Sunday, August 27, 2006
Noisy Hungry Ghost Month
旧暦7月のせいだと思うが、チャルメラがうるさい!!二次喫煙を理由に国内全面禁煙を主張する人もいるぐらいだ。新暦で生活している人にとっては雑音・騒音でしかないチャルメラの全面禁止を訴えるか。
Thank You. We Are Still Brainwashed
敗戦感情はそのうち過ぎ去ると信じ続けた何割かの日本人にとって、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の影響を受けた教育や言語が今日まで氾濫していることは、「こんなはずじゃなかった」との耐え難い思いが消えないだろう。未だに、戦前戦中の治安維持法(大正4年制定)を代表とする言論弾圧体制からGHQが「解放してくれた」との思想が植え付けられたままだ。冷戦下で賢明に日米同盟路線を選択したとは言え、講和後でさえGHQによる検閲と思想統制に何の批判も加えなかった世代の残した宿題は大きい。特に教育する立場にある人たちの責任は重い。「押し付け」を理由する改憲に反論する人たちは、「当時の日本人は圧倒的に日本国憲法に賛成したではないか」と反論する。当時、米国がどのような計画をもっていたのか知ろうとする努力もしないのだろう。
We Are Your Occupation Forces. Let Us Brainwash You
米軍民間検閲支隊(CCD)が削除または掲載発行禁止の対象になると判断した項目。(「閉された言語空間」239 ~241 ページ)
(1)SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判
(2)極東軍事裁判批判
(3)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)合衆国に対する批判
(6)ロシアに対する批判
(7)英国に対する批判
(8)朝鮮人に対する批判
(9)中国に対する批判
(10)他の連合国に対する批判
(11)連合国一般に対する批判
(12)満州における日本人取扱についての批判
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝
(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝
(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
(24)闇市の状況
(25)占領軍軍隊に対する批判
(26)飢餓の誇張
(27)暴力と不穏の行動の煽動
(28)虚偽の報道
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表
……『太平洋戦争史』は、……歴史記述をよそおってはいるが、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、……明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにする替えようとする底意が秘められている。
これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であった、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起こった災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。
そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。(270 ~271 ページ)
占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生まれの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。(272 ~273 ページ)
CCD:米軍民間検閲支隊、CI&E:米軍民間情報教育局
(1)SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判
(2)極東軍事裁判批判
(3)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
(4)検閲制度への言及
(5)合衆国に対する批判
(6)ロシアに対する批判
(7)英国に対する批判
(8)朝鮮人に対する批判
(9)中国に対する批判
(10)他の連合国に対する批判
(11)連合国一般に対する批判
(12)満州における日本人取扱についての批判
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
(14)第三次世界大戦への言及
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
(16)戦争擁護の宣伝
(17)神国日本の宣伝
(18)軍国主義の宣伝
(19)ナショナリズムの宣伝
(20)大東亜共栄圏の宣伝
(21)その他の宣伝
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
(24)闇市の状況
(25)占領軍軍隊に対する批判
(26)飢餓の誇張
(27)暴力と不穏の行動の煽動
(28)虚偽の報道
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表
……『太平洋戦争史』は、……歴史記述をよそおってはいるが、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、……明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにする替えようとする底意が秘められている。
これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であった、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起こった災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。
そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。(270 ~271 ページ)
占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生まれの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。(272 ~273 ページ)
CCD:米軍民間検閲支隊、CI&E:米軍民間情報教育局
Saturday, August 26, 2006
Question to the Old Ford Factory
Last Thursday, I visited the Old Ford Factory where the British Commander in Singapore, Lieutenant General Percival, signed the surrender document in 1942.
The first thing that caught my attention after I entered the building was a Japanese flag, obviously given to a Japanese conscript with so many words of encouragement on it. I noticed from those words that the young man was from Fukuoka, a western part of Japan.
Another thing I could not overlook at the building was a big celebratory banner for a primary school teacher who was to be sent to the front. With a few clicks, I found out, helped by the name of the school that was clearly printed on the banner, he was teaching at a school in Yamaguchi Prefecture. The school is still there.
