Wednesday, March 28, 2007

"One Please" and Thoughts on Language

昼寝した。

「不実の美女か貞淑な醜女(ブス)か」を読み終えた。ネタをもうひとつ。

(商社の社長の米国訪問に)英語ペラペラの海外市場部長というのが同行していて、
「社長、一切日本語でかまいません。私が全部訳させていただけますから、挨拶なさる際には全部日本語でおっしゃってください」
……しかしスピーチの最後の部分は、……せめて一言ぐらい英語をしゃべってサービスしなくては、と思ったのか、
「ワン・プリーズ(One please)」
と締めくくった。
宴会終了後、英語ペラペラ部長は社長の傍らへ走り寄り、
「社長、最後のあれは何でしょうか」と尋ねると、社長は得意満面の様子で、「うん、君、あれもわからんのか。ひとつ、よろしく、だよ」
と答えたという。これは実話である。

米原万里さんは初エッセイとなった同書で紹介したネタを後続書にも使っている。(この本を読んだのは3年半ほど前だが、重複ネタに今頃気づく自分の読み方を反省する。)プラハの学校では子供用に書き直された文学作品など教材には使わず、すべて「本物」だったという話は他に出てくるが、以下は記憶にない。

「……学校付属図書館の司書が、学童が借りた本を絶えす都度、読み終えた本の感想ではなく、内容を尋ねる。本を読んでいない人にも、その内容を分かりやすく伝える訓練を、こうして行う。そのうえで、もちろん感想も聞かれる」
「……ソ連式授業では、まずきれいに読みおえたら、その今読んだ内容をかいつまんで話せと要求される。一段落か二段落読ませられると、その都度、要旨を述べない限り座らせてもらえない」

若い頃、Kalamazoo でやった要約や言い換えの訓練は、語彙を増やすだけではなく、今から思えば文章作成能力を高めるきっかけになったと思う。

そして米原さんは帰国後、

「……高校受験用として覚えさせられる文学史に載るような作品を、ほとんど同級生の誰もが読んでいないことにショックを受け、作文の際、点(、)の打ち方について教師に尋ねて、納得のできる回答を得られず驚き呆れ、国語のテストで、
『右の文章を読んで得た感想を、左のア~オのなかから選べ』
と求められたことにぶったまげた」

日本人が母語とする日本語を外国語を理解するような目で突き放してみることで、この言語の習得が向上するとの意見にまったく同感だ。不幸にして自分の場合は、ずいぶん歳をとってから英語との比較で、また日本語を外国語として学ぶ人と会う機会を得て、徐々にこのことに気づくことになった。そして第二外国語に挑むことが、母語にも第一外国語にも好ましい結果をもたらすだろうとの思いを強くした。他人の発言や文章に接することは、己の冗語性を減らそうと努めることでもあるような気がする。

また、

「本来言葉をつかさどる能力というのは、自分の感情や思考を整理したり、他人に伝えたりするためにあるものなのではないだろうか。……」
「だが、一時的にせよ、この機能をまるごと他人に従属させなくてはならないのが、通訳という仕事を選んだ者の宿命である」
「……来日した作家に二週間も張りつくように随行して、講演や座談会から日常生活上のやりとりまで通訳し続けたことがある。七日目ぐらになると、私はその尊敬する作家の顔を見るのも厭になり、十日目にはブッ殺したくなった」

尊敬する作家が相手でも殺意を感じるのだから、自分の思想や考えと異なる内容を通訳するのはつらくて当然。発言者と同じ組織に属していたりすると、聞き手は従属している存在とは了解せず、発言者と同視しているのではないかと大きく懸念する。ある会社では、通訳兼会議(あるいは宴会)参加者であることをいいことに、「個人的には……」と言い訳がましく付け加えたことが何度もある。

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