Wednesday, October 13, 2021

Reporting from South Vietnam―日本人記者たち:「ジャーナリズムの恥」と文豪が言う(2)

  日本には、ベトナム反戦運動、まだ返還されていなかった沖縄や「本土」の米軍基地によるこの戦争への関与、またベトナム特需があったとはいえ、当事国ではなかった当時の日本人にどれだけのベトナム戦争についての理解があったのかは、とりわけ反戦運動に熱心だった人たちの中には、パリ協定調印ですべてが終わったという考えもあったようで、はなはだ疑わしい。ベトナム戦争を理解しようとすれば、近藤以外の日本人記者、また彼が赴任していた以前の日本でどう報道されていたのか、またアメリカやベトナムからの資料をもっと知りたいと思うのは当然のことだった。しかし、「近藤以前」の報道記録を見つけるのは容易ではなかったのである。

 昭和二十九(一九五四)年に締結されたジュネーブ合意後のベトナム戦争には、四十八(一九七三)年一月に調印されたパリ協定と五〇(七五)年四月三十日の北ベトナムによる武力による統一までにいくつかの大きな節目があった。三十八(六三)年十一月のベトナム共和国(南ベトナム)大統領が暗殺されたクーデター、四十(六五)年三月からのアメリカ軍によるローリングサンダー作戦(北爆)、四十三(六八)年一月に始まった北ベトナムと解放戦線による南側のほぼ全土におけるテト攻勢などである。日本でベトナム反戦運動が目立つ存在となったのは北爆以降であり、フォール(Bernard B. Fall)の『二つのベトナム(The Two Viet-Nams)』と、容共、親北だったからか日本ではよく知られていたらしいバーチェット(Wilfred Graham Burchett)による記事で「付焼刃をした12」開高健が前年のベンキャットへの従軍などの現地体験をルポとして「週刊朝日」に連載し、それをまとめて四十(六五)年に発表した『ベトナム戦記13』に見られる以外に、南北分断後にカトリック教徒による北から南への移動を促した「マリアさまは南へ行ってしまわれた」など、ズィエム政権下で行われた心理戦でよく知られるランズデール(Edward Geary Lansdale)が重要な役割を果たしていた時代のベトナムなどはあたかも存在せず、日本でのベトナム戦争史は北爆から始まったようである。ちなみにバーチェットは、四十一(一九六六)年にジョンソン政権のハリマン(Averell Harriman)大使が彼を介してニューヨーカー誌の記者だったロバート・シャプレン(Robert Shaplen)を密使としてベトコンとの接触を行おうとしたことでも知られる14

 停戦ラインを越えた北側への爆撃はすでに昭和三十九(一九六四)年八月のトンキン湾事件後に行われているが、それを知ってか知らずか、日本ではローリングサンダー作戦を北爆の開始としている。では、なぜ日本人は北爆までベトナム戦争に無関心でいられたのだろうか。

12 Kaiko Takeshi(開高健). 『こんな女』, 1967

13 Kaiko Takeshi(開高健). 『ベトナム戦記』, 1965

14 Shaplen, Robert. Bitter Victory: A Veteran Correspondent's Dramatic Account of His Return to Vietnam and Cambodia Ten Years after the End of the War, 1986

 

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