I was very uncomfortable to find those memorials used as props of the war exhibition as if to vilify every Japanese soldier. Those important and personal articles certainly belong to their respective families or friends in Japan. I would like to have an explanation from the management of this museum what sort of effort it has made to return them. The families of the soldiers would regret if they know those are used in such a way in a foreign land, apparently without their permission.
The first thing that caught my attention after I entered the building was a Japanese flag, obviously given to a Japanese conscript with so many words of encouragement on it. I noticed from those words that the young man was from Fukuoka, a western part of Japan.
Another thing I could not overlook at the building was a big celebratory banner for a primary school teacher who was to be sent to the front. With a few clicks, I found out, helped by the name of the school that was clearly printed on the banner, he was teaching at a school in Yamaguchi Prefecture. The school is still there.
I was very uncomfortable to find those memorials used as props of the war exhibition as if to vilify every Japanese soldier. Those important and personal articles certainly belong to their respective families or friends in Japan. I would like to have an explanation from the management of this museum what sort of effort it has made to return them. The families of the soldiers would regret if they know those are used in such a way in a foreign land, apparently without their permission.
Thursday, August 24, 2006
YouTube Addiction
けさ3時までYouTube で、猪木の引退シリーズ第1戦となったムタ戦と25 年前の全日本女子プロレスを見ていた。WWWA世界王座決定準決勝(ジャッキー佐藤対横田利美)。横田利美って、のちの「ジャガー横田」だな。佐藤は1999 年に死去。横田は現在出産間近。
Wednesday, August 23, 2006
Truth about US Censorship Policy
「閉された言語空間:占領軍の検閲と戦後日本」(江藤淳/文庫版)から。
……日本において米占領軍当局が実施すべき民間検閲は、必然的にポツダム宣言第十項の保障する言論・表現の自由の原則と、真正面から対立し、矛盾撞着せざるを得ない。しかもなお米国政府は、JCS八七三/三で明示されている対日占領基本政策の一つとして、マッカーサーに民間検閲の励行を厳命している。この矛盾を解決しようとすれば、方法はただひとつ、統合参謀本部の命令通りに民間検閲を実施し、しかも検閲の存在自体を秘匿しつづける以外にはないはずである。
占領期間中を通じて、民間検閲支隊(CCD)をはじめとする占領軍検閲機関の存在が秘匿されつづけ、検閲への言及が厳禁された根本原因は、このポツダム宣言第十項とJCS八七三/三とのあいだに存在する、矛盾の構造そのもののなかに潜んでいたのである。(152 ページ)
「反自民党で連携」と言う最近の小沢一郎さん。あっと言う間になくなった、かつての「新進党」を思い出すんだけど。この人、何とかまとめるけど、壊す方が得意らしいな。
今日の午後、紀伊國屋の日本雑誌置き場に、インド系の男女2人がいた。男性は日本語がいくらか読めるようで、「これは“日経ビジネス”で、これは……」と女性に説明していた。「週刊ダイヤモンド」で(“右から左”にタイトルを指でなぞりながら)「え~っと」というふうだったので“Diamond” だと読んであげたら、「日本語版ニューズウィーク」など、日本語のニュース誌を探しているという。日本が夏休みだったせいだと思うが、陳列されている雑誌の数が少ないようだった。雑誌の代わりに新聞を手に取っていたので、「☆日報」はやめるように忠告した。「日本国内で部数は最大」と説明すると、「読売新聞」を買っていったようだった。日本語のニュース誌がほしいなんて、知り合いになりたい人たちだった。一目惚れ。
……日本において米占領軍当局が実施すべき民間検閲は、必然的にポツダム宣言第十項の保障する言論・表現の自由の原則と、真正面から対立し、矛盾撞着せざるを得ない。しかもなお米国政府は、JCS八七三/三で明示されている対日占領基本政策の一つとして、マッカーサーに民間検閲の励行を厳命している。この矛盾を解決しようとすれば、方法はただひとつ、統合参謀本部の命令通りに民間検閲を実施し、しかも検閲の存在自体を秘匿しつづける以外にはないはずである。
占領期間中を通じて、民間検閲支隊(CCD)をはじめとする占領軍検閲機関の存在が秘匿されつづけ、検閲への言及が厳禁された根本原因は、このポツダム宣言第十項とJCS八七三/三とのあいだに存在する、矛盾の構造そのもののなかに潜んでいたのである。(152 ページ)
