さらに古森は近藤紘一との共著で、助手兼通訳として採用した「アシスタントを使っての情報集めはベトナム報道でとくに顕著だった」「私の見聞した範囲では日本の一般マスコミの特派員でベトナム語で取材できる人はただのひとりもいなかった」「ベトナム報道の特徴は、現地の助手に頼るところがものすごく大きかった。ぼくがいったころなんか、支局から一歩も出ない人だっていたんだからね。言葉がむずかしいということもあったけれども、とにかく助手の持ってくる情報に完全に頼ってしまうのが実情だった44」と書き記している。言語能力の至らなさで言えば、日本の公共放送のワシントン支局長で後に民放に移り、キッシンジャーなどにインタビューしていたHの英語はひどかった。まだ現役なのかな。日本人なら、日本語訛りの英語は問題なく理解できるはずだが、何を言っているのかわからないほどひどかった。キッシンジャーは理解できたのだろう、多分。それから報道者ではないが、国際的に極めて著名なコンサルティング会社のトップだったOの英語も聞いていて恥ずかしくなるほど残念極まりないものだった。よく仕事が務まるものだと思わされた。などと言うと、「オレの仕事は言語運用の良し悪しで測れるものではない」という声が聞こえてきそうだが、それは大きな言い訳であって、負け惜しみである。特に報道者には通用しないのだ。「言い古された外国語習得の問題」はいつまで言い古されなければならないのだろうか。
こんなことでは、日本人記者たちの報道風景の中にファム・スアン・アンの姿がどこにも見えないのも当然である。彼が北ベトナム側、解放戦線側の工作員だったということが、どれだけ最終結末に影響したのかは誰にもわからないだろう。しかし、彼との情報や意見の交換から得た知識を記事に反映できるほどの関係を築くことができなかったことは「マイナー・リーグ」である証左であるとも言える。アンが仮に偽の情報を広めていたとして、日本人記者たちはその嘘すら記事に反映できなかったのである。そして、彼自身が述べているように、海外記者に偽情報を流したことは、数々の証言からなかったと言っていい。
44 Komori Yoshihisa(古森義久), Kondo Koichi(近藤紘一).『国際報道の現場から』, 1984
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