Monday, November 01, 2021

Reporting from South Vietnam―日本人記者たち:「ジャーナリズムの恥」と文豪が言う(5)

 三月にダルラク省のバンメトートへの攻撃とこの省都の陥落で始まり、ベトナム共和国の消滅で幕を閉じる北側の大攻勢を近藤も古森も記録し、戦況や政府内の情勢に関する情報源をところどころで明らかにしているのだが、アメリカ側から得た情報というものはほぼ見当たらない。パリ協定にしたがってアメリカ軍は撤退し、その後、アメリカ政府は議会によってインドシナへの軍事支援の提供を禁じられたわけだが、大使館を始めとしてアメリカ政府の出先機関の職員はまだ多数が残ったにもかかわらず、有力な情報源となっていたようには見受けられない。ただ、古森は、北側が軍事的に圧倒的に優位に立った四月上旬時点での交渉や停戦の可能性をについて意見を聞いた一人として「アメリカ大使館の北ベトナム専門家」を挙げている28。この専門家はスネップだったかもしれない。

 どういうわけか、南ベトナムに存在した超一流の情報源であった人物に言及した日本の報道関係者による記述に出くわしたことがない。この国で取材を行う立場の者なら、この人物との接触がなかったはずはないと強く思われるのだが、開高も近藤も古森も牧も、彼については一言も触れることはない。また彼に関する記述において日本人の名に出くわしたこともない。ベトナム戦争取材は彼を抜きにしては語れないほどの人物である。

 ファム・スアン・アン(Phạm Xuân Ẩn)。二年ほどのカリフォルニア州における留学から帰国した昭和三十一(一九五六)年から国営ベトナム・プレス、その後はロイター通信、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、クリスチャン・サイエンス・モニターの各紙、そしてそして四十一(六六)年からサイゴン陥落後までタイム誌の記者だった人である。カンボジアで人民解放戦線に捕らわれたアンソンの命を救ったのは彼であり、また秘密警察を組織して実権を握り、兄である大統領とともに三十八(六三)年のクーデターで殺害されることになるノ・ディン・ニュー(Ngô Đình Nhu)に直接報告する立場にあってアメリカのCIAとも関係が深く、そして留学に際しては査証の取得に尽力してくれた、言わば恩人であるとともに敵でもあったチャン・キム・トゥエン(Trần Kim Tuyến)を、後に写真でよく知られることになるサイゴン市内のビル屋上(22 Gia Long Street)から海上へと飛び立とうとするヘリコプターに乗せる手はずをぎりぎりまで奔走して整えたのはファム・スアン・アンである。

 八十年代になってから、彼が人民解放戦線(NLF)の工作員であったことが明らかになる。昭和十九(一九四四)年、十六歳で抗仏組織のベトミンに参加した後、まったく変わることなく解放戦線側に情報を送り続けていたのである。アンについては二〇〇〇年代になってから、彼の生涯を辿る著作が相次いで出版され、トゥエンの脱出の経緯についても詳述がある29, 30。取材される中で、アンは意図して偽情報を記者たちに渡したことはないと否定する。また彼は留学時を人生最高の日々だと述べて、アメリカを熱い好意でもって回顧する人でもあった。彼はそして、アメリカ人記者のアンソンの解放に手を尽くし、また恩人とは言え、間違いなく敵である立場にあったトゥエンを、北側によって統一されるベトナムで自らに降りかかるであろう危険におそらく十分気づきながら、陥落が迫るサイゴンから脱出させたのである。陥落後のサイゴンからニューヨークのタイム誌編集部に送られた最後の原稿は彼によるものだった。

28 Komori Yoshihisa(古森義久). 『ベトナム報道1300日 ある社会の終焉』, 1978

29 Berman, Larry. Perfect Spy: The Incredible Double Life of Pham Xuan An, Time Magazine Reporter & Vietnamese Communist Agent, 2007

30 Bass, Thomas A. The Spy Who Loved Us: The Vietnamese War and Pham Xuan An's Dangerous Game, 2009

 

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