すでに引用した開高による記述から、日本人記者の存在がベトナム戦争の比較的初期に書かれた著作にその影さえ見えない理由が納得できる。また、戦中に占領していた国であるにもかかわらず、日本人はベトナムにも、ハルバースタムなどがすでに批判していた戦況やアメリカ政権による対ベトナム政策の遂行に関する記事にも、地理的に遠い東南アジアの小国だからか、それとも日本人にありがちだった、あるいは今なおありがちかもしれない、自らがアジア人であるにもかかわらず他のアジア人を蔑視する貧しい心を理由にしてか、大した関心を払ってはいなかったのである。日本の報道機関による関心のなさ、また記者たちの取材と報道に疑問を感じさせるのには以上の理由の他にも、記者と言う職業的な側面から理由がある。
古森義久は、昭和四十七(一九七二)年十月時点の記者団について、「六百人を越える大所帯となった。最も数が多いのはアメリカ、ついで日本、フランス。日本はサイゴン常駐記者の三十人に加えて、各社いずれも東京や香港、バンコクなどから応援を次々に投入して、大規模な取材態勢に膨張していた21」と書いている。各社が現地の報道機関、南ベトナム政府、さらに軍部の内部から情勢に精通する人たちを情報源として確保していたことも各書からわかるが、日本人記者と他国の記者との交流が感じられるのは古森による回顧録ぐらいである。例えば、近藤紘一は彼の養女に好意を寄せたこともあったというオーストラリア出身のテレビカメラマンで記者でもあり、また古森も言及しているニール・デービス(Neil Davis)について、『パリへ行った妻と娘』では「ハワード」という仮名で、また近藤が東京で病床にあった際に見舞いに来た彼のバンコクでの死について触れる『妻と娘の国へ行った特派員』では、本名の「ニール・デービス」として交流を記している。しかし、バウデン(Tim Bowden)はデービスの生涯についての著作22で、彼と親しい間柄だったはずの近藤にまったく触れていない。この著書で言及されている日本人はカメラマンの沢田教一の名だけである。また、まだ若いタイム誌の記者だったアンソン(Robert Sam Anson)が回顧する中で言及している日本人は記者ではなく、カンボジアでのクメールルージュによるベトナム人殺戮という混乱の中で犠牲となったカメラマンやサウンドマンである(CBSのTomoharu Ishii、NBCのYashihko [sic] Waku、Teruo Nakajima)23。それぞれ、石井誠晴、和久吉彦の両氏だろう。Teruo Nakajima氏については、日本大使館が公式に行方不明だと発表したとアンソンは記載しているが漢字表記不明である。ずっと以前に遡れば、フォールが「フランスでホー・チミンにモスクワに行くことを誘われた日本人の作家」として「Kyo Komatsu」言及している。日本軍占領期のインドシナに関係が深かった小松清のことだろう24。また、フランク・スネップ(Frank
Snepp)が日本人に言及している。
"A distraught Japanese diplomat
drifted in [to the U.S. Embassy] and demanded vainly to be allowed to return to
his Mission a few blocks away. He had arrived on a diplomatic errand during the
morning and now found himself locked in. we advised him, in view of the
mounting chaos outside, to take chances with us – which he reluctantly did, departing
by chopper for the evacuation fleet a short while later."
"When I picked up the phone at the reception
desk in [Saigon's CIA Station Chief, Thomas] Polgar's office, I immediately
recognized the raspy midwestern accent on the other end. 'How the hell do I scale
the walls!' [Chicago Daily News correspondent, Keyes] Beech sputtered at
me, explaining that he was across the street with his old friend Bud Merick of U.S.
News & World Report and several Vietnamese and Japanese newsmen."
"[Beech said,] 'Goddamnit, though! The
marines left our Vietnamese and Japanese friends outside the wall. The couldn't,
or wouldn't pull them over the wall.'25"
いずれも昭和五十(一九七五)年四月二十九日午後のことである。スネップは、北ベトナム軍が怒涛のごとく南下を進める戦況を逐次追いながら、大使館の他、武官事務所(DAO)、国際開発局(USAID)、文化情報局(USIA)、南ベトナム政府の動き、さらに多数のベトナム人の職員や協力者たち、また彼らの家族を国内に残すことになった退避作戦に関する内幕を克明に明らかにした中央情報局(CIA)の分析官である。(日本政府や報道機関を含めた日本企業は同様の立場にあったベトナム人をどのように扱ったのだろうか……)
この大使館員は大使館や本省の許可を得て脱出したのだろうか。許可があったとしても事件には違いないと思うが、古森も近藤も、また牧も、そんな事件には触れていない。
日本人記者には外信部長会から二十六日、「日航救援機には各社常駐特派員一人を残してみんな乗る。残留組は米軍の最終ヘリで脱出する26」という指示が出され、二十九日には日本大使館が「すべての残存邦人および本社から退避支持を受けた特派員諸氏は、正午までにサイゴン大学法学部前に集合されたし。米大使館にかけ合い、専用ヘリを用意した。所持品は小型バッグ一個に限る」と連絡している。ビーチ記者については近藤が「三台のバスがやってきた。いずれも米国人で満員である。二台目の窓ぎわに、シカゴ・デイリー・ニュース紙のカイズ・ビーチ記者らの蒼ざめた顔が見えた。ビーチ記者は私の姿に気づきバスの中から何事か叫んだ27」と記している。ビーチはアメリカ大使館の壁を越えた後にバスに乗り、近藤はサイゴン大学の法学部までたどり着いたそのバスを見たのだろう。ビーチは大使館での出来事を近藤に伝えようとしていたのかもしれない。しかし、海兵隊員が大使館の敷地内に入れなかった日本人記者とは誰だったのだろうか。
21 Komori Yoshihisa(古森義久). 『ベトナム報道1300日 ある社会の終焉』, 1978
22 Bowden, Tim. One Crowded Hour: Neil Davis, Combat
Cameraman 1934-1985, 1987
23 Anson, Robert Sam. War News: A Young Reporter in
Indochina, 1989
24 Fall, Bernard B. The Two Viet-Nams, 1963
25 Snepp. Frank. Indecent Interval: An Insider's
Account of Saigon's Indecent End Told by the CIA's Chief Strategy Analyst in
Vietnam, 1977
26 Komori Yoshihisa(古森義久). 『ベトナム報道1300日 ある社会の終焉』, 1978
27 Kondo
Koichi(近藤紘一). 『サイゴンのいちばん長い日』, 1975