ベ平連に代表される日本におけるベトナム戦争に関する反戦運動は、あくまで「反」と「非」であり、「築」を考えていたようには思えず、反戦の名を借りながら、実は反米と反自民党政権が目的だったのだろう。命を危険にさらし、また肉親を失った、あるいは失うかもしれない人たちによる反対や抗議と同列に並ぶことはあり得ない。小田実が世界のどこへ行こうと、世界からどんな反戦活動家を招こうと、ベ平連に代表される日本のベトナム反戦運動は高度経済成長期の日本という、ベトナム農民の悲しみなどとは波長を同期させることができない国の中で発生し、ベトナム反戦という視点すら失い、そして消滅した現象だったように思う。当時の米ソ冷戦と国内の保革対立に影響された何か不毛なもの、実は行き先などわかってはいなかった一時の熱狂に徒労さえ感じさせる。ベトナム戦争終結から四十五年以上経過しても、それを自らの政治信条に都合よく合わせて利用しようとする人さえいるようで、驚かされる。
テト攻勢後にジョンソンが南ベトナム国内の米軍司令部からの要請のあった二〇万六千人の増派を拒絶し、一九六九年一月に大統領に就任したニクソンは兵力を徐々に削減し、同年十一月に「ベトナム化」を発表する。それ以前、米軍司令部から繰り返された増派要請もあってアメリカ政府は介入の度合いを深めていく一方だったが、今では、現地からの報道だけでなく、CIAなどからの報告で伝えられる戦場や南ベトナム政府の状況分析から、実際には介入や戦争の行方に少なくない悲観論がアメリカ政府内に存在したことが知られている。ケネディ、ジョンソン、ニクソンと、歴代大統領はベトナム戦争についてアメリカ国民を欺いてきたという事実があるが、しかし表面の強硬さとは裏腹にLBJでさえ悩みに悩んだのである。
取り上げた論文と著作の主題はあくまでも日本国内のベトナム反戦運動にあるとはいえ、それには背景情報を得るためだけだとしても、戦争当事国であったアメリカ国内の資料を調べることが重要な点であろうかと思われるが、日本語以外の出版物で参考文献として挙げられているのは、戦後日本の市民運動、アメリカの左翼運動、そして駐留韓国軍による住民虐殺事件*に関連して脱走兵を扱った三冊のみで、ベトナム戦争という巨大なドラマをわずかでも把握したうえでの研究ではなさそうだ。少しでも把握すれば、この巨大なドラマにおける日本への注目度がどのようなものであったのかも理解できるというものだ。「ベトナム反戦」「アメリカの侵略に反対」と言っても、結局は国内向けの反米左翼運動の一形態でしかなかったということか。そして、少々誇張して言えば、ベトナム戦争を知らなくても日本のベトナム反戦運動研究は可能だということか。そうだとすると、木を見て森を見ずどころか、葉を見て森を見ずだ。
* 一九六八年二月十二日にディエンバン市社フォンニィ・フォンニャット村で発生した虐殺事件に関する著書のようだが、同年一月二十六日に同じくディエンバンで発生した韓国軍による別の虐殺事件について、クリスチャン・アッピー(Christian G. Appy)が百三十五人のベトナム戦争期回想をまとめた『Patriots』にボン・マクドラン(Bong MacDoran)による証言が収録されている。
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