Saturday, October 02, 2021

ベ平連(Beheiren)―日本のベトナム反戦運動(3)

 ベ平連の主張は、平井の著書の中で紹介されている写真が示すように、「ベトナムに平和を」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本政府は戦争に協力するな」、そしてホーチミン市の戦争証跡博物館に展示されている「アメリカはベトナムから手をひけ」だろうか。ベトナム反戦運動には「アメリカのベトナム侵略に反対する」という主張も見られるのだが、分断当時の「ベトナム」とは、どの国を意味しているのか。また、何を根拠に「侵略」と言い切れるのか。ベ平連は、アメリカの学生を中心とした反戦運動などとも連携しようとして、代表だった小田実はSDSで当時は会長の立場にあったオグルスビー(Carl Oglesby)とも話し合ったそうだが、SDS、SNCC、VVAWなど、アメリカ国内の反戦運動について、また組織内において、どのような支持や批判があったのかという分析がなされたのだろうか。さらに、一九六八年八月には「反戦と変革に関する国際会議」なるものが京都で開催されたが、平井による記述を読んでも「国際会議」と呼称してはいるが国際という印象はきわめて薄く、受け取ったかもしれないアメリカからの好意的な反応は言わば社交辞令であり、ほとんど何も期待されていなかったのだと思われる。

 既存政党、すなわち日本社会党や日本共産党、また労働組合の縛りを受けない個人による自発的な連合であることをその独自性として強調しながらも、誰でも参加できる街頭デモとフォークソングで当時の反米左翼思想を糖衣しただけではなかったか。その証拠に、七〇年安保改定の時期が近づくとベトナム戦争は忘れ去られていく。ベトナム戦争がさらに激化していた頃であるにもかかわらず、ベ平連は安保反対の活動へと軸足を移し、その姿を変えていくのである。米兵脱走さえ促したが、脱走兵の扱いに困って支援を求めた先はソ連、つまりKGBであったことがすでに明らかになっている。平井の著作はソ連にもKGBにもなぜか言及していない。また、黒川による論文からは、執筆者の政治信条が読み取れる。これでは学者や研究者ではなく、活動家である。

 ベトナム戦争に集中した発足当初の方針から目を反らすことなく活動が実を結び、米軍が撤退してベトナムがベトナム人の手に返されたとする。それがベ平連の発足直後であったとしても、世界が目撃することになる結果の訪れを早めただけだったように思う。南ベトナム政府内の腐敗や繰り返されたクーデターを擁護するつもりはまったくないが、一九七五年四月に「解放」されたベトナムの姿はベ平連やその他の反戦運動に参加した人たちが望んだものだったのだろうか。米軍撤退がもたらす可能性のある結末をティーチインでは伝えなかった、あるいは想像もつかなかったのだろうか。長年にわたって南北に分断され、それぞれにまったく異なる政治体制を持つ二つのベトナムが急激な勢いで一つになると、何が起こるのか想像できなかったのだろうか。一九七三年一月のパリ協定調印から一年後に霧散してしまったことから、この平和運動に参加した人たちは本当にベトナムの将来に関心を抱いていたのだろうかと考えさせられる。単なる国内向けの平和祭りではなかったのだろうか。米軍が撤退すればベトナム戦争は終結して、平和が訪れると考えていたのだろうか。北ベトナム軍の南ベトナム駐留を認めたパリ協定についてどう考えていたのだろうか。南北間の戦闘が止むことはなかったのだけれども、協定の内容などはどうでもよかったのだろうか。また、論点ではないと言われればそれまでであるが、ベトナム反戦運動が北ベトナムの政治体制や解放戦線側による例えば一九六八年一月末のテト攻勢についてどのように考えていたのだろうか。ここに挙げた論文や著作から、こんなことについては何も知ることはできない。

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