「反自民党で連携」と言う最近の小沢一郎さん。あっと言う間になくなった、かつての「新進党」を思い出すんだけど。この人、何とかまとめるけど、壊す方が得意らしいな。
今日の午後、紀伊國屋の日本雑誌置き場に、インド系の男女2人がいた。男性は日本語がいくらか読めるようで、「これは“日経ビジネス”で、これは……」と女性に説明していた。「週刊ダイヤモンド」で(“右から左”にタイトルを指でなぞりながら)「え~っと」というふうだったので“Diamond” だと読んであげたら、「日本語版ニューズウィーク」など、日本語のニュース誌を探しているという。日本が夏休みだったせいだと思うが、陳列されている雑誌の数が少ないようだった。雑誌の代わりに新聞を手に取っていたので、「☆日報」はやめるように忠告した。「日本国内で部数は最大」と説明すると、「読売新聞」を買っていったようだった。日本語のニュース誌がほしいなんて、知り合いになりたい人たちだった。一目惚れ。
Tuesday, August 22, 2006
Monday, August 21, 2006
What Day Is It? What Time Is It?
眠るべきときに眠れない……。眠らなくてもいいときに眠ってしまう……。どうにかならんか。
「眠ってはいかん」と思いながら眠っているので、睡眠が浅い。声が出せない場面など、奇妙な夢ばかり見る。寝た気がせず、かえって疲れる。朝昼夜なのか、昼朝夜なのか、夜昼朝なのかわからない。だから、きっちり飲むべき薬が飲めない……。
“Zappa” のことは、いずれまとめて書きたい。
JB で書いていた投稿、けさの“TODAY” に載る。
「眠ってはいかん」と思いながら眠っているので、睡眠が浅い。声が出せない場面など、奇妙な夢ばかり見る。寝た気がせず、かえって疲れる。朝昼夜なのか、昼朝夜なのか、夜昼朝なのかわからない。だから、きっちり飲むべき薬が飲めない……。
“Zappa” のことは、いずれまとめて書きたい。
JB で書いていた投稿、けさの“TODAY” に載る。
Sunday, August 20, 2006
Letter to TODAY newspaper and Tough Friday
War stories tend to be personal and emotional understandably as shown in “Sorry’s not enough” of August 17 and two more letters two days later, and also can be one-sided unfortunately. As a letter by Mr (Ms??) Sharmini Rajgopal, published on August 18, rightly pointed out, all wars are cruel and senseless. I, too, may be emotional here, but let met try to be fair.
Unlike Germany, Japan has not sufficiently atoned for its actions during the war time. It is a point that has been oft-used. However, unlike the Third Reich, no Japanese Government had a national policy to exterminate a whole people. Unlike the Third Reich, there was no dictator like Hitler.
After more than 60 years since the end of the war, I believe that many in Japan are feeling, “we have said ‘sorry’ enough times’.” At many occasions, the Japanese Government and the Emperor have acknowledged that Japan’s actions caused great suffering to many people in Asia and very respectfully apologized. There are people in Japan who suspect that never-ending protests by Korea and China are made for exploiting Japan’s guilt feeling for their own domestic purposes, which I am afraid, can be very counterproductive. (The People’s Republic of China is not a party of the 1951 San Francisco Treaty that gave Japan independence, thus bringing it to the world community again.)
Prime Minister Koizumi’s recent visit to Yasukuni Shrine once again focused people’s attention on the “A-class” war criminals executed as a result of the Tokyo Tribunal and honoured at the shrine. (A Singapore TV station calls the shrine “Yasukuni war shrine” when “yasukuni” means “ruling the country peacefully”.) I must admit that I have never read a history textbook used at Singapore schools. Given the fact that not many Japanese have much knowledge about the tribunal now, however, it is not surprising at all if few Singaporeans know what it was and how those “war criminals” were convicted by retroactive statutes, with evidences submitted by defendants’ layers rejected. Under Japanese law, there is no person judged a war criminal.
