商や英国製武器の使用など、現実的な利益もあって英連邦にとどまる判断となった。49年4月の英連邦首相会議はロンドン宣言で、「英国王室を独立国の自由な連合の象徴」と規定し、法的な問題を解決した。

野茂くんはどうしてるんかんなぁ?彼の姿は出てこんかったかけど、あんまりよくないニュースを「夢で」見たので、ちょっと心配。公式サイトのメッセージは年末に「焦らずに」と更新されたのが最後。同世代の「英雄」だからな。彼の方が若いけど。

続いて、イヌを飼うことにした夢を見た。茶色でハナ筋の通った大型犬だが、まだ子供。ペットショップのおばちゃんが、「年齢は、明日連絡してあげる」と言っていた。たいへんなついてくれてうれしい。

48年11月、ネルーは国連総会で演説。国連憲章の原則に沿ってインドが行動することを誓う。後に大国ゲームの道具と化していき、またカシミールを始めとする問題解決などへの国連の有効性に疑問を抱くようになるが、この組織を世界平和への舞台とする姿勢は変わらなかった。50年代初めには米国が反対する中、中国全土を掌握した中華人民共和国の国連加盟を強く主張した。51年1月の英連邦会議までにネルーのアジア問題に関する発言は重さを増す。この会議でも中華人民共和国の重要性とこれを孤立させようとする米国の路線と一線を画すことを強調した。

ソビエト連邦は独立当初のインドをそれほど真剣に見ておらず、インドは言語と民主主義という点で親密さのある米国寄りの立場だった。米国との関係がぎくしゃくし始めるのは、51年。食糧援助を巡ってだった。ネルーは米国がインド独自の外交方針を理解していると考えていた。しかし、援助の決定は米国議会でなかなか進展せず、最終的に決定された援助は、食糧200万トンの輸送監視などを主張する内容だった。

さらに関係を悪化させたのは54年の米国とパキスタンの軍事同盟で、ネルーにとっては南アジアに冷戦を持ち込むものだった。ネルーは議会で、「パキスタン支援は対インドを意図したものではなく、インドへの経済・技術援助には影響しない」というアイゼンハワーによる書簡の内容を明らかにしている。米国のパキスタン支援は、カシミールの非軍事化後に住民投票実施という計画を実現不可能なものにし、ネルーの米国外交政策への態度はより厳しいものになった。非同盟の原則を理由に、フランス兵と輸送する米軍機の領空通過を認めなかったのもこの頃だ。米国内では、パキスタン支援に反対しながら、食糧援助は受け入れるというインドの方針に批判が出た。

ソ連との関係も近いものではなかった。だが、ソ連は52年からカシミール問題に関して国連の場でインドを支持するようになる。インドはあくまで非同盟を崩さなかったが、55年には両国首脳の相互訪問とソ連からの技術支援を受けることになったほか、フルシチョフとブルガーニンの訪問中、ネルーはインド共産党を援助せず、インドの国内問題には介入しないとの確約を得る。ネルーはスターリン後のソ連を「世界革命」より国内発展を優先するだろうと判断した。

Saturday, February 17, 2007

Japanese Edition of "Princess Masako" Canceled

講談社が「プリンセス・マサコ」日本語版の発売を中止。「事実誤認が多く」、また「日本の読者にはなじまない表現」があるためらしい。いつだったか原著を当地紀伊國屋で見かけたが、手に取ることもしなかった。この「なじまない表現」、元が日本語で書かれていないのだから、当然のことで、それを自然な表現にするのが翻訳者の仕事だと思うけど、そう意味ではない「それ以上に」なじまないものがあったのではないかと推測する。宮内庁は皇太子妃の症状について「適応障害」と発表しているが、平たく言えば「うつ病」なんじゃないのか。

独立を達成したインドだが、男尊女卑の文化打破やカースト制の解体など、問題は山積していた。中央と地方との関係も対応が迫られた。カシミールは言うに及ばず、ハイデラバード、ボーパール、ラジャスタンなどの「藩王国(princely states)」の帰属問題も大きなものだった。

47~48年の収支がベルギーとほぼ同規模だったというハイデラバードでは、藩王ニザームがイスラム教徒、住民の過半数はヒンドゥー教徒であり、中央政府は微妙な対応を迫られた。ニザームは、独立かパキスタンへの帰属を目論んでいたようだが、国内に大きなパキスタン領の飛び地が出現することを政府は当然懸念した。ネルーは48年3月の時点で、帰属は「住民が決定すること」で、武力によってインドへの帰属を強制したくないと述べる一方、民主国家インドにおいて、封建制度を維持する藩王国の存在を認めることはできないとクギをさしている。

藩王が黙認するイスラム過激派による暴力のほか、共産主義系の農民運動による「農地解放」が進み、9月7日、ネルーは憲制会議で自由で民主主義のインド国内にハイデラバード藩王国の存在を許すことはできないと演説。インド政府軍の介入が始まった数日内にニザームはインドへの帰属を決めた。

ネルーが「混成国家(composite nation)」と呼んだ独立インドの憲法は49年11月26日に制定され、発布は翌50年の1月26日。表現、信仰、職業、集会など、基本的自由を保証し、少数民族や被差別階級への保護を規定している。(さらに「不可触民(untouchables/dalit)」への差別を禁止する法律「Untouchability (Offences) Act」が55年に制定されている。)英国支配から「道徳革命」によって独立を勝ち取ることをもっぱら目指したのが国民会議だった。政治の猥雑さを嫌ったネルーは国民会議の政党化にも思い悩む。加えて、政治権力の蜜を味わってしまったメンバーによって活動の質が低下してしまったことも悩みの種だった。

52年に実施された初の下院(Lok Sabha)選挙で、国民会議の得票率は45%。全489議席のうち364議席を獲得した。第2党になったのは、16議席(得票率3.3%)のインド共産党だった。ヒンドゥー教徒の利益を優先させ、ムスリム連盟と非宗教主義の国民会議との違いを強調して15年に設立されたヒンドゥー・マハサバ(Hindu Mahasabha, maha=great/sabha=assembly)は4議席に終わった。

Thursday, February 15, 2007

India's Road to Independence and beyond

インド独立への道とネルーの時代

主に“Nehru: A Political Life” (Judith M. Brown) から。地主などは英国による統治という現状維持を望んでいた。また、全インド人民の代表であることを基盤とする国民会議に対し、ムスリム連盟を主導するジンナーは1938年のボース国民会議総裁との会談で、すべてのイスラム教徒を代表すると主張。ヒンドゥー・インドと分離した国家、「パキスタン」の樹立を目指し、国民会議との対立が先鋭化する。一方、断食で英国統治に抗議するガンディーの非暴力運動は迷走する。父と妻の死を経験しながらネルーは投獄されることを繰り返す。皮肉なことに投獄中は日常の政治活動から開放され、読書と執筆に時間を割ける機会でもあった。ネルーは行動の欠如した政治への失望を抱きながらも、独立後のインドの指導者としても地位を確立していく。

42年、英国政府の閣僚、クリップス卿は英国の戦争遂行への協力と引き換えるような形で、戦後、インドに完全独立する権利を与えると申し出る。この提案は、インド独立に反対するリンリスゴー総督とチャーチル首相の反発に会い、同時に戦後制定されることになる憲法の枠組みを拒否することを地方に認める内容だったため、ムスリム連盟を勢いづける結果となる。(シンガポールでのボースによるインド自由政府樹立は43年10月。)

46年3月、英国政府はクリップス卿ら3人の閣僚からなるミッションを派遣。派遣団は、外交と国防を担う中央政府と州の「グループ化」による連邦制、詳細を決定する憲制会議発足と臨時政府樹立を柱とする案を提示する。国民会議はこれによってイスラム教徒が多数を占めるアッサム州や西ベンガル州が「イスラム州グループ」に組み込まれることを懸念したものの同意。ムスリム連盟はパキスタン樹立への一歩としていったんは受け入れたものの、臨時政府の内容などを巡って結局拒絶する。

8月16日にムスリム連盟が組織した「直接行動」を機に、カルカッタで1週間で約4000人が死亡する大規模な暴動が発生する。9月2日、ムスリム連盟が参加しないまま臨時政府が発足。

英国では、45年7月の総選挙でチャーチルの保守党が敗北し、アトリーの労働党政権が発足していた。同政権は事態を進展させるため、47年2月には東南アジアの連合国最高司令官マウントバッテン卿をシンガポールから呼び、ウェーベルに代わって総督に就任させ、英国政府は48年6月までのインド独立を発表する。

マウントバッテン卿が総督に就任してほどない3月8日、国民会議の実務委員会(CWC)は、最終的な分離を最小限に抑えるには暴動が広がったパンジャブ州(とベンガル州)を独立時に分離する可能性を認める。英国政府が当初示したインド分割案は、2分割以上の国土「バルカン化」(ネルー)であり、ネルーには到底受け入れられるものではなかった。2分割案をマウントバッテン卿がロンドンから持ち帰ったのは6月2日だった。国民会議は現実を直視し、さらなる混乱を回避するため、この案を受諾した。

インド独立は8月15日午前0時。ガンディーは独立式典には参加せず、分割の悲劇をカルカッタで断食して迎えた。独立宣言後の数時間内には州内がインドとパキスタンに分割されたパンジャブ州での暴動が再発。ヒンドゥー教徒、イスラム教徒のほか、住居地域に分割ラインが走るシーク教徒を巻き込んだ。

カシミール州では、州内住民から支持を得ていたシーク・アブドゥラを獄に捕らえたままで、帰属を決められないマハラジャ(藩王)の両国内からの扇動もあり、混乱が激化。10月にはマハラジャが州都スリナガールを脱出し、インドに支援を要請する。インド政府は同州がインドに帰属することとアブドゥラとの臨時政府発足を支援の条件にしたため、マハラジャはこれに合意。帰属について中央政府は、事態が沈静化してから住民の意見を問うべきとも主張した。パキスタンはマハラジャの合意を違法とし、インド軍が州内にとどまる限りパキスタンからの「侵入者」を撤退させることを拒否する。翌年1月1日、インドは国連に侵入者へのパキスタンの援助とインドの自衛権を主張し、「カシミール問題」は国際化されることになる。

