Friday, October 01, 2021

ベ平連(Beheiren)ー日本のベトナム反戦運動(1)

   日本でのベトナム反戦運動に関連する論文を三本、また書籍を一冊読んだ1,2,3,4。これら論文のうち一本は、主に「アンポ神戸社」が保管していた当時の資料を一覧にしただけような内容で、反戦運動の内容を分析するものではなく、なぜこれが独立した論文なり得るのかと不思議である。本文が英語で書かれているわけではないのに、論文名を英訳して著者名はローマ字で記されていたりもする。日本人の英語好きの表れか。日本国内におけるベトナム戦争に対する対応のようなものにも言及されているかなと思って期待したが、いずれも、ベトナム戦争やそれへの日本の対応を俯瞰して書かれたものではなく、あくまで日本のベトナム反戦運動を切り取って扱ったものだった。

 ベトナム戦争については、その歴史研究や回想録、またそれを題材にした小説がアメリカには数多く存在するが、ベ平連によるものかどうかを問わず、日本のベトナム反戦運動がその一部であったことは、知る限り皆無である。日本政府の対応などというものについても触れられた例を知らない。研究者の立場ではまったくないが、ベトナム戦争関連の著作を数多くといっても差し支えない程度に読んできたが、日本人によるものを読むと同じ戦争について書かれたものなのだろうか、という気にさえなってしまう。どうも大きな違和感に直面してしまう。同じ戦争を題材にしているにもかかわらず、日本人による報道や研究と欧米人によるものが同じレール上にないように感じられてならない。現地で取材を行った新聞記者の回想録以外にベトナム戦争を感じさせることはなく、「ベトナム」という語を伏字にしても問題ないように思ったりする。記者による回想録でさえ、アメリカの新聞記者や雑誌記者だった人たちの回想録を読めば、違和感は相当なものである。 

 ベ平連、すなわち「ベトナムに平和を!市民連合」による最初のデモは一九六五年四月二十四日に開催され、七四年一月二十六日に解散集会が開かれている。ベ平連が組織されたきっかけとなったのは、アメリカ軍による「北爆」らしいが、『ベ平連とその時代』には北爆の開始が一九六五年二月七日だったと記されている。北ベトナム領内への攻撃は、この日以前にも、「34A」と呼ばれたラオス領内への秘密作戦において、操縦士だったタイ軍兵士がおそらく誤って北ベトナム領内を爆撃してしまったり、またトンキン湾事件のきっかけとなった湾内の二つの島に対する南ベトナム海軍による砲撃があったりした。北ベトナムに対する爆撃について、アメリカ政府上層部が戦略会議において全般的な合意に達したのは前年九月初旬のことである。一九六五年二月七日は解放戦線側による南ベトナム側高地のプレイクにあったアメリカ軍の軍事顧問施設とキャンプ・ハロウェイのヘリコプター基地への攻撃があった日であるが、その報復として、アメリカ海軍がすぐさま十七度線の四十マイル北にあるドンハイのゲリラ訓練基地を爆撃し(フレイミングダートⅠ作戦)、クイニョンのアメリカ軍兵舎への解放戦線による攻撃後の十一日にも報復の爆撃を行っている(フレイミングダートⅡ作戦)。

 北爆が散発的ではなく継続的な北ベトナム領内への爆撃、つまり「ローリングサンダー作戦」を意味しているなら、この作戦の開始をジョンソン大統領が命じたのは二月十三日になってからで、実際に開始されたのは三月二日のことだ5 

 北爆に言及している論文も一九六五年二月七日、あるいは一九六五年二月に開始されたと記している。広い意味での北爆は、前述の通り、この日付にもあったことが今では明らかになっているし、「ローリングサンダー作戦」は継続的で大規模だという点で、それ以前のものとは大きく異なり、わざわざ「北爆」であることを強調するなら、この作戦をそう呼ぶべきだろう。

 しかし、北爆開始の時期「一九六七年」と誤記している個所さえあったりする市橋による論文「日本におけるベトナム反戦運動史の一研究―福岡・十の日デモの時代」には、「社会党・総評系の『全国実行委員会』は2月10日、1万人を集めて『椎名訪韓に抗議し、日韓会談粉砕・原潜寄港阻止・中央集会』を東京で開いているが、7日、8日と連日の北爆を受けて、これは事実上のベトナム侵略への抗議集会となった」と書いており、日本で言う「北爆」は、「ローリングサンダー作戦」以前、二月初旬の爆撃で開始されたという理解なのだろう

「アンポ神戸社」の保管資料に関する論文には、「一九七一年の後半から、ベトナムによるカンボジア侵攻などが生じた」との記述も見られるが、何のことだろうか。解放戦線の総拠点(だと信じられた)「COSVN」を狙って米軍が秘密裡に行ったカンボジア領内への爆撃は一九六九年三月から翌年五月まで続いたものであり、クメールルージュ駆逐を目的としてベトナム軍がカンボジアに侵攻したのは、「南ベトナム解放」から数週間後だったから、わざわざ言及するほどに重要だったはずのこの一九七一年後半のカンボジア侵攻が何を意味しているのかわからない。

1 Ichihashi Hideo(市橋秀夫)『日本におけるベトナム反戦運動史の一研究―福岡・十の日デモの時代』, 2014-16

2 Kurokawa Iori(黒川伊織)『地域ベ平連研究の現状と課題』, ????

3 Fukui Masaru(福井優)『70年安保とベ平連―「週刊アンポ」を中心に―』, 2020

4 Hirai Kazuomi(平井一臣)『ベ平連とその時代 身ぶりとしての政治』, 2021

5 The New York Times. The Pentagon Papers, 1971

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