It is widely accepted among historians, not only in Japan, that the Tokyo Tribunal was a pure political theater, at the start of the Cold War, intended to punish a defeated country. And during the occupation period by the General Headquarters (GHQ) of General Douglas MacArthur, it is little known the media in Japan were strictly controlled and censored. No criticism of GHQ’s policy was allowed, stifling free political and social discussion among the Japanese. The current “pacifist” constitution was adapted under such a condition. This is the foundation of the opinion held by those who would like to create a new constitution that reflects the free will of the people. I think they have a point here.
It is rather easy to perpetually criticise a country that was defeated in a war especially when many think that the country committed unspeakable atrocities, violating international law. As for violation of international law, people should ask if anyone has been punished for the nuclear bombings that killed more than 200,000 innocent civilians. No one has. Is it because the bombs were dropped by the ultimate victor? Or how about the Soviet Union that unilaterally broke the nonaggression pact with Japan and declared war on it in the last days of the war?
If anybody remembers, Japan’s reluctance since the second world war to deploy its “Self Defense Forces” overseas and its agony over how it could contribute to world peace were clearly demonstrated during the first Gulf War. After the war, the Kuwait Government published a one-page ad in major newspapers and magazines, thanking for the coalition forces that pushed back the Iraqi forces from its territory. Japan’s name was not found in the ad even though it was the biggest financier of the coalition’s operations. It certainly saddened me and shows how “arms shy” Japan has been since World War II.
木曜日の夜からずっと起きていて、金曜日の朝9時ごろ、MOM に行くため外出。乗るバスがわからず、運転手に確認してから乗車したが、別のバスに乗れと言われ、次の停留所で降りる。MOM の最寄停留所がわからず、手前で降りてしまう。バスをあきらめてMRT に乗る。MOM で1時間ほど待つ。順番が来ると、「移民局に行け」と冷たい言葉。
移民局で、滞在延長が2階で扱われていることを確認。エスカレーターで2階に上がったにもかかわらず、どういうわけかそこから2階に上がるエスカレーターを探す。脳が機能していない。「保証人」が必要なことを知る。そう言えば、以前にもそんなことがあった。会社に電話してIRAS に直接行って未払いの所得税を支払えば、出国できることをきく。最初からIRAS に行けばよかった。Lavender からMRT に乗ると、“Next stop, Kallang” と車内アナウンス。逆方向に乗ってしまった。引き返す。
CH からタクシーに乗って、先にクリニックに薬をもらいに行く。そのあとIRAS で未払い額をきいて、となりの郵便局で支払う。預金残高が一気に減って愕然とする。
いったん帰宅しようかとも考えたが、幸いパスポートをもっていたし、JB では特に用もないので、そのままKranji に行ってバスで越境した。シンガポールに戻ったのは午後9時ごろだったか。まっすぐ帰ればいいのにCC に寄る。最後はNS で食事。帰ったのは朝5時すぎだった。これで終わらず、左レンズを洗面台の前で落としてしまい、見つけるのに1時間ほどかかった。まったく疲れた1日だった。土曜日は出掛けず、ずっと眠っていた。
Unlike Germany, Japan has not sufficiently atoned for its actions during the war time. It is a point that has been oft-used. However, unlike the Third Reich, no Japanese Government had a national policy to exterminate a whole people. Unlike the Third Reich, there was no dictator like Hitler.
After more than 60 years since the end of the war, I believe that many in Japan are feeling, “we have said ‘sorry’ enough times’.” At many occasions, the Japanese Government and the Emperor have acknowledged that Japan’s actions caused great suffering to many people in Asia and very respectfully apologized. There are people in Japan who suspect that never-ending protests by Korea and China are made for exploiting Japan’s guilt feeling for their own domestic purposes, which I am afraid, can be very counterproductive. (The People’s Republic of China is not a party of the 1951 San Francisco Treaty that gave Japan independence, thus bringing it to the world community again.)
