Saturday, October 30, 2021

開高健ノかたかな好キ

 若クカラふらんす文学ニ親シンデイタハズノ開高健ノふらんす語ノ理解度ハ相当ナモノカト想像シタノダガ、南べとなむデ会ッタアルかとりっく教神父ト話ス際、「私はフランス語より英語のほうが楽である1」ト述ベテイルコトニ少ナカラズ驚イタ。べとなむ戦争ノ現地取材デ得タ情報ヲ翻訳シタノハ彼ノ役割ダッタソウダガ2、英語カラ日本語ニ訳シタ彼ノ文章ニハ、辞書ヲ引キ引キシナガラ苦労シテ作リマシタ、トイウ跡ガ見テ取レ、ソノ和訳文ハ読ミニククテ仕方ガナイホドナノデアリ、翻訳ノ精度ガ疑ワレルノデアル。マタ、翻訳ナド、片手間ニヤルモノダト、翻訳者ノ仕事ヲ軽視スルヨウナ姿勢ガ垣間見ラレルト同時ニ、翻訳トイウモノハ、コンナニ難シイ作業ナノダト言イタゲデ、嫌ナ気分ニサセラレル。同ジ理由デ、イカニモ精通シテイタヨウナぱり事情ニ関スル記述モめっきデ覆ワレテイルヨウニ感ジラレテクル。ソノ他、ふらんす語ヤ英語ノ語句ヲかたかなデ表記シタ部分ガ目立ツシ、かたかな表記ノ後ニかっこで括ッタ日本語ヲワザワザ付記シテイル個所ガ多数見受ケラレル。何ノタメノかたかな使用ナノダロウカ。自ラノ知識ノ確認カ、ソレトモはいからニ見セヨウトスル努力カ。

 マタ、べとなむ語モかたかなデ表記シテイルガ、北京語ヤ広東語ナドト同様ニ、声調ガ重要ナ要素トナルべとなむ語ヲかたかな表記デ再現スルコトハマズ不可能デアルコトニ気ヅカナカッタノダロウカ。サラサラトかたかなデ書イテシマウト、言語ニ対スル誤解ヲ深メルダケデアル。彼ノ外ニ出テ心理ノ平衡ヲ保トウトスル自己分析ニハ共感スルコトモ多イノダガ、「知ッタカブリ」「見セビラカシ」ノ海外知識トイウ言葉ガ頭ニ浮カンデクル。

「マジェスティック・ホテルそのものもヴェトナム風になら《ホテル・マジェスティック》というよりは《オテル・マジェティク》とフランス風に、そしていささか子供っぽく呼んだほうがいいのだということ、そんなこともわかっていなかった2」ナドトイウ文章ニ出クワスト、日本語ノ「あいうえお」カラ外レタ音ニ対シテモ、セイゼイかたかなヲ当テハメルコトシカデキズ、日本語以外ニハ対応デキナイコトガワカル。ソシテ「いささか子供っぽく」ッテ何?べとなむヲ「ヴェトナム」ト書クナラ、「ヴィエトナム」トスレバ少シハヨカッタノニ。 

 シカシ、ふらんす語ニシロ、英語ニシロ、ドイツ語ニシロ、ベトナム語ニシロ、ヨクワカッテイナイハズノ言語ヲかたかなニシテ連発シ、事情通ノホドヲ「サスガ!」ト読者ニ思ワセナガラ、修辞ヲ駆使シテ書キ綴ッタ文豪ハ反省シテイルヨウニモ思エナイシ、何カ改善ノタメノ意見ヲイタダケル機会モナカッタヨウダ。「物書きならば何が何でもこね上げて表現しなければならないと思う3」ト言ウ戦後昭和ノ文豪ガコネ上ゲテ原稿用紙ニ文字トシテ表シタノガ非日本語由来ノかたかな語デアッタリスルト、がっかりスルノダ。半端ナ知識モ堂々トシタ態度デソノ場限リノぺんヲ走ラセセレバ説得力ガジワリト湧出シテクルトイウコトカナ。