国連への申し立てによって紛争は余計に複雑化し、その状況は今も変わっていない。ただ、当時と現在では国連への見方がずいぶん異なることを考慮する必要がある。

国連という組織への見方が大きく変わったというのに、敵国条項をそのままにしながら巨額を拠出し、さらにおおっぴらに「軍」と呼べるのは「巨人軍」ぐらいにもかかわらず、連合軍が設立したこの組織の安保理事会の常任理事国になりたいなどと、未だに夢物語を続けようとするおめでた~い国もあるが……。今年、韓国の潘基文が事務総長になって、彼の任期中は夢のまた夢だ。

Stalin's Paranoia and Death

アバクモフ逮捕、「シオニスト」の弾圧激化

Riumin, thirty-eight, plump and balding, stupid and vicious, was the latest in the succession of ambitious torturers… He had his own problems. Dismissed for misappropriating money in 1937 – and now in danger in killing the elderly Jewish doctor, the Midget decided to act… [H]e lit the fuse of the Doctors’ Plot.
On 2 July 1951, Riumin wrote to Stalin and accused Abakumov of deliberately killing Etinger to conceal a Jewish medical conspiracy to murder leaders such as the late [Alexander] Shcherbakov. This brought together Stalin’s fears of ageing, doctors and Jews… The Doctors’ Plot worked against Beria and the old guard like Molotov but this swelling case could threaten Malenkov and Khrushchev too. So often at Stalin’s court, a case would start coincidentally, be encouraged by some magnate and then be spun back at them by Stalin like a bloody boomerang… Riumin’s allegation of medical murder may have been prompted by Stalin himself – or it may have been the spark that inspired him to reach back to Zhdanov’s death and create a maze of conspiracies to provoke a Terror that would unite the country against America outside and its Jewish allies within.
He now ordered Beria and Malenkov to examine the ‘Bad Situation at the MGB’, accusing Abakumov of corruption, ineptitude and debauchery. Around midnight 5 July in the Little Corner, Stalin agreed to Malenkov’s suggestion to appoint Semyon Ignatiev… as the new boss. At 1 a.m., Abakumov was called in to hear of his downfall. Riumin [was promoted] to General and, later, Deputy Minister… Henceforth Stalin himself ran the Doctors’ Plot through Ignatiev. Stalin sent Malenkov to tell the MGB that he wanted to find a ‘grand intelligence network of the USA’ linked to ‘Zionists’.
The next day, 12 July, Abakumov was arrested. In the tradition of fallen secret policemen, his corruption was lovingly recorded: 3,000 metres of expensive cloth, clothes, sets of china, crystal vases… Abakumov’s young wife, Antonina Smirnova, with whom he had a two-month son, had received 70,000 roubles-worth of presents… So she was arrested: the destiny of the girl and the baby are unknown.
Abakumov, no longer a Minister but just a number, Object 15, spent three months shackled in the refrigerator cell, being viciously interrogate by his nemesis, the Midget.
Abakumov had been destroyed for failing to push the Jewish Case. Ignatiev and… Riumin set about torturing the Jewish officials of the JAFC and the doctors to ‘substantiate the evidence of espionage and nationalistic activity’. (pp. 543-544)

老いと猜疑、後継者潰し

Riven by arthritis, diminished by raging arteriosclerosis, dazed by fainting spells, embarrassed by failing memory, tormented by sore gums and false teeth, unpredictable, paranoid and angry, Stalin left on 10 August for his last and longest holiday.
But dizzy spells were not going to stop him cleansing his entourage:
‘I, Molotov, Kaganovich, Voroshilov – we’re all old… we must fill… the Politburo with younger… cadres,’ he ominously told Mgeladze… ‘I don’t even trust myself.’
At dinner, he… embarked on that favourite but lethal subject – his successor. It could not be Beria because he ‘wasn’t Russian’, nor Kaganovich, a Jew. Voroshilov was too old. He did not even mention Mikoyan (an Armenian) or Molotov. It could not be Khrushchev because he was a ‘country boy’ and Russia needed a leader from the intelligentsia. Then he named Bulganin… as his successor as Premier….
Svetlana’s marriage to Yury [Zhdanov] was over after just two years….
[Stalin] did not hold it against Yury but invited him to stay at Lake Ritsa… When they naturally talked about the campaign against cosmopolitanism, Zhdanov, who had played his own role in hunting out Jewish scientists, asked Stalin if he thought it was ‘assuming a lopsided national character’, meaning it was aimed too much against the Jews.
‘Cosmopolitanism’s a widespread phenomenon,’ replied Stalin… he cited a Jewess he admired: ‘Maria Kaganovich – there’s a real Bolshevik!...’ In the morning… Yury watched Stalin peruse Pravda. ‘What are they writing about?’ he snarled, reading out, ‘Long live Comrade Stalin, leader of the nations!’ – and he tossed it away in disgust.
He furiously summoned the Georgian MGB boss… [N.M.] Rukhadze. ‘The Mingrelians are totally unreliable,’ said Stalin… Thousands of Mingrelians were arrested but Stalin wanted to destroy Beria….
The Beria family, Nina and Sergo, sensed this tightening garrotte. Stalin appointed Beria to give the prestigious 6 November address but three days afterwards, he dictated an order about a Mingrelian conspiracy that directly threatened Beria, using his wife Nina’s links to the Menshevik émigré in Paris.
Vasily Stalin naively confided to Sergo Beria that relations between their fathers were ‘tense’… Svetlana, who was close to Nina, warned her that something was afoot. Beria’s marriage to Nina was under strain because Lilya Drozhdova (who was about seventeen) had given birth to a daughter by Beria… [Nina] unhappily decided she needed a separate life and built herself a cottage in Sukhumi.
… The torture chambers of Ignatiev and Riumin groaned with new Jewish and Mingrelian victims to destroy Molotov and Beria….
In March 1952, Beria sacked Charkviani, replaced him with Mgeladze and publicly admitted:
‘I too am guilty.’
That spring, Stalin was examined by his veteran doctor, Vinogradov, who was shocked by his deterioration… This exacerbated Stalin’s anger, amnesia and paranoia… Stalin… ordered his medical records destroyed and resolved to see more doctors. Vinogradov was an Enemy.
On 15 February, Stalin ordered the arrests of more doctors who admitted helping killing Shcherbakov, which in turn led to Dr Lydia Timashuk, the cardiologist who had written to Stalin about the mistreatment of Zhdanov. Stalin called in Ignatiev and told him, if he did not accelerate the interrogation of the Jewish doctors already under arrest, he would join Abakumov in prison….
… at midday on 8 May, the ‘trial of the Jewish poets’ starring Solomon Lozovsky, former Deputy Foreign Minister, and the Yiddish poet Perets Markish opened in the Dzerzhinsky Officers’ Club at the Lubianka. Stalin had already specified that virtually all the defendants were to be shot.
[Lozovsky’s] speech shines out of this primordial darkness as the most remarkable and moving oration of dignity and courage in all of Stalin’s trials. He also shredded Riumin’s imbecile Jewish-Crimean conspiracy.
… on 18 July, [the judge, Lieut.-Gen. Alexander] Cheptsov sentenced thirteen defendants to death (including two women), sparing only the scientist Lina Shtern, perhaps because of her research into longevity. But Cheptsov did not carry out the executions, ignoring Riumin’s shrill orders to do so, and appealed to Malenkov.
… Stalin rejected official appeals. Lozovsky and the Jewish poets were shot on 12 August 1952. (pp. 545-551)

「ドクダーズ・プロット」

By September, Ignatiev, assisted by… Riumin, had tortured the evidence out of his prisoners to ‘prove’ that the Kremlin doctors, led by Stalin’s own physician, had indeed murdered Zhdanov, Shcherbakov, [the Bulgarian leader, Georgi] Dmitrov and [Mongolian Marshal] Choibalsang. A new crop was arrested but not yet Vinogradov….
[In the Doctors’ Plot, Stalin] weaved a tapestry that sewed together every intrigue and leading victims since the war, in order to mobilize the Soviet people against the external enemy, America, and its internal agents, the Jews, and therefore justify a new Terror… Just as in 1937 a man did not have to be a Trotskyite to be shot as one, so now the victims did not have to be Jewish to be accused of ‘Zionism’: Abakumov, no philo-Semite, was now smeared with Zionism…. (p. 552)

モロトフ、ミコヤンを政治局から排除

[At the Plenum on 16 October 1952,] ‘So we held the Party Congress [on the 5th],’ [Stalin] said. ‘It was fine and it would seem to most people that we enjoy unity. However, we don’t have unity…’ ‘If we talk about unity, I cannot but touch on the incorrect behaviour of some honoured politicians. I mean Comrades Molotov and Mikoyan.’
First he dealt with Molotov:
‘Molotov’s loyal to our cause…’ ‘Comrade Molotov, our Foreign Minister, drunk on chartreuse at a diplomatic reception, let the British Ambassador publish bourgeois newspapers in our country… This is the first political mistake. And what’s the value of Comrade Molotov’s proposal to give the Crimea to the Jews? That’s a huge mistake… the second political mistake of Comrade Molotov.’ The third was Polina: ‘Comrade Molotov respects his wife so much that as soon as we adopt a Politburo decision… it instantly becomes known to Comrade Zhemchuzhina… A hidden thread connects the Politburo with Molotov’s wife – and her friends… who are untrustworthy. Such behaviour isn’t acceptable for a Politburo member.’ Then he attacked Mikoyan for opposing higher taxes on the peasantry: ‘Who dare he think he is, our Anastas Mikoyan? What’s unclear to him?’
Then he pulled a piece of paper out of his tunic, and read out the thirty-six members of the new Presidium, including many names… When he proposed the inner Bureau, everyone was astonished that Molotov and Mikoyan were excluded… [Stalin] explained their downfall: ‘They’re scared by the overwhelming power they saw in America.’ He ominously linked Molotov and Mikoyan to the Rightists, Rykov and Frumkin, shot long before, and Lozovsky, just shot in August.
Molotov stood up and confessed….
Mikoyan fought back defiantly….
Then a voice called out:
‘We must elect Comrade Stalin General Secretary!’
‘No,’ replied Stalin. ‘Excuse me from the posts of General Secretary and Chairman of the Council of Ministers [Premier].’ Malenkov stood up and ran forward….
‘Comrades! We must all unanimously demand that Comrade Stalin, our leader and teacher, remain as General Secretary!’… Malenkov’s jowls relaxed as if he had ‘escaped direct, real mortal danger’. But he was not safe yet.
Stalin’s decision to destroy his oldest comrades was not an act of madness but the rational destruction of his most likely successors. As Stalin remembered well, the ailing Lenin had attacked his likely successor (Stalin himself) and proposed an expanded Central Committee with none of the leaders as members…. (pp. 555-557)