Prime Minister Koizumi’s recent visit to Yasukuni Shrine once again focused people’s attention on the “A-class” war criminals executed as a result of the Tokyo Tribunal and honoured at the shrine. (A Singapore TV station calls the shrine “Yasukuni war shrine” when “yasukuni” means “ruling the country peacefully”.) I must admit that I have never read a history textbook used at Singapore schools. Given the fact that not many Japanese have much knowledge about the tribunal now, however, it is not surprising at all if few Singaporeans know what it was and how those “war criminals” were convicted by retroactive statutes, with evidences submitted by defendants’ layers rejected. Under Japanese law, there is no person judged a war criminal.
It is widely accepted among historians, not only in Japan, that the Tokyo Tribunal was a pure political theater, at the start of the Cold War, intended to punish a defeated country. And during the occupation period by the General Headquarters (GHQ) of General Douglas MacArthur, it is little known the media in Japan were strictly controlled and censored. No criticism of GHQ’s policy was allowed, stifling free political and social discussion among the Japanese. The current “pacifist” constitution was adapted under such a condition. This is the foundation of the opinion held by those who would like to create a new constitution that reflects the free will of the people. I think they have a point here.
It is rather easy to perpetually criticise a country that was defeated in a war especially when many think that the country committed unspeakable atrocities, violating international law. As for violation of international law, people should ask if anyone has been punished for the nuclear bombings that killed more than 200,000 innocent civilians. No one has. Is it because the bombs were dropped by the ultimate victor? Or how about the Soviet Union that unilaterally broke the nonaggression pact with Japan and declared war on it in the last days of the war?