 海外渡航ガ珍シク、マタ貴重ダッタ頃ダカラ、開高ノ時代ハかたかなノ効果が大キカッタトイウ理由モアロウガ、マットウナ日本語ガアル場合デモ、かたかな語ヲ使ッテ意味ヲハグラカソウトスル風潮ハ強マルバカリデアル。ツイデニ言エバ、『夏の闇5』ニ登場スル「女」ニべとなむ事情ヲ解説スルアタリノ日本語ハ不自然ナホドニ説教ジミテイル。コンナ事ヲ思ッテシマウノモ、スッカリ時代ガ変ワッテシマッタトイウコトカ。開高ノ作品ヲ楽シムナラ、べとなむ以前ノモノガイイ。

1 Kaiko Takeshi(開高健).『サイゴンの十字架』, 1973

2 Kaiko Takeshi(開高健). 『こんな女』, 1967

3 Kaiko Takeshi(開高健). 『ベトナム戦記』, 1965

4 Kaiko Takeshi(開高健). 『河は眠らない』, 1990

5 Kaiko Takeshi(開高健)『夏の闇』, 1974

Inability of Controlling Dreams

Is there any way to control your dreams? Apparently not.

I've been having trouble sleeping for the past few months, at the very least. One of the quickest ways to put you to sleep is to get yourself drunk, and it works. However, that requires around ten small Tiger cans. With that many cans, I say I can go into sleep before I realize that I am going to. However, the trouble starts in early morning when I am half asleep and half awake, or more asleep than awake. Those moments of "I'm not here" make me not only see images, mostly nightmarish, but also think. In the thinking moments, almost solely because of the devastating effects of the pandemic on my business, I find talking to myself, "the end is near. You should get yourself ready to disappear into nothingness." Perhaps, there are two things that keep me from going there; books that I've bought but not arrived yet. (This in itself is contributing to the deterioration of the quality of my life because of the cost for purchasing new books); and my fragile determination to prove wrong the man who said, "One who has gone through a bout of depression will kill himself."

Monday, October 25, 2021

Reporting from South Vietnam―日本人記者たち:「ジャーナリズムの恥」と文豪が言う(4)

 すでに引用した開高による記述から、日本人記者の存在がベトナム戦争の比較的初期に書かれた著作にその影さえ見えない理由が納得できる。また、戦中に占領していた国であるにもかかわらず、日本人はベトナムにも、ハルバースタムなどがすでに批判していた戦況やアメリカ政権による対ベトナム政策の遂行に関する記事にも、地理的に遠い東南アジアの小国だからか、それとも日本人にありがちだった、あるいは今なおありがちかもしれない、自らがアジア人であるにもかかわらず他のアジア人を蔑視する貧しい心を理由にしてか、大した関心を払ってはいなかったのである。日本の報道機関による関心のなさ、また記者たちの取材と報道に疑問を感じさせるのには以上の理由の他にも、記者と言う職業的な側面から理由がある。

 古森義久は、昭和四十七(一九七二)年十月時点の記者団について、「六百人を越える大所帯となった。最も数が多いのはアメリカ、ついで日本、フランス。日本はサイゴン常駐記者の三十人に加えて、各社いずれも東京や香港、バンコクなどから応援を次々に投入して、大規模な取材態勢に膨張していた21」と書いている。各社が現地の報道機関、南ベトナム政府、さらに軍部の内部から情勢に精通する人たちを情報源として確保していたことも各書からわかるが、日本人記者と他国の記者との交流が感じられるのは古森による回顧録ぐらいである。例えば、近藤紘一は彼の養女に好意を寄せたこともあったというオーストラリア出身のテレビカメラマンで記者でもあり、また古森も言及しているニール・デービス(Neil Davis)について、『パリへ行った妻と娘』では「ハワード」という仮名で、また近藤が東京で病床にあった際に見舞いに来た彼のバンコクでの死について触れる『妻と娘の国へ行った特派員』では、本名の「ニール・デービス」として交流を記している。しかし、バウデン(Tim Bowden)はデービスの生涯についての著作22で、彼と親しい間柄だったはずの近藤にまったく触れていない。この著書で言及されている日本人はカメラマンの沢田教一の名だけである。また、まだ若いタイム誌の記者だったアンソン(Robert Sam Anson)が回顧する中で言及している日本人は記者ではなく、カンボジアでのクメールルージュによるベトナム人殺戮という混乱の中で犠牲となったカメラマンやサウンドマンである(CBSのTomoharu Ishii、NBCのYashihko [sic] Waku、Teruo Nakajima)23。それぞれ、石井誠晴、和久吉彦の両氏だろう。Teruo Nakajima氏については、日本大使館が公式に行方不明だと発表したとアンソンは記載しているが漢字表記不明である。ずっと以前に遡れば、フォールが「フランスでホー・チミンにモスクワに行くことを誘われた日本人の作家」として「Kyo Komatsu」言及している。日本軍占領期のインドシナに関係が深かった小松清のことだろう24。また、フランク・スネップ(Frank Snepp)が日本人に言及している。