医師ヴィノグラドフも逮捕

… Stalin was now supervising the climax of his Doctors’ Plot, burning with fury against Professor Vinogradov for recommending his retirement….
On 4 November, Vinogradov was arrested…. (p. 557)

Stalin was infuriated by Riumin’s slowness in beating the evidence out of the doctors… He shouted at Ignatiev: ‘Beat them!... If you want to be Chekists, take off your gloves.’…
On 13 November… he ordered the petrified Ignatiev to sack Riumin: ‘Remove the Midget!’ As for the doctors, ‘Beat them until they confess! Beat, beat, beat again. Put them in chains, grind them into powder!’…
[Vinogradov] tried to name dead people whom his testimony could no longer harm. Stalin then lashed out at Ignatiev himself for his backsliding. Ignatiev suffered a heart attack…. (p. 558)

Now Stalin turned on his dogged retainer, Vlasik… Vlasik had been on drinking terms with the homicidal doctors but he also knew too much, particularly that Stalin had been informed of Zhdanov’s mistreatment and done nothing about it. Vlasik had probably only ignored Timashuk’s letters on Stalin’s lead. But now he was arrested, brought to Moscow and accused of concealing the evidence with Abakumov… … his arrest was a cunning move because Vlasik’s ‘treason’ helped cover Stalin’s own role. All his mistresses and drinking cronies were arrested and questioned by Malenkov. Vlasik was tortured… But Stalin also learned that Poskrebyshev had shared Vlasik’s orgies….
Stalin sacked Poskrebyshev… He had removed his two most loyal servants. Stalin now had enough evidence to escalate the hysteria.
… ‘What will happen without me is that the country will die because you can’t recognize your enemies.’ Stalin explained to the ‘blind kittens’ that ‘every Jew’s a nationalist and an agent of American intelligence’ who believes ‘the USA saved their people’…. (pp. 558-559)

側近らの恐怖

Molotov and Mikoyan, realizing their lives were in danger, met in the Kremlin to decide what to do. Mikoyan had always trusted Molotov not to repeat his comments… Both were hurt, and angry.
[Stalin’s] unpredictable fury, frantic hastiness and implacable paranoia ironically drove the magnates closer together. Beria and Khrushchev were against Stalin’s charges. Malenkov comforted Beria who comforted Mikoyan; Khrushchev and Beria comforted Molotov.
December 21 was officially Stalin’s seventy-third birthday….
So at 10 p.m. on the 21st, [the magnates] arrived at Kuntsevo….
… Stalin was ‘angry and indignant’ that the Four had invited Molotov and Mikoyan.
‘You think I don’t realize you let Molotov and Mikoyan know? Stop this! I won’t tolerate it,’ he warned Khrushchev and Beria… This really alarmed Mikoyan:
‘It was becoming clear… Stalin wanted to finish with us and that meant not only political, but physical destruction.’
… Stalin sometimes asked the Four: ‘Are you forming a bloc against me?’ In a sense they were, but none of them, not even Beria, had the will. Mikoyan discussed, probably with Molotov, the murder of Stalin but, as he later told [Albania’s] Enver Hoxha, ‘We gave up the idea because we were afraid the people and the Party would not understand.’ (pp. 560-561)

On 13 January 1953, after two, maybe even five, years’ patient plotting, Stalin unleashed a wave of hysterical anti-Semitism by announcing the arrest of the doctors in Pravda… On 20 January, Doctor Timashuk… was called to the Kremlin where Malenkov gave her Stalin’s personal thanks for her ‘great courage’ and the next day, she received the Order of Lenin… Meanwhile throughout January and February, the arrests intensified.
The [Pravda] article revealed the lack of vigilance in the security services, a signal that Beria himself was a target. Not only Beria’s allies arrested in Georgia; his protégés in Moscow, such as the Chief of Staff, Shtemenko, were sacked. His ex-mistress V. Mataradze was also arrested… Beria ‘expressed his disrespect for Stalin more and more boldly’, noted Khrushchev, ‘insultingly’. He even boasted to Kaganovich that ‘Stalin doesn’t realize if he tried to arrest me the Chekists would organize an insurrection.’ (pp. 561-562)

Stalin closely read the testimonies of the tortured doctors, sent daily by Ignatiev. He ordered the likely star in his Jewish Case, Object 12 (otherwise known as Polina Molotova), brought back to Moscow and interrogated. (p. 563)

スターリンの最期

[A]t 8 p.m. on 17 February, Stalin visited the Little Corner for the last time to receive the Indian diplomat K.P.S. Menom. At 10.30 0.m. Stalin left with Beria, Malenkov and Bulganin, probably for dinner at Kuntsevo.
At 8 p.m. on 27 February, Stalin arrived alone at the Bolshoi to watch Swan Lake. As he left, he asked his ‘attachment’, Colonel Kirillin, to thank the cast for him, speeding to Kuntsevo where he worked until about 3 a.m. He rose late, read the latest interrogations of the Jewish doctors and the reports from Korea….
… [I]n the evening, he was driven into the Kremlin where he met his perennial companions, Beria, Khrushchev, Malenkov and Bulganin, in the cinema. Voroshilov joined them for the movie, noting Stalin was ‘sprightly and cheerful’….
At 11 p.m., Stalin and the Four drove out to the dacha for dinner…. (pp. 563-565)

At midday that Sunday morning, the guards waited for the Boss to get up… But there was ‘no movement’ all afternoon. The guards became anxious. Finally, at 6 p.m. Stalin switched on the light in the small dining room. He was obviously up at last. ‘Thank God, we thought,’ said [Deputy Commandant, Peter] Lozgachev, ‘everything’s all right.’ He would call for them soon. But he did not.
… They were not the only ones waiting: Khrushchev and the others expected the call to dinner. But the call did not come. (p. 565)

Wednesday, February 14, 2007

2-Hour Sleep

目ぇ覚めたら3時半や。2時間ほど眠ったかな。まだまだ「落ち着き修行」が足りんな。あとでもう1回寝よっと。

Tuesday, February 13, 2007

Svasti

“Nehru”に次の一節がある。

“[Nehru]… was irritated at the Nazi appropriation of the Indian symbol of good fortune, the swastika.”

「かぎ十字(卍)」や「まんじ」の由来は?「スワスティカ」の語源は、サンスクリット語で幸福や繁栄を意味する「スヴァスティ(svasti)」で、インドなど東洋のまんじは左旋回、右旋回の両方があるようだ。ナチスドイツの「ハーケンクロイツ」は右まんじがほとんどで、通常45度回転している。“Wikipedia”によると、タイ語のあいさつ“sawasdee”も同じ由来で、まんじやそれに派生するものはアジア、ヨーロッパだけでなく、アフリカやアメリカ先住民の文化にも見られるという。ナチスが採用した理由についてWikipediaは、「アーリア人とドイツ民族のつながりと民族の誇りを強調するため、目立ちやすい幾何学模様のスワスティカを党の象徴として使った」と解説している。迷惑したのは少林寺拳法だ。

インドのビール「Kingfisher」のデザインはびんも缶も美しい。

“Nehru”に話を戻すと、特に父親の死後、ガンディーを慕う気持ちが増すが、彼の西洋嫌いや断食など、極端な手法に戸惑う様子がよくわかる。英国との妥協を許さずスワラジ(swaraji)を目指すという彼の意見に近いのは、チャンドラ・ボース。米原さんが「打ちのめされるようなすごい本」で記していた不可触民(アンタッチャブルズ)に対して、独立式典でどのように振舞ったのかは、おそらく書かれていないだろう。

毛沢東、訪ソ

On 7 December 1949, Stalin arrived back in Moscow in time for two momentous events: the arrival of the new Chinese leader, Chairman Mao Tse-tung ant the celebration of his seventieth birthday… At noon on 16 December, Mao… arrived at Yaroslavsky Station where he was met by Molotov and Bulganin…. The visit started as awkwardly as it ended. Mao invited the Russians to a Chinese meal on the train but Molotov refused. Mao sulked….
At 6 p.m., Mao and Stalin met for the first time at the Little Corner. The two Communist titans of the century… aimed to seal America’s worst nightmare: a Sino-Soviet treaty that would be Stalin’s last significant achievement. Yet they observed each other coolly from the Olympian heights of their own self-regard. Mao complained of being ‘pushed aside for a long time’.
‘We’ve come to complete a certain task,’ said Mao. ‘It must be both beautiful and tasty’… which meant a treaty that was both symbolic and practical… Stalin’s first priority was protecting his Far Eastern gains, agreed at Yalta and confirmed in the Sino-Soviet treaty… Mao wished to save face, before signing away Chinese lands. This was stalemate. Mao suggested summoning Chou En-lai, his Premier to complete the negotiations.
… Molotov patronizingly tested Mao’s Marxist knowledge… After all, Molotov repeated prissily to Stalin, Mao ‘confessed he had never read Das Kapital’.
… Finally on 2 January, Stalin sent Molotov and Mikoyan to begin negotiations. Chou En-lai arrived on the 20 and started to negotiate with the new Foreign Minister, Vyshinsky, and Mikoyan. Mao and Chou were invited to the Kremlin only to be reprimanded by Stalin for not signing a critique of US Secretary of State Dean Acheson’s recent speech. When Mao grumbled about Stalin’s resistance to the treaty, Stalin retorted:
‘To hell with that! We must go all the way.’ Mao sulked even more. In the limousine out to Kuntsevo, the Chinese interpreter invited Stalin to visit Mao.
‘Swallow your words!’ Mao hissed in Chinese to the interpreter. ‘Don’t invite him!’ Neither of the titans spoke for the entire thirty-minute drive. When Stalin invited Mao to dance to his gramophone, a singular honour for a visiting leader, he refused. It did not matter: the game of poker was over. When reserving for himself the supreme priesthood of international Communism, Stalin allowed Mao a leading role in Asia. (pp. 535-538)