If anybody remembers, Japan’s reluctance since the second world war to deploy its “Self Defense Forces” overseas and its agony over how it could contribute to world peace were clearly demonstrated during the first Gulf War. After the war, the Kuwait Government published a one-page ad in major newspapers and magazines, thanking for the coalition forces that pushed back the Iraqi forces from its territory. Japan’s name was not found in the ad even though it was the biggest financier of the coalition’s operations. It certainly saddened me and shows how “arms shy” Japan has been since World War II.
木曜日の夜からずっと起きていて、金曜日の朝9時ごろ、MOM に行くため外出。乗るバスがわからず、運転手に確認してから乗車したが、別のバスに乗れと言われ、次の停留所で降りる。MOM の最寄停留所がわからず、手前で降りてしまう。バスをあきらめてMRT に乗る。MOM で1時間ほど待つ。順番が来ると、「移民局に行け」と冷たい言葉。
移民局で、滞在延長が2階で扱われていることを確認。エスカレーターで2階に上がったにもかかわらず、どういうわけかそこから2階に上がるエスカレーターを探す。脳が機能していない。「保証人」が必要なことを知る。そう言えば、以前にもそんなことがあった。会社に電話してIRAS に直接行って未払いの所得税を支払えば、出国できることをきく。最初からIRAS に行けばよかった。Lavender からMRT に乗ると、“Next stop, Kallang” と車内アナウンス。逆方向に乗ってしまった。引き返す。
CH からタクシーに乗って、先にクリニックに薬をもらいに行く。そのあとIRAS で未払い額をきいて、となりの郵便局で支払う。預金残高が一気に減って愕然とする。
いったん帰宅しようかとも考えたが、幸いパスポートをもっていたし、JB では特に用もないので、そのままKranji に行ってバスで越境した。シンガポールに戻ったのは午後9時ごろだったか。まっすぐ帰ればいいのにCC に寄る。最後はNS で食事。帰ったのは朝5時すぎだった。これで終わらず、左レンズを洗面台の前で落としてしまい、見つけるのに1時間ほどかかった。まったく疲れた1日だった。土曜日は出掛けず、ずっと眠っていた。
Wednesday, August 16, 2006
A Real Scum
狸オヤジのことは以前の日記にも書いたが、ファイルが消滅してしまったので、おさらいする。
シンガポールに来るまでは、師匠のように思っていたところがあった。シンガポールでの仕事に誘われたときも、「信用があるからこそ」だと考えた。ARN の仕事を横取りすることが狸の目的だったが、ボスは数年たった今もそのことに気づいていないだろう。また、日本人翻訳者の欠員が発生したのは、そりの合わない自分の前任者を狸が事実上追い出したからだということはあとから知ることになる。オヤジは自分が同僚のY から借りていた東部WL のひと部屋を自分に渡して引っ越すつもりだった。この国での初日、その部屋に入った途端、スーツケースを開ける気にもならなかった。あまりに乱雑で、狸の臭気が漂っていたから。
1週間以内に新しいアパートを無事見つけて転居した。2人で住むことに抵抗はなかった。オーナーとの契約は、自分がビザを取得できておらず、また彼が年長だったこともあり、まかせた。
十分な広さのアパートで、オヤジは多少落ち着く気になったのか電気炊飯器を買ってきた。ところが、その使い方がわからないという。「あんた、産業翻訳者やろ。炊飯器の使い方がわからないとはまったく情けない」と思ったが黙っていた。自分はかいがいしく週末には床掃除をしていたが、ご本人は気にも止めないようで、食べこぼしを床に落としても平気。しばらくして、「シンガポールの(洗濯)せっけんは全然あかんわ」と言ってた意味がわかった。彼が使っていたのは、漂白剤だったのだ。「あんた、翻訳者やろ。“Bleach” という言葉を読めんのか」と思ったが黙っていた。洗濯物も洗濯機から出してそのまま干すので、シャツかタオルか雑巾かわからない。床掃除はバカバカしくてやめた。
数カ月して、オーナー(の娘)が自分に直接連絡をとるようになった。例えば、郵便物。ある日、届いているはずの郵便物を回収に来たオーナーがボックスが空っぽなので、「どういうことか」と自分に電話してきた。オーナーは自分宛の郵便物を週に一度、1階のメールボックスから回収に来るので、部屋(7階)には持って上がらないようにとの取り決めだったようだ。狸はめったに郵便物のチェックなどしなかったが、たまにすると誰宛であろうと「すべて」を持って上がってしまう。
