Friday, July 02, 2021

日本人の言語感覚と英語教育

日本人は英語が大好き。英語について日本語で話すのが大好き。

 英語でなくて他の何語であろうと、日本語に変換してしか理解しようとしない、あるいはそうとしかできない日本人の言語に関する意識は、今も昔と変わらず悲惨な状態のようだ。

 開高健が残した数あるエッセイのうちの一つに『飲みたくなる映画』(昭和三十一(一九五六)年)があるが、ここで彼はあるフランス映画を紹介し、その「原題」を「英雄は疲れる」だと記している。これは原題ではなく、原題の日本語訳とするのが正確なのである。調べたところ、どうやら映画の題名は「Les Heros Sont Fatigues」で、これを原題と呼ぶのである。半世紀以上経った今日においても、事情はあんまり変わっていないようで、和訳やカタカナ表記と原語を混同する誤解があちらこちらに見られる。

 また、調理例などの写真に「写真はイメージです」との一文が添えられていたりするが、「鉛筆は筆記具です」と言っているのに等しい。これを、

"The photo is an image."

と訳す者がいるとすれば、救いようがないバカ者としか呼びようがないが、そんなのがいるような気がする。翻訳者としての仕事を諦めることを勧告したい。

 またこれも近年、日本語にはカタカナの乱用が目立ち、みっともない。存在するはずの適切な日本語を探そうともせず、安易にカタカナを使う。英語に、フランス語に、イタリア語に……。日本語で文章を作ろうとする者としては甚だしい怠慢だと思う。また、流行りの音楽の歌詞についても同様で、カタカナや外国語が目立ったりする。日本語での作詞能力が欠如しているのではないだろうか。仕事で、カタカナ連発の文章を何度も訳したことがあるが、例えば、日本語の原文に「ラグジュリアス」とあれば、英語の訳文で「luxurious」とは絶対に書きたくない気持ちが沸き起こる。薄っぺらな非日本語の知識を持つ人に限ってカタカナを使いたがる傾向があるように思えて仕方がない。ところで、日本語以外の言語を外国語と呼ぶが、本当に「外国」語と表現していいのだろうかとも思う。複数の言語に十分な理解力を持つ人、複数言語で生活している人にとっては、どっちが、あるいはどれが外国語なのだろうか。日本人は日本語で生活して当たり前、「一国一言語」だという考えが根底にあるのだろう。

 最近はカタカナを使った略語も目に余る。「カラコン」「スマホ」「アイホ」「インフル」に「ボラ」。「ボラ」は魚のボラかと思ったらボランティアの略らしい。どれも新聞の見出しに使われていたりするが、日本の事情に少々疎くなっていることもあって、いずれも記事本文を読まないと意味がわからなかったのである。「インフル」ではなく「流行性感冒」と、あるいは字数を減らしたければ「流感」となぜ書かないのかと思わせられる。どうせカタカナにするなら「フル」とせよ。

 イギリス発音かアメリカ発音かという、情けなさとそこから湧き出てくる羞恥で、もう耳を塞いでしまいたくなるような古典的な話の他に、ら行の音がLかRかという、笑止千万の幼稚な話もまだ生き残っている。現代日本語のら行はLでもRでも、どちらでもない。だから日本語を母語にする者にとっては、LとRの区別が難しかったりするのである。「らりるれろ」と発音してみて、強いて言えば、ら行の音は「上歯裏打音」のLと「巻舌音」のRとの中間と言えるだろうか。

 しかし、江戸時代末期の安政六(一八五九)年に来日したらしい宣教師で医師でもあったヘプバーン(James Curtis Hepburn)は日本語のら行をすべてRとしてローマ字化した「へボン式」を考案した。当時の日本人には、「Hepburn」が「へボン」と聞こえたのだろう。ら行をRとして表記することになったのは、ヘップバーンがそう決めてしまったからに他ならない。ただ、彼にはRと聞こえたのかもしれない。また、そうだったとしても不思議ではない。なぜなら、彼は一般庶民が話す日本語だけではなく、歌舞伎、浄瑠璃、義太夫、文楽のセリフを聞いていたのではないかと思うからである。これらの伝統芸能では、ら行は現代の「らりるれろ」より、スペイン語やロシア語やイタリア語などに聞かれる巻舌音に近い、舌先をいったん喉の方へ後退させてから発する音、すなわち英語のRに近い音であることが、特に「り」の場合に多いことがわかるし、アメリカ人のヘプバーンもそんな日本語を聞いたのではないのかと想像する。この発音については、大夫が使う床本にどんな指示が書き込まれているのか、あるいはどんな稽古をするのかを知りたいと思う。

 ヘプバーンは明治六(一八七三)年にニューヨークのブロードウェイにあった「A.D.F. Randolph & Company」が発行し、横浜にあった「F.R. Wetmore &Co., Book Sellers and Stationers」が販売した労作に違いない『Japanese-English and English-Japanese Dictionary』の「Orthography(正字法)」において、

"r in ra, re, ro, ru, has the sound of the English r; but in ri it is pronounced more like d; but this is not invariable, as many natives give it the common r sound."