"A distraught Japanese diplomat drifted in [to the U.S. Embassy] and demanded vainly to be allowed to return to his Mission a few blocks away. He had arrived on a diplomatic errand during the morning and now found himself locked in. we advised him, in view of the mounting chaos outside, to take chances with us – which he reluctantly did, departing by chopper for the evacuation fleet a short while later."

"When I picked up the phone at the reception desk in [Saigon's CIA Station Chief, Thomas] Polgar's office, I immediately recognized the raspy midwestern accent on the other end. 'How the hell do I scale the walls!' [Chicago Daily News correspondent, Keyes] Beech sputtered at me, explaining that he was across the street with his old friend Bud Merick of U.S. News & World Report and several Vietnamese and Japanese newsmen."

"[Beech said,] 'Goddamnit, though! The marines left our Vietnamese and Japanese friends outside the wall. The couldn't, or wouldn't pull them over the wall.'25"

 いずれも昭和五十(一九七五)年四月二十九日午後のことである。スネップは、北ベトナム軍が怒涛のごとく南下を進める戦況を逐次追いながら、大使館の他、武官事務所(DAO)、国際開発局(USAID)、文化情報局(USIA)、南ベトナム政府の動き、さらに多数のベトナム人の職員や協力者たち、また彼らの家族を国内に残すことになった退避作戦に関する内幕を克明に明らかにした中央情報局(CIA)の分析官である。(日本政府や報道機関を含めた日本企業は同様の立場にあったベトナム人をどのように扱ったのだろうか……)

 この大使館員は大使館や本省の許可を得て脱出したのだろうか。許可があったとしても事件には違いないと思うが、古森も近藤も、また牧も、そんな事件には触れていない。

 日本人記者には外信部長会から二十六日、「日航救援機には各社常駐特派員一人を残してみんな乗る。残留組は米軍の最終ヘリで脱出する26」という指示が出され、二十九日には日本大使館が「すべての残存邦人および本社から退避支持を受けた特派員諸氏は、正午までにサイゴン大学法学部前に集合されたし。米大使館にかけ合い、専用ヘリを用意した。所持品は小型バッグ一個に限る」と連絡している。ビーチ記者については近藤が「三台のバスがやってきた。いずれも米国人で満員である。二台目の窓ぎわに、シカゴ・デイリー・ニュース紙のカイズ・ビーチ記者らの蒼ざめた顔が見えた。ビーチ記者は私の姿に気づきバスの中から何事か叫んだ27」と記している。ビーチはアメリカ大使館の壁を越えた後にバスに乗り、近藤はサイゴン大学の法学部までたどり着いたそのバスを見たのだろう。ビーチは大使館での出来事を近藤に伝えようとしていたのかもしれない。しかし、海兵隊員が大使館の敷地内に入れなかった日本人記者とは誰だったのだろうか。

21 Komori Yoshihisa(古森義久). 『ベトナム報道1300日 ある社会の終焉』, 1978

22 Bowden, Tim. One Crowded Hour: Neil Davis, Combat Cameraman 1934-1985, 1987

23 Anson, Robert Sam. War News: A Young Reporter in Indochina, 1989

24 Fall, Bernard B. The Two Viet-Nams, 1963

25 Snepp. Frank. Indecent Interval: An Insider's Account of Saigon's Indecent End Told by the CIA's Chief Strategy Analyst in Vietnam, 1977

26 Komori Yoshihisa(古森義久). 『ベトナム報道1300日 ある社会の終焉』, 1978

27 Kondo Koichi(近藤紘一). 『サイゴンのいちばん長い日』, 1975