Saturday, February 17, 2007

Japanese Edition of "Princess Masako" Canceled

講談社が「プリンセス・マサコ」日本語版の発売を中止。「事実誤認が多く」、また「日本の読者にはなじまない表現」があるためらしい。いつだったか原著を当地紀伊國屋で見かけたが、手に取ることもしなかった。この「なじまない表現」、元が日本語で書かれていないのだから、当然のことで、それを自然な表現にするのが翻訳者の仕事だと思うけど、そう意味ではない「それ以上に」なじまないものがあったのではないかと推測する。宮内庁は皇太子妃の症状について「適応障害」と発表しているが、平たく言えば「うつ病」なんじゃないのか。

独立を達成したインドだが、男尊女卑の文化打破やカースト制の解体など、問題は山積していた。中央と地方との関係も対応が迫られた。カシミールは言うに及ばず、ハイデラバード、ボーパール、ラジャスタンなどの「藩王国(princely states)」の帰属問題も大きなものだった。

47~48年の収支がベルギーとほぼ同規模だったというハイデラバードでは、藩王ニザームがイスラム教徒、住民の過半数はヒンドゥー教徒であり、中央政府は微妙な対応を迫られた。ニザームは、独立かパキスタンへの帰属を目論んでいたようだが、国内に大きなパキスタン領の飛び地が出現することを政府は当然懸念した。ネルーは48年3月の時点で、帰属は「住民が決定すること」で、武力によってインドへの帰属を強制したくないと述べる一方、民主国家インドにおいて、封建制度を維持する藩王国の存在を認めることはできないとクギをさしている。

藩王が黙認するイスラム過激派による暴力のほか、共産主義系の農民運動による「農地解放」が進み、9月7日、ネルーは憲制会議で自由で民主主義のインド国内にハイデラバード藩王国の存在を許すことはできないと演説。インド政府軍の介入が始まった数日内にニザームはインドへの帰属を決めた。

ネルーが「混成国家(composite nation)」と呼んだ独立インドの憲法は49年11月26日に制定され、発布は翌50年の1月26日。表現、信仰、職業、集会など、基本的自由を保証し、少数民族や被差別階級への保護を規定している。(さらに「不可触民(untouchables/dalit)」への差別を禁止する法律「Untouchability (Offences) Act」が55年に制定されている。)英国支配から「道徳革命」によって独立を勝ち取ることをもっぱら目指したのが国民会議だった。政治の猥雑さを嫌ったネルーは国民会議の政党化にも思い悩む。加えて、政治権力の蜜を味わってしまったメンバーによって活動の質が低下してしまったことも悩みの種だった。

52年に実施された初の下院(Lok Sabha)選挙で、国民会議の得票率は45%。全489議席のうち364議席を獲得した。第2党になったのは、16議席(得票率3.3%)のインド共産党だった。ヒンドゥー教徒の利益を優先させ、ムスリム連盟と非宗教主義の国民会議との違いを強調して15年に設立されたヒンドゥー・マハサバ(Hindu Mahasabha, maha=great/sabha=assembly)は4議席に終わった。

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