朝鮮戦争勃発

Kim Il Sung, the young leader of Communist North Korea, now arrived in Moscow to ask Stalin’s permission to invade South Korea. Stalin encourage him but shrewdly passed the buck to Mao, telling the Korean he could ‘only get down to action’ after consulting with ‘Comrade Mao Tse-tung personally’. In Peking, Mao referred back to Stalin. On 14 May, Stalin cunningly replied, ‘The question should ultimately be decided by the Chinese and Korean comrades together.’ He thus protected his dominant role but passed the responsibility. None the less, his magnates were worried by his reckless challenge to America and failing power of judgement. At 4 a.m., on Sunday, 25 June 1950, North Korea attacked the south…. (p. 538)

アバクモフ、失脚の危機

… On 29 September, Kuznetsov and Voznesensky were tried at the Officers’ Club in Leningrad… Before the trial finally started, the accused were ordered to leave Zhdanov out of their testimony. The main accused were sentenced to death by shooting next day and the Politburo endorsed the sentences….
… Malenkov informed Stalin that Voznesensky had frozen to death in the back of a prison truck in sub-zero temperature. After Stalin’s death, Rada Khrushcheva asked what had happened to Kuznetsov:
‘He died terribly,’ replied her father, ‘with hook through his neck.’
This little massacre consolidated the power of Malenkov, Beria, Khrushchev and Bulganin – the last men standing as Stalin entered his final years – but it was the swansong for Abakumov.
… Stalin was orchestrating another anti-Semitic campaign from his holiday.
The Jews were not Stalin’s only target: his suspicious of Beria (a Mingrelian) were constantly fanned by the ambitious [Akaki] Mgeladze, his boss in Abkhazia, who shrewdly revealed Beria’s crimes and vendettas of the late thirties… Stalin ordered Abakumov to check the notoriously venal Georgia, and build a case against the Mingrelians, not forgetting Beria himself: ‘Go after the Big Mingrelian.’
On 18 November, towards the end of his holiday, Stalin agreed to arrest the first Jewish doctor. Professor Yakov Etinger, who had treated the leaders, was bugged talking too frankly about Stalin. Etinger was tortured about his ‘nationalistic’ tendencies by one of Abakumov’s officers, Lieut.-Col. Mikhail Riumin … [and implicated] all the most distinguished Jewish doctors in Moscow… Abakumov ordered Riumin to desist but the officer tortured Etinger so enthusiastically that he died of ‘heart paralysis’ – a euphemism for dying under torture. Riumin was in trouble – unless he could destroy Abakumov first.
Abakumov was not guilty of idleness: Stalin was now redoubling the repression. Arrests intensified. In 1950 there were more slaves in the Gulags -- 2.6 million – than ever before. But Abakumov knew too much about the Leningrad and Jewish cases. Worse, Stalin sensed the foot-dragging of the MGB – and Abakumov himself. It was Yagoda all over again – and he needed a Yezhov.
… Within the MGB snakepit, the ebbing of Stalin’s favour and the death of Etinger presented Riumin with an opportunity…. (pp. 540-542)

"Jewish Case" and "Doctors' Plot"

夜中に「ロシアは今日も荒れ模様」を読み終えた。ウオトカとロシア人の話で「ソーニャの父、マルメラードフ」に触れた個所があった。「罪と罰」を先に読んでおいてよかった。

米国傾倒のユダヤ人弾圧

In 1947, the American Secretary of State, George Marshal, unveiled a massive programme of economic aid to Europe that initially sounded attractive to the shattered Imperium… Stalin soon grasped that it would resuscitated Germany and undermine his East European hegemony. Molotov initially favoured the Plan and still leaned towards a negotiated settlement but Stalin rejected Marshall.
Stalin and Zhdanov resolved to tighten their control over Eastern Europe. Simultaneously, Stalin supported the foundation of the Jewish state, which he hoped would become a Middle Eastern satellite. On 29 November, he voted for it at the UN and was the first to recognize Israel. He gave Mikhoels the Stalin Prize. But it soon became clear Israel was going to be an American ally, not a Russian one.
[To Stalin,] Mikhoels’s dream of a Jewish Crimea became a sinister Zionist/American Trojan horse… Zionism, Judaism and America became interchangeable in Stalin’s mind… … even after Stalin’s death, Khrushchev sympathetically explained to some Polish Communists, ‘We all know Jews; they all have some connection with the capitalist world because they have relatives living abroad. This one has a granny… The Cold War began; the imperialists were plotting how to attack USSR; then the Jews want to settle in the Crimea… Trough their connections, the Jews had created a network to carry out American plans. So he squashed it all.’…
Stalin ordered Abakumov to gather evidence that Mikhoels and the Jewish Committee were ‘active nationalists oriented by the Americans to do anti-Soviet work’, especially through Mikhoels’s American trip….
Mikhoels… wanted to appeal to Stalin. He called the second most influential Jew after Kaganovich, Polina Molotova, to ask whether to appeal to Zhdanov or Malenkov.
… ‘All power in the country’s in Stalin’s hands alone and nobody can influence him... He has a negative attitude to Jews and won’t support us.’ It would have been unthinkable for her to speak in such a way before the war.
Mikhoels made the tempting but spectacularly ill-timed decision to reach Stalin through Svetlana…
Mikhoels, frantic to protect the Jewish community, asked Zhenya Alliluyeva who mixed with the Jewish intelligentsia, if he could meet Svetlana.
The Alliluyevs warned Zhenya against meddling in dangerous Jewish matters… But it seems that Zhenya did introduce Mikhoels to Svetlana and (her Jewish husband) Morozov. Stalin heard about this immediately and erupted in a rage: the Jews were ‘worming their way into the family.’… Thus Mikhoels innocently stumbled into a hornets’ nest.
Stalin ordered Abakumov to investigate the Alliluyev connection to American-Zionist espionage, muttering to Svetlana that Zhenya had poisoned her husband Pavel in 1938. Shrewd people began to divorce their Jewish spouses. Svetlana Stalin divorced Morozov….
Abakumov started to arrest the Alliluyevs’ Jewish circle. On 10 December, he arrested Zhenya Alliluyeva, once so intimate to Stalin, accusing her of ‘disseminating foul slander about the Head of the Soviet Government’. Zhenya’s husband,… her daughter Kira and Anna Redens joined her….
Svetlana tried to intervene for the ‘Aunties’ but Stalin warned her ‘they talked too much. You make anti-Soviet comments too.’ (pp. 496-499)

On his return to Moscow (from a holiday) on 21 November, [Stalin] ordered Abakumov to murder the Yiddish actor, Mikhoels. Nine days later, he supported the UN vote for the creation of Israel. (p. 508)

ミホエリス殺害

The Stalin Prize Committee sent Mikhoels to Minsk to judge plays at Belorussian theatres. When this was reported to Stalin, he verbally ordered Abakumov to murder Mikhoels on the spot….
On 12 January, Mikhoels and his friend Vladimir Golubov-Potapov, a theatre critic ad MGB agent, spent the day meeting actors, then dined at their hotel. At 8 p.m. they left the hotel to meet Golubov’s ‘friend’. Presumably the MGB car took them to [Lavrenti] Tsanava’s dacha where Mikhoels was probably injected with poison to stun him… Perhaps he fought back… He was smashed on the temple with a blunt object and shot too. Golubov, the duplicitous bystander, was killed as well. The bodies were then driven into town, run over with a truck and left in the snow.
Stalin was informed of the killings probably before the bodies have been dumped in the street… [According to Svetlana] ‘Someone was reporting to him and he listened. Then to sum up, he said, “Well, a car accident,”… it was not a question, it was a confirmation… he… said, ‘Mikhoels was killed in a car accident.’
… out of the public eye, Mikhoels murderer, Tsanava, received the Order of Lenin ‘for exemplary execution of a special assignment from the Government’. Zhenya Alliluyeva was sentenced to ten years, her daughter Kira to five years, ‘for supplying information about the personal life of [Stalin’s] family to the American Embassy’. Anna Redens also got five years. They were placed in solitary confinement.
The MGB now started to build a case against Deputy Foreign Minister Solomon Lozovsky and other prominent Jews: Polina Molotova was quietly sacked from her job…. (pp. 509-511)

「ドクターズ・プロット」の始まり

Chosen by Stalin, growing closer to Svetlana and, at twenty-eight, Head of the CC Science Department, Yury Zhdanov… took his science seriously… Yury resented the absurd dominance of Trofim Lysenko in the field of genetics…
On 10 April, 1948, young Zhdanov attacked Lysenko’s so-called creative Darwinism, and his suppression of scientists and their ideas, in a speech at the Moscow Polytechnic… Malenkov sent the lecture to Stalin [who] read [it] with mounting disdain….
… On 10 June, Stalin held one of his set-piece humiliation sessions in the Little Corner….
‘How did anyone dare insult Comrade Lysenko?’ ‘Who authorized it?’
… [D.T.] Shepilov (a Zhdanov protégé) stood up to admit:
‘The decision was mine, Comrade Stalin.’
… ‘We’ll set up a committee to clarify all the facts. The guilty must be punished. Not Yury Zhdanov, he’s still young,’ [Stalin] pointed his pipe at ‘the Pianist’: ‘It’s necessary to punish the fathers.’…
The humiliation worsened Zhdanov’s health: he must have wished he had emulated the Berias and Malenkovs who kept their children far from politics.
In June, Zhdanov, back from Bucharest, suffered another cardiac crisis and a minor stroke… On 1 July, Stalin replaced Zhdanov with his nemesis, Malenkov, as Second Secretary… … now desperately ill, Zhdanov could no longer perform his duties….
Stalin, recalls Yury, ‘became worried. Father’s illness caused a change in the balance of power….
Zhdanov’s obvious symptoms of arteriosclerosis and heart failure were misdiagnosed… On 29 August, he had another severe attack… Dr Lydia Timashuk, the cardiographer, diagnosed a (heart attack), and she was almost certainly right, but the distinguished professors made her rewrite her report…
Timashuk denounced her superiors and had Zhdanov’s chief bodyguard deliver the letter to General Vlasik to give personally to Stalin. When nothing happened, Timashuk, an MGB agent, wrote to the secret police. Abakumov forwarded the letter to Stalin that same day. Stalin signed it, wrote ‘Into the archive’, but did nothing….
On the 31st, [Zhdanov]… died of a massive coronary… The professors were terrified that their misdiagnosis and cover-up would be exposed so they sacked and denounced Timashuk who then wrote more damning letters to Stalin and Kuznetsov, MGB curator. But this time, Vlasik did not deliver the letter and Kuznetsov ignored his.
Timashuk became the villainess of the Doctors’ Plot because her letters were later used by Stalin but this was ironic since she was medically correct. Zhdanov may have been mistreated but the rumours of murder seem unlikely… If Stalin had really wanted to murder Zhdanov, it would have not have taken five heart attacks over years but a quick injection….
… Zhdanov’s illness was obviously serious and Stalin may well have been content to leave treatment to the top Kremlin doctors: beside he was irritated with Zhdanov. But at a deeper level, these medical squabbles were an opportunity for Stalin… [He] would exploit Zhdanov’s death when he was ready to create the Terror he was convinced was necessary… He was already considering the Doctors’ Plot but it would take him three years to return to Timashuk’s letters. (pp. 512-516)