と注記している。り音を「d」と発音する場合があったというのはどういうことなのだろうか。また、は行をHではなく、現代日本語には存在しないFと表記することにしたのはどういうことか。ヘプバーンは、

"f has a close resemblance to the sound of the English f, but differs from it, in that the lower lip does not touch the upper teeth; the sound is made by blowing fu softly through the lips nearly closed, resembling the sound of wh in who; fu is an aspirate, and might, for the sake of uniformity, be written hu."

と説明している。正確な発音観察である。その他、この正字法で興味深いのは、

"g in the Yedo dialect, has the soft sound of ng, but Kiyoto, Nagasaki, and the Southern provinces it has the hard sound of g in go, gain," "se in Kiyoto, Nagasaki, and the Southern provinces, is pronounced she, and ze like je."

という記述で、「ng」は今でも放送局のアナウンサーなどが使う鼻濁音のことだろう。「se」を「she」と発音。これはわからない。そして「ze」が「je」ということは「ぜんぶ」を「じぇんぶ」と発音していたということか。そうだとすると、中国語の発音とずいぶん似ているではないか。今日の日本語でも、東京(Yedo)で発音される「she」は関西(Kiyoto)では「hi」となり、「敷く」を「ひく」、「質屋」を「ひちや」と発音することが確かにあり、反対に東京で「hi」を「she」と発音したりする。思い出すのは「プロ野球ニュース」で耳にした、東映フライヤーズの投手で、現役引退後は日拓ホーム・フライヤーズ、ヤクルト・スワローズ、そして日本ハム・ファイターズで監督を務めた土橋正幸の「ひ」が「し」になる発音である。

 開高健が自伝的小説『青い月曜日』『破れた繭』やエッセイ『私の青春前期』に登場させている「元スミトモ・マン」が本当なのか、「(アメリカ)滞在十五年、マイアミ大学卒業、元三井物産サンフランシスコ支店長」が本当なのかわからない人の「アイライラレラ」や「神戸の海岸通りにある店」で開高が聞いた「スカチンワラー」はもう軽蔑の対象だが、中学校や高校の英語教師の罪もかなり深い。単語の発音練習で、

「はい、ディフィカルト」

「でぃふぃかると!」

そしてまた、「はい、ディフィカルト」と繰り返す。何なの、その「はい」は?

 英語の発音については、例えば発音記号というものの存在を知らないかもしれないシンガポール人に尋ねるのがいいとして、外国語には日本語の発音体系は存在しない音があって、カタカナとは異なることを生徒に理解させてほしいが、そんなことをすると「どう違うんですか」と質問されても、音の差を実際には示せない自らの無能を晒すことになるし、どうやって理解させればいいのかもわからないだろう。

 日本国の文部科学省が平成二十九(二〇一七)年七月に出した小学校向けと中学校向けの学習指導要領(外国語編)の一部を読んでみた。中学校向けに、「小学校の外国語科では,『ゆっくりはっきりと』話されることが示されており,聞き取りやすく話されることが前提条件となるが,中学校では『はっきりと話されれば』としている。これは,明瞭な音声で話されることを示している。また,小学校の『ゆっくり』という条件がなくなり,音のつながりなどが聞き取れるようになるためにも,過度に遅くなく自然な速度に近い音声を聞き取ることを目指している」とあるが、外国語とは、ほとんどの場合は英語を意味しているのだろうが、小学校での「ゆっくりはっきりと」と「はっきりと話されれば」は、日本語に存在しない子音を聞き取ることは困難で、自らが発音できない教師としては取りも直さず日本語の発音体系から逸脱することなくカタカナ発音で話すことになってしまうのではないか。そうだとすると、初っ端から失敗である。小学校向けと中学校向けの両方に、英語発音について「現代の標準的な発音」という項目があった。そこでは、「英語は世界中で広く日常的なコミュニケーションの手段として使用され、その使われ方も様々であり、発音や用法などの多様性に富んだ言語である。その多様性に富んだ現代の英語の発音の中で、特定の地域やグループの人々の発音に偏ったり、口語的過ぎたりしない、いわゆる標準的な発音を指導するものとし、多様な人々とのコミュニケーションが可能となる発音を身に付けさせることを示している」と説明されている。小学校用には、それに続けて「その際、cat の母音やmaththの子音など日本語の発音にはない母音や子音があること」に「十分留意する必要がある」とある。

 まず、「いわゆる標準的な発音」とはどんな発音なのか?単に「標準的」だけでなく、そのうえ「いわゆる」とまで書かれている。「特定の地域やグループの人々の発音」の「特定の地域やグループ」って、どの地域こと?どのグループのこと?グループって何?「口語的」って何?具体例がまったく挙げられていないのに、これを読んだ教師がどう教えていいのかわかるのだろうか。まぁ、具体例があっても、指導できるのだろうか。