元日を日本で過ごして帰ってきたとき。「事故に遭いかけたんや」と言う。トラックにでもはねられかけたのかと思えば、何と台所のキャビネットの一部が燃えてへこんでいる。キャビネットと似た色のペンキを塗ったらしいが、へこみはどうにもならない。すぐにオーナーに連絡して「ごめんなさい」と言えばまだしも、失敗を何とか隠そうとする子供のような態度に言葉を失った。バレて、アパートから追い出されることになり、この頃から、自分はこの狸と公私を問わず話をすることを避けるようになった。
ちょうどその頃だったか、英国の大手通信社からの仕事があった。訳文を見た同社からの返事は、“unreadable” だった。狸の書く和文にはちょっと特徴があって、どんな文章でも産業調というか、マニュアル調というか、お世辞にも美しい日本語ではない。安っぽいプライドには不足しないオヤジにとって、“unreadable” とのコメントは耐えがたかったようだ。大げさにも客先(東京とシンガポール)との三者電話会議が開かれた。殊勝な態度でいればいいものを、よほど悔しかったのかオヤジは涙を流しておった。狸の涙。この一件で、オヤジは日本に帰ることを決めた。自ら呼び寄せた自分には何の説明もなく。
同時に米投資銀行からの大量の仕事があり、狸は自分が大阪で運営している翻訳教室の生徒を十数人シンガポールに招いた。2001年9月のことだっただろうか。ボスは喜んだ。「優秀な」翻訳者が日本から多数来てくれたのだから。ふたを開けてみれば、ほとんど使い物にならない「生徒さんたち」だった。自分は、割り当てられた翻訳のほか、生徒さんたちの添削、校正もやるはめになった。狸オヤジはと言えば、身内が大勢でシンガポールに来たことに有頂天で、まったく見苦しい姿だった。そんなことを理解できない、ボスも大口の契約だったこともあってか、うれしそうで、まったく情けなく、腹立たしかった。この投資銀行の仕事を最後に、あらたな人質U を置いて、狸は紀州へと帰っていった。U には自分がこちらに来るときに長野県の顧客を引き継いでもらっていた。この顧客を今度はU が狸に渡したと知ったが、狸からは何のあいさつもなかった。しかし、これで終わりではなかった。
以降も社内では対応できない量の仕事があると、大阪の狸事務所が外注(害虫)先となった。ある日本の大手企業からのアジア地域市場調査の翻訳は自分もかかわったが、狸オヤジはまたもや生徒にやらせたようで、“Delhi” を「デルヒ」と訳す(!)など、送られてきた内容があまりにひどく、“If he works only as a middleman, pay him accordingly” と会社には抗議した。この頃、自分はうつの症状がはっきり現れるようになり、出社できないこともあった。この市場調査の仕事は自宅でやることが多かったが、ボスはそんな努力は知らない。
ARN に在籍していなかった02年10月から翌年3月までの間にもおもしろいことがあった。日本の巨大掲示板サイトに狸を話題にしたスレッドがあったのだ。ご自慢の英文法論を批判され、またもや安っぽいプライドを木っ端微塵にされていた。自分は「このオヤジは、“ありがとう”も“ごめんなさい”も言えない人だから、相手にしない方がいい」と投稿したことを覚えている。
「こらっ狸オヤジ、人の信頼を自分の利益に利用するんじゃない。ここにキミのことを許さない人間がいることを自覚して生きろ」
シンガポールに来るまでは、師匠のように思っていたところがあった。シンガポールでの仕事に誘われたときも、「信用があるからこそ」だと考えた。ARN の仕事を横取りすることが狸の目的だったが、ボスは数年たった今もそのことに気づいていないだろう。また、日本人翻訳者の欠員が発生したのは、そりの合わない自分の前任者を狸が事実上追い出したからだということはあとから知ることになる。オヤジは自分が同僚のY から借りていた東部WL のひと部屋を自分に渡して引っ越すつもりだった。この国での初日、その部屋に入った途端、スーツケースを開ける気にもならなかった。あまりに乱雑で、狸の臭気が漂っていたから。
1週間以内に新しいアパートを無事見つけて転居した。2人で住むことに抵抗はなかった。オーナーとの契約は、自分がビザを取得できておらず、また彼が年長だったこともあり、まかせた。
十分な広さのアパートで、オヤジは多少落ち着く気になったのか電気炊飯器を買ってきた。ところが、その使い方がわからないという。「あんた、産業翻訳者やろ。炊飯器の使い方がわからないとはまったく情けない」と思ったが黙っていた。自分はかいがいしく週末には床掃除をしていたが、ご本人は気にも止めないようで、食べこぼしを床に落としても平気。しばらくして、「シンガポールの(洗濯)せっけんは全然あかんわ」と言ってた意味がわかった。彼が使っていたのは、漂白剤だったのだ。「あんた、翻訳者やろ。“Bleach” という言葉を読めんのか」と思ったが黙っていた。洗濯物も洗濯機から出してそのまま干すので、シャツかタオルか雑巾かわからない。床掃除はバカバカしくてやめた。
数カ月して、オーナー(の娘)が自分に直接連絡をとるようになった。例えば、郵便物。ある日、届いているはずの郵便物を回収に来たオーナーがボックスが空っぽなので、「どういうことか」と自分に電話してきた。オーナーは自分宛の郵便物を週に一度、1階のメールボックスから回収に来るので、部屋(7階)には持って上がらないようにとの取り決めだったようだ。狸はめったに郵便物のチェックなどしなかったが、たまにすると誰宛であろうと「すべて」を持って上がってしまう。