外相夫人ポリーナを逮捕

… Perhaps [Polina Molotova] did not know how Stalin resented her pushy intelligence, snobbish elegance, Jewish background, American businessman brother and, as he told Svetlana, ‘bad influence on Nadya’. Her sacking in May was a warning but she did not know that Stalin had considered murdering her in 1939.
… On 20 November, the Politburo dismantled the Jewish Committee and unleashed an anti-Semitic terror, managed by Malenkov and Abakumov. Mikhoels’s colleagues were now arrested, together with some brilliant Jewish writers and scientist… They also arrested the father of Svetlana’s newly-divorce husband….
Stalin ordered the prisoners to be tortured to implicate Polina Molotova….
… Stalin… confronted Molotov with Polina’s guilt. ‘He and I quarrelled about it,’ said Molotov.
‘It’s time for you to divorce your wife,’ said Stalin. Molotov agreed, partly because he was a Bolshevik but partly because obedience might save the woman he loved….
Stalin ordered Malenkov and Abakumov to put together the Jewish Case….
Since its centrepiece was the plan for the Jewish Crimea, on 13 January 1949 Malenkov summoned Lozovsky, ex-overlord of the Jewish Committee, to Old Square for an interrogation. This was already a matter of life and death for Lozovsky – it also had its dangers for… Malenkov, because his eldest daughter Volya was married to the son of a Jewish official named Shamberg whose sister was married to Lozovsky.
Malenkov extricated his family from its Jewish connections. Volya Malenkova divorced Shamberg… Volya vigorously denied (Stalin ordered her divorce), claiming that the marriage had not worked because Shamberg had married her for the wrong reason – and had ‘bad artistic taste’….
As many as 110 prisoners, most of them Jews, were suffering ‘French wrestling’ at the hands of the vicious [V.I.] Komarov in the Lubianka…. The prisoners were also encouraged to implicate the Jewish magnates, Kaganovich and Mekhlis, but Polina Molotova was the true target….
Polina was expelled from the Party for ‘close relations with Jewish nationalists’ despite being warned in 1939, when Molotov had abstained on a similar vote. Now remarkably, he abstained again but sensing the gravity of the case, he buckled. ‘When the Central Committee voted on the proposal to expel PS Zhemchuzhina… I abstained which I acknowledge to be politically incorrect,’ he wrote to Stalin on 20 January 1949….
On 21 January, Polina was arrested in her squirrel-fur coat. Her sisters, doctor and secretaries were arrested. One of her sisters and a brother would die in prison….
Many believed she was dead but Beria, who played little part in the Jewish Case, knew better from his contacts. ‘Polina’s ALIVE!’ he whispered to Molotov at Politburo meetings.
Stalin now excluded Molotov from the highest echelons… However he still trusted Mikoyan just enough to end [him] on a secret mission to size up Mao Tse-tung who was about to complete his conquest of China.
On his return, Mikoyan found a shock awaiting him. Stalin sacked Molotov and Mikoyan as Foreign and Foreign Trade Ministers, though both remained Deputy Premiers. Then he accused Mikoyan of breaking official secrecy about his Chinese trip. Mikoyan had only told his son Stepan: ‘Did you tell anyone about my Chinese trip?’ he asked him.
‘Svetlana,’ replied Stepan. (pp. 519-524)

「レニングラード・ケース」。ヴォズネセンスキーとクズネツォフの失脚

… Stalin himself was always ready to scythe down the tallest poppies – those gifted Leningraders – to maintain his own paramountcy. Stalin’s heir apparent as Premier, Nikolai Voznesensky… [at] forty-four, the youngest Politburo member distinguished himself as a brilliant planner who enjoyed an unusually honest relationship with Stalin. Rude to his colleagues, no one made so many enemies as Voznesensky. Now his patron Zhdanov was dead, his enemy Malenkov resurgent… Voznesensky’s arrogance and Stalin’s touchiness made him vulnerable.
During 1948, Stalin noticed that production rose in the last quarter of the year but dipped in the first quarter. This was a normal seasonal variation but Stalin asked Voznesensky to level it out… [H]e failed to do so and, afraid of Stalin, he concealed the statistics. Somehow this legerdemain was leaked to Beria who discovered that hundreds of secret Gosplan documents had gone missing….
… Beria then revealed the damning secret about Voznesensky that he had treasured even since 1941: during Stalin’s breakdown, Voznesensky had told Molotov,
‘Vyacheslav, go forward, we’ll follow you!’ That betrayal clinched it. Andreyev… was brought in to investigate… Sacked from the Politburo on 7 March 1949, he spent his days at his Granovsky flat writing economics treatise. Once again, that dreaded duo, Malenkov and Abakumov, took over the Gosplan Case.
The other anointed heir apparent [Kuznetsov]… made the mistake of examining old MGB files on Kirov’s murder and the show trials. Kuznetsov’s blundering into such sensitive matters aroused Stalin’s suspicions.
Simultaneously, Malenkov alerted Stalin that the Leningrad Party had covered up a voting scandal and held a trade fair without Government permission. He managed to connect these sins with a vague plan mooted by Zhdanov to create Russian (as opposed to a Soviet) Party alongside the Soviet one and make Leningrad the Russian capital… Beside, a Russian Party could not be led by a Georgian. Stalin championed the Russian people as the binding force of the USSR but he remained an internationalist. Voznesensky’s nationalism worried the Caucasians… Beria must have worried his future under the Leningraders.
… Malenkov attacked the [Leningrad] bosses, stringing together disparate strands into one lethal conspiracy. The arrest began, but Voznesensky and Kuznetsov [were] convinced that Stalin would forgive them: 1937 seemed a long time ago. Even Mikoyan thought blood-letting was a thing of the past.
… [Stalin] ordered to arrest, torture and destroy the Leningraders who had only recently been his anointed successors.
On 13 August, Kuznetsov was summoned to Malenkov’s office. ‘I’ll be back,’ he told his wife and son Valery. ‘Don’t start supper without me.’… He was arrested by Malenkov’s bodyguard.
Yet Stalin hesitated about Voznesensky… The ailing but drear Andreyev exposed all manner of ‘disorders in this organization’: 526 documents had gone missing from Gosplan. The invented case was one of Andreyev’s last achievements. Voznesensky admitted that ‘… I was guilty.’…
Four months later, Voznesensky was arrested in this sweep of Zhdanovites, joining Kuznetsov and 214 other prisoners…. (pp. 525-530)

最初の核実験

The Leningrad Case was not Beria’s only success: just after Kuznetsov’s arrest in late August 1949. Beria set out in a special armoured train for a secret nuclear settlement amidst the Kazakh steppes….
Beria arrived in Semipalatinsk-21 for the test of the ‘article’. He moved into a tiny cabin beside Professor Kurchatov’s command post….
At 6 p.m. (on 29 August)… Kurchatov ordered detonation. There was a bright flash….
… Four years after Hiroshima, Stalin had the Bomb. (p. 531)

Stalin summoned Khrushchev from Kiev. ‘I couldn’t help but feel anxious,’ he admitted, when Kuznetsov and Voznesensky were being tortured. He called Malenkov who comforted him:
‘Don’t worry. I can’t tell you why you’ve been called but I promise you’ve got nothing to fear.’….
Stalin appointed Khrushchev CC Secretary and Moscow boss but confided, ‘… We’ve exposed a conspiracy in Leningrad. And Moscow’s teeming with anti-Party elements.’ He wanted Khrushchev to check it out. (p. 532)

Monday, February 12, 2007

Don't be Fooled by Market Principles

米原万里さんの「ロシアは今日も荒れ模様」を買って、すでに半分ほど読んだ。「わはは」と笑うのは簡単なことだが、彼女の著書に一貫するのは、「売れるものに価値がある」「価値あるものは売れる」「売れないものには価値がない」という資本主義では当然と言わんばかりの原則への反論だ。まったく同意せざるを得ない。資本主義が価値とみなすものからはずれたらどうするのか?同書で言えば、「“買って、買って”とわめき、ささやき、こびへつらい、まとわりつくのにうんざりしている目からすると、“買ってくれなくとも一向にかまわないわ”という感じの箱のただずまいは、何だかとても潔くて清々しかった。おのれに包まれるものを拒むような、毅然とした迫力があった。ヒトにも、モノにも、売れるか売れないかなんかに関係なく、それそのものの価値がある」に表されている。こんな簡単なことに気づかない人が多すぎる。周囲を見渡して大きく落胆する。

同書を買おうとして紀伊國屋にいた時、知っている人を見かけた。顔も記憶に残っていた。(彼女が電話で話していたので、聞こえた)声も記憶に残っていた。でも、誰なのかわからない。日本で会ったことのある人なのか、当地で会った人なのか、それすらわからない。