 小学校で「th」音についての説明を教師に求めていることに驚く。この発音を練習させろとは書いていないようだが、何年も英語に接している日本人でさえ、まったくお話にならない場合が極めて多いというのに、英語教師がこれを説明できるとは信じがたい。教師が自宅で、もしかしたら鏡の前で練習している姿が想像できる。また、掲載されている例文には、定冠詞と不定冠詞や「that」節の説明が必要なものがあって、これにも驚く。こっちは「aで、こっちは「the」になってますけど、どうしてですか、に教師は何と答えるだろうか。そして、「『that節』や関係代名詞を見つけたら、その後から先に読みましょう」などと決して、決して言わないように!

 また、これも小中同一の説明文だが、「英語を話すときには,一語一語を切り離して発音せず,複数の語を連続して発音することが多い。このように語と語を連結させることによって英語を滑らかにかつリズミカルに話すことができる」らしい。これには、中学校向けに、

・2語が連結する場合

There is an apple on the table.

Take it easy.

・2語が連結するとき,一部の音が脱落する場合

What time is it now?

I donʼt know.

・2語が連結するとき,二つの音が影響しあう場合

Would you tell me the way to the library?

Why donʼt you join us?

が具体例として挙げられている。斜字部分を連結させろということ。「あぁ、ここは連結させて……」なんて考えながら話している人がいるわけがない。「はい、ここはね、連結させましょう」と教えるのだろうか。また、連結させないといけないのか?意図をはっきりと伝えるために、あるいは例えば感情を伝えるために、わざと一言ずつ切り離して話そうとすることだってあるではないか。これって……、つまり「アイライラレラ」と同じこと?こういうことは一語ずつをしっかりと発音できるようになってから、自然に身につくものではないのだろうか。わざわざ指導することかね?

 さらに、「英語の語や句,文にはそれぞれ強く発音される部分とそうでない部分がある。強く発音される部分は大きく長めに,そうでない部分は弱くすばやく発音されることから,強勢がほぼ等間隔に置かれることになり,英語特有のリズムが生まれる。英語は日本語と違って強弱によってアクセントを付ける場合が多く,日本語とは異なるこのような英語のリズムを習得することが重要である」らしいのである。日本語だって「強く発音される部分は大きく長めに,そうでない部分は弱くすばやく発音され」たりすることがあるように思うけど。「英語特有のリズム」って何?音符にでもして示してほしい。「ネイティブ・スピーカー」という記述もある。どんな人のこと?シンガポール人はネイティブ・スピーカーか?スコットランド人はどうか?「ネイティブ・アメリカン」のことか?そして、ESLとかEFLとも呼ばれたりもするが、TESOL資格を持つ日本人はどういう立場として扱われるのだろうか。あんまりアホらしいんで、この辺りで読むのを止めた。

 文部科学省が英語教師について生徒への指導を期待している「現代の標準的な発音」とやらを音声で聞いてみたいし、教師の意識や能力も四十年以上前とは異なって向上していると信じたいが――、かなり絶望。

 しかし、こんな指導要領に沿って授業を行おうとする英語教師の能力なんて、あてにしてはいかん。日本語が介在しないホンモノを見せて聞かせるより他に、遠回りのようで、実はこれほどの近道はない。見て聞かせて、その内容を説明させる。語彙が増えて慣れてくれば、英語で説明させる。しばらく経てば、英語で得た内容を日本語で説明することの方が困難になってくるはず。

 ずいぶんと昔を思い出せば、アメリカのレーガン大統領が昭和六十一(一九八一)年三月に狙撃され、退院してきた後に連邦議会で行った演説を録音したカセットテープを京都丸善で買って何度も聞いたことがある。TIMEを読もうとしていた頃かと思う。「タモリの四カ国語麻雀」を聞いているようで、何にも理解できなかったことがあったなあ。

 さてさて、噺家の桂吉朝は平成十三(二〇〇一)年十月に東京三宅坂の国立劇場で演じた「米揚げ笊」のマクラで、東西の発音の違いに「ゴジラ(Gozilla)」を例に挙げている。この噺を収録したDVDの解説に「大阪弁イントネーションは、彼の言うとおりで間違いない」と書かれている。確かに「イントネーション(強調音の場所)」については間違いないが、吉朝さんは「zi」を「ジ」と発音しており、これはまったく誤りである。解説の執筆者も理解できていない。

 しかし、The Story of English』が示すように様々な英語があるのだから、「日本式英語」というものがあって、それが「一種の英語」として受け入れられる日が来るのかもしれない。ただし、このためには日本人の英語運用能力に対する劣等感と、それに付け込む悪質で無責任な商業利益の追求を撲滅させることが必要なのではないか。

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