二〇〇〇(平成十二)年九月。仕事を始めて数日も経つこともなく、と言うか本当に間もなく、奇怪で珍妙な英語に笑わされ、また驚かされた。会社は翻訳だけでなく印刷のための画像処理まで請け負っていて、シンガポール人の同僚でそんな画像処理を担当していたDが「Dis one nah…」と言って、何かについて質問してきた。関西弁の「これなぁ……」とまったく同じ響きで親しみすら感じ、積極的に真似を始めた。
しかし、一般にシングリッシュ(Singlish)の特徴とされる「nah」「lah」「ah」「yah」などが、文や句の末尾に追加されるのは許容するとしても、独創的かつ創造的に過ぎる文法破壊の激烈さ、またその美しさと洗練さの欠如と乱暴さに閉口するようになって、真似していたのは半年ほどだった。
・平気で「more better」と言う。
・副詞に分類される「so」と「too」も、どうやら「so」の程度を増加させたのが「too」であると理解されているようで、「too」で示唆される負の意味は無視され、「unbeliavably/incredibly/astonishingly, etc. beautiful」を「too beautiful」と言ったりする。
・また、可算と不可算の違いを知らないのか、「fewer」と言うべき場合にも「less」と言う。
・肯定と否定の区別なく、「not… either」や「neither」も「too」で済ます。
・付加疑問文は主語が何かに関わらず、すべて「is it?」で終わる。
・「on/off」が動詞として使われ、「on/off the air-con」などと言う。「Air-con」は日本製品が浸透したため「エアコン」が定着してしまった悲しい例。「on/off」を時制変化させた例を知らない。だってできないから。
・英語に独特かもしれない「th」音の違いなどを気にしている人に会ったことがない。この音は大きく三つに分けられる。そのうち二つは摩擦歯音と呼ぶらしいが、そんな名称はどうでもよろしい。つまり、「ð」「θ」は無視され、すべてが「d」あるいは「t」になる。
・「MonDAY」「TuesDAY」など、単語の頭に強勢があるはずの場合が後ろに置かれていたりして、音の流れとしても英語に聞こえない。ピアノで言えば、白鍵でも黒鍵でもない音を聞かされているようなのである。
いろんな国の人たちと通訳として接しなければならない立場からすると、こんな安っぽい話し方は許されないと思ったのも、真似するのを止めた理由である。だからシンガポールでは、「three」と「tree」は同じ発音。日本人の発音する「thank you」が「サンキュー」となるのと同様に、ここでは「tan you」となる。タングリンモール(Tanglin Mall)のデリカテッセンでローストチキンを買おうとした時、「chicken thigh」が通じず、店員が聞き直したうえ、「まったく下手な英語だねえ」とでも言いたげな表情を浮かべて「chicken taiのことか?」と、こちらの発音を訂正してくれた。元同僚Dが披露した通り、「this」は「dis」となる。それから個々の文字のことをアルファベットと呼ぶ人に出会ったこともある。
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