Sunday, February 11, 2007

Rise of Zhdanov

ジュダーノフ台頭

The reversal of fortunes of Beria and Malenkov marked the resurrection of their enemy, Andrei Zhdanov, Stalin’s special friend, that hearty, pretentious intellectual who, after the stress of Leningrad, was plump alcoholic… Stalin openly talked about Zhdanov as his successor.
… Stalin… recalled him from Leningrad and promoted him to Party Deputy in charge of Agitprop and relations with foreign Parties, making him more powerful than he had been before the war….
Zhdanov had played his cards cleverly since returning in January 1945. He consolidated his own camarilla of Leningraders to power in Moscow: Alexei Kuznetsov… received Malenkov’s Secretaryship. Zhdanov understood that Stalin did not wish Beria to control the MGB so he suggested Kuznetsov to replace him as curator of the Organs… Kuznetsov’s promotion earned him the undying hatred of the two most vindictive predators in the Stalinist jungle: Beria and Malenkov.
By February 1946, with Stalin in semi-retirement, Zhdanov seemed to have control of the Party as well as cultural and foreign policy matters, and to have neutralized the Organs and the military… At the November parade, Zhdanov, in Stalin’s absence, took the salute with his Leningrad camarilla filling the Mausoleum.
Stalin and Zhdanov picked up where they left off before the war, debating how to merge the patriotic Russianness of the war with the Bolshevism of the Revolution in order to eradicate foreign influence and restore morality, pride and discipline….
… Victory had blessed the marriage of Russianness and Bolshevism: Stalin saw the Russians as the binding element of the USSR, the ‘elder brother’ of the Soviet peoples….
On 18 April, Zhdanov launched his cultural terror, known as Zhdanovshchina, with an attack on the Leningrad journals… He followed this up with attacks on film-makers and musicians. At a notorious meeting with Shostakovich and others, the ‘Pianist’ tinkled on the piano to demonstrate easily-hummed people’s tunes, a vision as absurd as Joseph II admonishing Mozart for writing ‘too many tunes’.
Zhdanov’s campaign to promote Russian patriotism was soon so absurd that Sakharov remembered how people would joke about ‘Russia, homeland of the elephant’. More ominously, the unleashing of Russian nationalism and the attacks on ‘cosmopolitans’ turned against the Jews. (pp. 479-483)

ユダヤ人への疑念増大

Early in the war, Stalin realized the usefulness of Soviet Jewry in appealing for American help but even then the project was stained with blood. Stalin then ordered Beria to set up the Jewish Anti-Fascist Committee, controlled by NKVD but officially led by the famous Yiddish actor, Solomon Mikhoels….
When the advancing Soviet Army exposed Hitler’s unique Jewish genocide, Khrushchev, the Ukrainian boss, resisted any special treatment for Jews staggering home from the death camps….
… Mikhoels complained to Molotov that ‘after the Jewish catastrophe, the local authorities pay no attention’… Khrushchev agreed to help ‘Abramoviches’.
Encouraged by this growing sympathy, Mikhoels and his colleague [Isaak S.] Fefer, a poet and MGB plant, suggested a Jewish republic in Crimea (now empty of Tatars), or in Saratov (now empty of the Volga Germans) to Molotov and his deputy in charge of the JAFC, [Solomon] Lozovsky….
‘Everyone,’ recalls Vladimir Redens, ‘believed Jewish Crimea would happen.’ Molotov, showing more independence than before, may have discussed this with Beria but his judgement almost cost his life. Most of those involved were dead within five years.
On 2 February 1944 Mikhoels delivered his letter to Molotov, copied to Stalin who now decided that the actor had moved from Soviet to Jewish propaganda… Zhdanov supervised the making of lists of Jews in different departments and recommended closing down of JAFC.
… The supremacy of America with its powerful Jewish community made [Stalin’s] own Jews, with their US connections restored during the war, appear a disloyal Fifth Column… Equally, he loathed any people with mixed loyalties: he noticed the Holocaust had touched and awakened Soviet Jewry even among the magnates. His new anti-Semitism flowed from his own seething paranoia, exacerbated when Fate entangled the Jews in his family. (pp. 484-486)

元帥ジューコフの脱落

‘As soon as hostilities end,’ Stalin said at Yalta, ‘the soldiers are forgotten and lapse into oblivion.’ He wished this was so but the prestige of Marshal Zhukov had never been higher.
Stalin ‘managed’ Zhukov by using the ‘Aviators’ Case’ against him, torturing Air Marshal Novikov to implicate him… In March, Zhukov was recalled to Moscow. Instead of reporting directly to the Generalissimo, he was summoned by Stalin’s deputy as Armed Forces Minister, Bulganin, ‘the Plumber’… Stalin ordered ‘the Plumber’ to prepare a kangaroo court against Zhukov. Abakumov searched Zhukov’s homes which turned out to be an Aladdin’s cave of booty.
In early June, Zhukov was summoned to the Supreme Military Council. Stalin strode in ‘as gloomy as a black cloud’. Without a word, she tossed a note to Shtemenko.
‘Read it,’ he snapped. Shtemenko read out Novikov’s testimony that Zhukov had claimed for the Soviet victory, criticized Stalin and created his own clique. He had even awarded a medal to the starlet Lydia Ruslanova, with whom he may have been having an affair.
… Zhukov defended himself but admitted to having inflated his importance.
… Zhukov… was expelled from the CC, his trophies confiscated, friends tortured, and then further demoted to the Urals…. (pp. 486-487)

飢餓蔓延。ミコヤン、フルシチョフへの批判

Stalin continued to seethe about the inconvenience of his people starving, Hungry Thirty Three again… Then, when even Zhdanov reported the famine, Stalin blamed Khrushchev, his Ukrainian viceroy as he had done in 1932: ‘They’re deceiving you…’ Yet 282,000 people died in 1946, 520,000 in 1947. Finally he turned on the Supply maestro, Mikoyan…
Mikoyan was clever enough to apologize.
… Like Molotov, Mikoyan’s old intimacy with Stalin was over. Khrushchev too fell into disfavour about his attitude to the famine… (pp. 494-495)

Predator Beria, Stalin's Attack against Potential Successors

漁色家ベリヤ

Despite his mountainous workload, Beria found time for a Draculean sex-life that combined love, rape and perversity in almost equal measure… It was once thought Beria’s seductions and rapes were exaggerated but the opening of the archives of his own interrogation, as well as the evidence of witnesses and even those who were raped by him, reveals a sexual predator who used his power to indulge himself in obsessive depravity. It is often impossible to differentiate between women he seduced who went to him to plead for loved ones – and those women he simply kidnapped and raped. Yet mothers often pimped their daughters in return for limousines and privileges….
… The filmstar Zoya Fyodorovna was picked up by three Chekists at a time when she was still breastfeeding her baby. Taken to a party where there were no other guests, she was joined by Beria whom she begged to let her go as her breasts were painful. ‘Beria was furious.’ The officer who was taking her home mistakenly handed her a bouquet at the door. When Beria saw, he shouted: ‘It’s a wreath not a bouquet. May they rot on your grave!’ She was arrested afterwards.
The film actress Tatiana Okunevskaya was even less lucky: at the end of the war, Beria invited her to perform for the Politburo. Instead they went to a dacha. Beria plied her with drink… Then ‘he undressed… “Scream or not, doesn’t matter,” he said. “Think and behave accordingly.”’ Beria raped her. She too was arrested soon afterwards and sentenced to solitary confinement. Felling trees in the Siberian taiga, she was saved, like many others, by the kindness of ordinary people.
These women were just the tip of a degenerate iceberg… His colonels kept the score; some say the list numbered thirty-nine, others seventy-nine: ‘Most of those women were my mistresses,’ he admitted….
Some mistresses, like ‘Sophia’ and ‘Maya’, a student at the Institute of Foreign Relations, inconveniently became pregnant. Once again, Colonels Sarkisov and Nadaraia were called upon to arrange abortions at the MVD’s Medical Department – and when a child was born, the colonels placed it in an orphanage.
… [Beria’s wife] Nina never believed the scale of his exploits: ‘When would Lavrenti have found time to make these hordes of women his mistresses? He spent all day and night at work’ so she presumed these women must have been his ‘secret agents’. (pp. 448-450)

米原万里さんの「打ちのめされるようなすごい本」がセルゴ・ベリヤ著の「僕の父はラヴレンチイ・ベリヤ」(初版1984年)について触れている。「家族思いで物静かだったという父親に対する弾劾や非難の根拠に技術者らしく淡々と事実を示して反論していくのだが、なかなか説得力がある」「“国家と党と指導部の集団責任となるべき権力犯罪と人権侵害を父一人になすりつけたのではないか、あれは個人ではなく体制の犯罪だ”という言葉には一分の理がある。さらに息子は父親の連続少女強姦説を完全否定し、“粛清の犠牲者の苦しみを軽減するよう最大限尽くした”と主張する」。

ボルシェビキ流領土拡張

… Stalin reviewed his Empire: ‘Let’s see what we’ve got then: in the north, everything’s all right, Finland greatly wronged us, so we’ve moved the frontier farther from Leningrad. The Baltic States, which were Russian territory from ancient times, are ours again, all the Belorussians are ours now, Ukrainians too, and the Moldavians are back with us. So the west everything’s okay.’ But he turned to the east: ‘What have we got here? The Kurile Islands are ours and all of Sakhalin… China, Mongolia, all as it should be.’ [His] Dunhill pipe trailed round to the south: ‘Now this frontier I don’t like at all. The Dardanelles… We also have claims to Turkish territory and to Libya.’… … Molotov understood that there was no contradiction between Bolshevism and empire-building: ‘It’s good the Russian Tsars took so much land for us in war. This makes our struggle with capitalism easier.’ (p. 456)

スターリンの後継者潰し―まずモロトフ

Some time between 9 and 15 October, Stalin suffered a serious heart attack….
During [Stalin’s holiday for a month and a half, voted on 9 October], Molotov ran the government with Beria, Mikoyan and Malenkov, the Politburo Four. But Molotov’s moment in the sun was overshadowed by unsettling rumours that Stalin was dying or already dead. On 10 October, TASS, the Soviet press agency, announced that ‘Comrade Stalin had left for a rest.’ But this only awakened curiosity and aroused Stalin’s vigilance… Stalin’s suspicious deepened when he read an interview with Zhukov in which the Marshal took the credit for victory in the war….
… Molotov was at the height of his prestige as an international statesman. He had only just returned from a series of international meetings…. In April, Molotov had visited New York, Washington and San Francisco to meet President Truman and attend the opening of the UN. In an unpleasant meeting, Truman confronted Molotov on Soviet perfidy in Poland….
In September, Molotov was in London for the Council of Foreign Ministers where he pushed for a Soviet trusteeship in Italian Libya… Molotov was a realistic gradualist in foreign policy and he knew the West would never agree to a Soviet Libya….
… Now, with Stalin recuperating and Molotov acting slightly more independently, the temperature was rising. Molotov felt the time was ripe for a deal with the West. Stalin overruled him: it was time to ‘tear off the veil of amity’. When Molotov continued to behave too softly towards the Allies, Stalin, using the formal vy, attacked him harshly. ‘Molotov’s manner of separating himself from the Government to portray himself as more liberal… is good for nothing.’ Molotov climbed down with a ritualistic apology… … Stalin and Molotov ceased to address each other informally: no more ‘Koba’, just ‘Comrade Stalin.’
On 9 November, Molotov ordered Pravda to publish a speech of Churchill’s praising Stalin… He cabled a furious message: ‘I consider the publication of Churchill’s speech with his praise of Russia and Stalin a mistake… Needless to say, Soviet leaders are not in need of praise from foreign leaders. Speaking personally, this praise only jars on me. Stalin.’
… Molotov got tipsy at the 7 November reception and proposed the easing of censorship for foreign media….
‘You blurt out anything when you’re drunk!’ [said Stalin.]
Stalin devoted the next three days of his holiday to the crushing of Molotov… On 6 December, Stalin cabled Malenkov, Beria and Mikoyan, ignoring Molotov, and attacking their ‘naïvety’ in trying to ‘paper over the affair (a New York Times article about his illness)’ while covering up ‘the sleight of hand of the fourth’… A reprimand was no longer sufficient because Molotov ‘cares more about winning popularity among certain foreign circles. I cannot consider such a comrade as my First Deputy.’ He ended that he was not sending this to Molotov ‘because I do not trust some people in his circle’. (This was an early reference to the Jewish Polina.)

Beria, Malenkov and Mikoyan, who sympathized with poor Molotov, summoned him like judges, read him Stalin’s cable and attacked him for his blunders. Molotov admitted his mistakes but thought it was unfair to mistrust him. The three reported to Stalin that Molotov had even ‘shed some tears’ which must have satisfied the Generalissimo a little. Molotov then wrote an apology to Stalin….
Stalin let Molotov stew for two days, then at 1.15 a.m. on 8 December replied to the Four again, restoring his errant deputy to his former place as First Deputy Premier. But Stalin never spoke of Molotov as his successor again and stored up these mistakes to use against him. (pp. 472-475)

そしてマレンコフとベリヤ

Having shaken Molotov, Stalin turned on Beria and Malenkov. He did not need to invent the scandal… [At Potsdam, Vasily Stalin] reported… of 80,3000 plane lost in the war, 47 per cent were due to accidents… [Stalin] ordered the investigation of an ‘Aviators’ Case’ against [the Aircraft Production Minister, A.I.] Shakhurin and the Air Force Commander, Air-Marshal [A.A.] Novikov, one of the heroes of the war….
On 2 March, Vasily Stalin was promoted to Major-General. On 18 March, Beria and Malenkov… were promoted to full Politburo membership – just as the Aviators’ Case nipped at their heels. Then Shakhurin and Novikov were arrested and tortured. … the overlord of aircraft production was Malenkov.
Abakumov, the Smersh boss and Stalin’s protégé, arranged the Aviators’ Case which was also aimed at Beria. Stalin’s old fondness for the Mingrelian had long since turned to a surly disdain… ‘He knows too much,’ Stalin told Mikoyan. ‘Traitor!’ When he dined at Beria’s house, he was charming to Nina but dismissive of Lavrenti... Beria reminisced about his first meeting with Stalin in 1926:
‘I don’t remember,’ Stalin replied crushingly.
Stalin sensed, correctly, that Beria, the industrial and nuclear magnifico, wanted to be a statesman… Stalin decided something was rotten in the Organs. During his holiday, he asked Vlasik about the conduct of Beria. Vlasik, delighted to destroy Beria, denounced his corruption, incompetence and possibly his VD….
Stalin moved swiftly against him: Beria was retired as MVD Minister in January, but remained curator of the Organs with Merkulov as MGB boss. Then Merkulov was denounced by his secretary. Beria washed his hands of him. On 4 May, Stalin, backed by Zhdanov, engineered the promotion of Abakumov to Minister of State Security….
… The coming atrocities were Abakumov’s doing, not Beria’s, even though most historians blame the latter. Beria, who, as Deputy Premier in charge of the Bomb and the missile industry, now moved his office from the Lubianka to the Kremlin, was henceforth ‘sacked’ from the Organs. He bitterly resented it.
‘Beria was scared to death of Abakumov and tried at all cost to have good relations…’ recalled Merkulov. ‘Beria met his match in Abakumov.’ Like a rat on a sinking ship, Beria’s pimp Colonel Sarkisov denounced the sexual degeneracy of the Bolshevik ‘Bluebeard’ to Abakumov who eagerly took it to Stalin: ‘Bring me everything his arsehole will write down!’ snapped Stalin. (pp. 475-477)

[Abakumov] possessed all Beria’s sadism but less of his intelligence. Abakumov unrolled a bloodstained carpet on his office floor before embarking on the torture of his victims in order not to stain his expensive Persian carpet. ‘You see… there are only two ways to thank an agent: cover his chest with medals or cut off his head.’ He was hardly alone in this Bolshevik view.
… [Abakumov and Vasily Stalin] fanned the Aviators’ Case. Vasily purloined Novikov’s dacha while the ‘father of the Soviet air force’ was tortured.
… Shakhurin received seven years’ hard labour, Novikov ten years – but their confessions implicated bigger fish.
On 4 May, Malenkov was abruptly removed from the Secretariat… Malenkov was despatched to check the harvest in Central Asia for several months, but never arrested. Beria tried to persuade Stalin to bring him back… ‘Why are you taking such trouble with that imbecile? You’ll be the first to be betrayed by him.’ (pp. 478-479)

Beria had lost his Organs and his ally, Malenkov, so the success of the Bomb was paramount. Later in the year, he rushed to Elektrostal at Noginsk, near Moscow, to see Professor Kurchatov’s experimental nuclear reactor go critical, creating the first Soviet self-sustaining nuclear reaction….
‘It’s started!’ they said.
‘Is that all?’ barked Beria, afraid of being tricked by these eggheads. ‘Nothing more? Can I go to the reactor?’ This would have been a delicious prospect for millions of Beria’s victims but they dutifully restrained him…. (p. 479)

Good Morning!

昨日はちょうど日付が変わる頃に就寝。6時半に目が覚めた。

夢を見てたが、楽しげなものだった。名神高速に沿った道、ちょうど通っていた中学校付近に似た風景。机がひとつあって、そこで雑誌の編集作業中だった。数ページを1枚ずつコピーしようとして、少し離れた場所に置いてあるコピー機を使うと、操作を間違えた。1枚ずつでよかったのに、50枚も100枚も出てくる。このコピー機、大量に同じ内容のページをコピーすると、一定の枚数で薄茶色の紙に包んでトレーに出してくれる。こんな失敗もあって、仕事がはかどっていないわりには、機嫌がいい。

午前0時にその日の仕事を終えた。2時間後、「電話で~す!」という他のスタッフ(女性だった)の声に応える。「いないと思って、呼んだんですけど、もう来てたんですね」。電話はまた別のスタッフの夫からで、「フクモトさんも今日行くので、うちの妻も出勤します」。「よろしくお願いします」。「フクモトさん」というのは、「福本豊さん」のようだった。それから、「うちの妻」は、実際には1週間後に結婚を控えている「紀香さん」だった。(「西宮つながり」?最近、ネットで芸能ニュースを見すぎか。)根気の必要な編集作業なのに、数人いるらしいスタッフは嫌な顔もせず、楽しんでくれているようだった。「紀香さん」は仕事に来たが、「フクモトさん」は見なかったなぁ。

場面は変わって、京阪電車の駅。乗車を待つ列が延々と長いがみんな文句を言わず、整列して乗車していた。次に到着した電車に乗ったのかどうか不明。と言うのは、乗った車両に空き座席はなかったが、まったく混雑していなかったから。同じ車両に「紀香さん」を見つけて、「おはよう」。窓から見えた景色に驚いた表情だったので、「一生懸命、何を見てるの?」と聞くと、「今のビル、見ました。中が焼け焦げてましたよ」。「そうねぇ。天井から電線がいっぱいぶら下がってたねぇ」と答えた。どこの駅がわからんが、いっしょに下車して仕事に向かった。

これまでの悪夢とはまったく異なった苦しみのない夢。夢が心理を反映すると信じているが、「開き直り」の証だろうか。

昔聞いた褒められ言葉。2000年、台湾彰化県でプロジェクトマネジャーだったIさんが、仕事後のある日の夜、アパートでいっしょに酒を飲みながら言った「KJNDさんみたいにスマートに遊びたいなぁ」。遊んでたかなぁ?スマートやったかなぁ?

隣に住んでる人、なぜか日本語が(多分少し)できる。隣には、ハスキーとまっ黒な大型犬の2匹がいる。さっき朝の散歩に出かける気配がしたので、犬好きとしては我慢できず、玄関のドアを開けたら「おはようございます」と言ってくれた。しばらく前は、黒い方の1匹といるところをエレベーターでいっしょになり、「名前はクロちゃんです」。

Saturday, February 10, 2007

Hiroshima and Soviet Bomb Development

ヒロシマ。ベリヤの核開発

On 6 August 1945, America dropped its bomb on Hiroshima. Stalin did not wish to miss out on the spoils, sending his armies against Japan, but the destruction of Hiroshima made a far greater impact than Truman’s warning… ‘War is barbaric,’ reflected Stalin, ‘but using the A-bomb is a super-barbarity. And there was no need to use it. Japan was already doomed!’ He had no doubt that Hiroshima was aimed at himself: ‘A-bomb blackmail is American policy.’
Next day, Stalin held a series of meetings at Kuntsevo with Beria and the scientists:
‘Hiroshima has shaken the whole world. The balance has been destroyed,’ he told them. ‘That cannot be.’ Now Stalin understood that the project was the most important in his world; codenamed ‘Task Number One’, it was to be run ‘on a Russian-scale’ by Beria’s ‘Special Committee’ that functioned like an ‘Atomic Politburo’… Stalin was ‘bored’ by the science but treated Kurchatov kindly: ‘… Ask for whatever you like. You won’t be refused.’
Beria threw himself into Task Number One as if his life depended on it – which it did. The project was on a truly Soviet scale, with Beria managing between 330,000 and 460,000 people and 10,000 technicians. Beria was the pre-eminent Terror entrepreneur, telling one of his managers, ‘You’re a good worker but if you’d served six years in the camps, you’d work even better.’ He controlled his scientists in the sharashki, special prisons for technical experts, described by Solzhenitsyn in The First Circle….
Yet he could also be ‘ingratiating’, asking the physicist Andrei Sakharov charmingly, ‘Is there anything you want to ask me?’ His handshake, ‘plump, moist and deathly cold,’ reminded Sakharov of death itself… His name was enough to terrify most people….
… he also won the scientists’ loyalty by protecting tem, appealing to Stalin who agreed:
‘Leave them in peace. We can always shoot them later.’… (pp. 445-446)

Germay Surrenders, A-Bomb Race Begins

ドイツ降伏

… Stalin banned negotiations, except for unconditional surrender….
At 10.15 a.m., Zhukov’s artillery bombarded the city centre. By dawn on the 2nd, Berlin was his. On 4 May, a Smersh colonel discovered the wizened, charred remains of Hitler and Eva. The bodies were spirited away. Zhukov was not told. Indeed, Stalin enjoyed humiliating the Marshal by asking if he had heard anything about Hitler’s body.*…

*The jawbone and a portion of skull were kept in Moscow; the rest of his cadaver was tested by Smersh and then buried beside a garage at a Soviet army base in Magdeburg where it remained until KGB Chairman Yury Andropov ordered it cremated and the ashes scattered in April 1970.

On 9 May, Moscow celebrated Victory Day…. Stalin was furious when a junior officer general signed the German surrender at Reims and… ordered Zhukov to sign a proper surrender in Berlin…. But the glory days of the generals were over…. Later in the year, [Stalin] summoned him to the Kremlin to warn him that Beria and Abakumov were gathering evidence against him:
‘I don’t believe all this nonsense but stay out of Moscow.’… (pp. 435-436)

核実験とポツダム会談

At 5.30 a.m. on 16 July, the day of Stalin’s arrival, the United States tested a nuclear bomb in New Mexico that would change everything and, in many ways spoil Stalin’s triumph….
At midday on Tuesday the 17th, Stalin… arrived at Truman’s ‘Little White House’ for their first meeting. The new President said nothing about the topic that dominated the conference. Sergo Beria wrote that his father, informed by spies in the American nuclear project, gave Stalin the news during this week: ‘I didn’t know then, at least not from the Americans,’ was how Stalin put it. Beria had first informed him of the Manhattan Project in March 1942: ‘We need to get started,’ said Stalin, placing Molotov in charge. Finally in September 1944, the leading Russian nuclear scientist, Professor Igor Kurchatov, wrote to Stalin to denounce plodding Molotov and begged Beria to take it over…. He and Beria distrusted their own scientists and spies. None the less, they were aware of the urgency in procuring uranium, and twice during the Conference, Stalin and Beria debated how to react to the Americans. They had agreed that Stalin should ‘pretend not to understand’, when the subject was mentioned. But so far, Truman said nothing. They discussed Russia’s entry into the war against Japan….
… on 24 July, two monumental moments symbolized the imminent end of the Grand Alliance. First Churchill attacked Stalin for closing off Eastern Europe….
‘Fairy tales!’ snapped Stalin…. Stalin headed out of the room but Truman seemed to hurry after him. Interpreter Pavlov deftly appeared beside Stalin….
‘The USA,’ said Truman, tested a new bomb of extraordinary destructive power.’ Pavlov watched Stalin closely: ‘no muscle moved in his face.’ He simply said he was glad to hear it:
‘A new bomb! Of extraordinary power! Probably decisive on the Japanese! What a bit of luck!’ Stalin followed the plan he had agreed with Beria to give the Americans no satisfaction but he still thought the Americans were playing games: ‘An A-bomb is a completely new weapon and Truman didn’t exactly say that.’ He noticed Churchill’s glee too: Truman spoke ‘not without Churchill’s knowledge’.
Back at Ludendorff’s villa, Stalin, accompanied by Zhukov and [Andrei] Gromyko, immediately told Molotov about the conversation. But Stalin knew that, as yet, the Americans only possessed one or two Bombs – there was just time to catch up.
… ‘We’ll have to talk it over with Kurchatov and get him to speed things up.’ Professor Kurchatov told Stalin that he lacked electrical power and had not enough tractors. Stalin immediately ordered power to be switched off in several populated areas and gave him two tank divisions to act as tractors. The Bomb’s revolutionary importance was still percolating when the first device was dropped on Hiroshima. The scale of resourced needed was just dawning on Stalin.
He then convened a meeting with Molotov and Gromyko at which he announced:
‘… The real question is should countries which have the Bomb simply compete with one another or… should they seek a solution that would mean prohibition of its production and use?’ He realized that America and Britain ‘are hoping we won’t be able to develop the Bomb ourselves for some time…’ and ‘want to force us to accept their plans. Well that’s not going to happen.’
Potsdam ended with an affable but increasingly chilly impasse: Stalin possessed Eastern Europe but Truman had the Bomb…. [Stalin] removed Molotov and commissioned Beria to create the Soviet Bomb…. Beria included Malenkov and others in the list (of future commission members).
‘I prefer that they should belong. If they stay outside they’ll put spokes in the wheels.’ It was the climax of Beria’s career. (pp. 435-444)

Yalta... and Russia Takes Berlin

ヤルタ会談とベルリン進攻

When Stalin eyed the great prize of Berlin, he decided to change the way he ran the war: there would be no more Stavka representatives in charge of fronts. Henceforth, the Supremo would command directly.
Zhukov was to command the First Belorussian Front that was to fight the five hundred miles to Berlin… Two weeks later, Koniev (of the First Ukrainian Front) was plunging into the ‘gold’ of industrial Silesia, Zhukov had expelled the Germans from central Poland, and [Roman] Malinovsky was fighting frenziedly for Budapest. The Second and Third Belorussian Fronts broke into East Prussia, Germany itself, in a fiesta of vengeance: two million German women were to be raped in the coming months. Russian soldiers even raped Russian women newly liberated from Nazi camps. Stalin cared little about this…
Roosevelt and Churchill had been discussing the next Big Three meeting even since July 1944. Stalin was reluctant….
… They agreed on Yalta. By 29 January, Zhukov was on the Oder. As German forces counter-attacked the Soviet bridgeheads, Roosevelt and Churchill were being greeted on 3 February at Saki airforce base in the Crimea by Molotov….
At 4 p.m. (February 5), the conference opened in the Livadia’s ballroom… They were discussing the Pope:
‘Let’s make him our ally,’ proposed Churchill.
‘All right,’ smiled Stalin, ‘but as you know, gentlemen, war is waged with soldiers, guns, tanks. How many divisions has the Pope? If he tells us… let him become our ally.’
When Roosevelt was ill, Stalin, Molotov and Gromyko visited him for twenty minutes… He had always distrusted Churchill but Roosevelt seemed to fascinate him.
The next day, 6 February, they discussed the painful subject of Poland and the world organization that would become the UN. Russia should take eastern slices of Poland in exchange for grants of German territory in the west. Stalin assented only to include a few Polish nationalists in his Communist-dominated government….
… Stalin explained the Russian obsession with Poland: ‘Throughout history, Poland has served as a corridor for enemies coming to Russia’ – hence he wanted a strong Poland… They approved the three zones of occupation in a demilitarized and de-Nazified Germany. The Americans were pleased by Stalin’s repeated promise to intervene against Japan, agreeing his demands for Sakhalin and the Kurile Islands.
Stalin had won virtually all he wanted from the Allies and this is usually blamed on Roosevelt’s illness and susceptibility to Stalinist charm. Both Westerners stand accused of ‘selling out Eastern Europe to Stalin’. Roosevelt’s courtship of Stalin and discourtesy to Churchill were misguided. FDR was certainly ill and exhausted. But Stalin himself always believed that force would decide who ruled Eastern Europe which was occupied by 10 million Soviet forces….
… Zhukov was to assault Berlin from the Oder bridgeheads over the Seelow Heights; Koniev to push towards Leipzig and Dresden, with his northern flank thrusting towards southern Berlin parallel to Zhukov….
As they were marshalling their forces, Roosevelt died, the end of an era for Stalin.
At 5 a.m. on 16 April, Zhukov unleashed a barrage of 14,600 guns against the Seelow Heights. [Zhukov and Koniev] wielded 2.5 million men, 41,600 guns, 6,250 tanks and 7,500 aircraft, ‘the largest concentration of firepower ever assembled’….
On 20 April, Zhukov reached Berlin’s eastern suburbs. Both marshals fought, house by house, street by street, towards Hitler’s Chancellery. On the 25th, Koniev ordered an assault towards the Reichstag. Three hundred yards from the Reichstag building, Chuikov, who was leading Zhukov’s thrust, encountered Russian forces – Koniev’s tanks….
In the early hours of May Day, the German Chief of Staff visited Chuikov, announcing Hitler’s death and requesting a ceasefire. Ironically, this was Hans Krebs, the tall German officer whom Stalin, seeing off the Japanese in 1941, had told: ‘We shall remain friends.’ Chuikov refused a ceasefire. Krebs left and committed suicide. … Zhukov, eager to break this world-historical news, telephoned Kuntsevo. Once again, the security refused to help.
‘Comrade Stalin’s just gone to bed,’ replied General Vlasik.
‘Please wake him,’ retorted Zhukov. ‘The matter’s urgent and cannot wait until morning.’
Stalin picked up the phone and heard that Hitler was dead.
‘So that’s the end of the bastard.’ (pp. 424-431)