元日を日本で過ごして帰ってきたとき。「事故に遭いかけたんや」と言う。トラックにでもはねられかけたのかと思えば、何と台所のキャビネットの一部が燃えてへこんでいる。キャビネットと似た色のペンキを塗ったらしいが、へこみはどうにもならない。すぐにオーナーに連絡して「ごめんなさい」と言えばまだしも、失敗を何とか隠そうとする子供のような態度に言葉を失った。バレて、アパートから追い出されることになり、この頃から、自分はこの狸と公私を問わず話をすることを避けるようになった。
ちょうどその頃だったか、英国の大手通信社からの仕事があった。訳文を見た同社からの返事は、“unreadable” だった。狸の書く和文にはちょっと特徴があって、どんな文章でも産業調というか、マニュアル調というか、お世辞にも美しい日本語ではない。安っぽいプライドには不足しないオヤジにとって、“unreadable” とのコメントは耐えがたかったようだ。大げさにも客先(東京とシンガポール)との三者電話会議が開かれた。殊勝な態度でいればいいものを、よほど悔しかったのかオヤジは涙を流しておった。狸の涙。この一件で、オヤジは日本に帰ることを決めた。自ら呼び寄せた自分には何の説明もなく。
同時に米投資銀行からの大量の仕事があり、狸は自分が大阪で運営している翻訳教室の生徒を十数人シンガポールに招いた。2001年9月のことだっただろうか。ボスは喜んだ。「優秀な」翻訳者が日本から多数来てくれたのだから。ふたを開けてみれば、ほとんど使い物にならない「生徒さんたち」だった。自分は、割り当てられた翻訳のほか、生徒さんたちの添削、校正もやるはめになった。狸オヤジはと言えば、身内が大勢でシンガポールに来たことに有頂天で、まったく見苦しい姿だった。そんなことを理解できない、ボスも大口の契約だったこともあってか、うれしそうで、まったく情けなく、腹立たしかった。この投資銀行の仕事を最後に、あらたな人質U を置いて、狸は紀州へと帰っていった。U には自分がこちらに来るときに長野県の顧客を引き継いでもらっていた。この顧客を今度はU が狸に渡したと知ったが、狸からは何のあいさつもなかった。しかし、これで終わりではなかった。
以降も社内では対応できない量の仕事があると、大阪の狸事務所が外注(害虫)先となった。ある日本の大手企業からのアジア地域市場調査の翻訳は自分もかかわったが、狸オヤジはまたもや生徒にやらせたようで、“Delhi” を「デルヒ」と訳す(!)など、送られてきた内容があまりにひどく、“If he works only as a middleman, pay him accordingly” と会社には抗議した。この頃、自分はうつの症状がはっきり現れるようになり、出社できないこともあった。この市場調査の仕事は自宅でやることが多かったが、ボスはそんな努力は知らない。
ARN に在籍していなかった02年10月から翌年3月までの間にもおもしろいことがあった。日本の巨大掲示板サイトに狸を話題にしたスレッドがあったのだ。ご自慢の英文法論を批判され、またもや安っぽいプライドを木っ端微塵にされていた。自分は「このオヤジは、“ありがとう”も“ごめんなさい”も言えない人だから、相手にしない方がいい」と投稿したことを覚えている。
「こらっ狸オヤジ、人の信頼を自分の利益に利用するんじゃない。ここにキミのことを許さない人間がいることを自覚して生きろ」
Tuesday, August 15, 2006
Alleged Info Theft and a Man with No Pride
ずっと疑惑を抱いていたこと。AX を始めたとき、ワカ社長は「うちには日系企業の最新情報がある」と豪語していたが、N から「いただいた」ものではないかと思う。
昨夜、眠れずに朝になった。京都の印刷屋のことを思い出していた。1994年だったと思うが、先ごろ倒産した某英会話学校を辞したとき、のちに自分をシンガポールへ呼び寄せることになるオヤジが、「翻訳もやってる印刷屋」を紹介した。何らかの取引があったのだろう。ある意味、自分は人質だったのか。面接に行った日は雨で、またわかりにくい場所に会社があって約束の時間に遅れていった。
最初から臆病の裏返しのような空威張りの目立つ男だと感じたが、その通りだった。訪問する人に会社の場所を伝えるときには「自社ビルです」との一言を忘れずに付け加えていた。まもなく、「ネズミ男」と呼ぶようになった。
どこかの貿易商社にいたが、身の程知らずで司法試験に合格して弁護士になる気になったらしい。社会正義とは無縁のような男だが、司法試験という「むずかしい」試験に合格することで何かを誇示したかったのだろう。長年、浪人したが結局合格せず。
勤務時間が終わると、さっさとタイムカードを押して退社する社員の態度が気に入らないらしく、「残業費は全額支払わない」と宣言しておった。
ある日の朝、出勤の準備をしていると、視野が左右から狭くなっていって、真っ暗になってしまった。「見えない」と言ったまま、床に倒れた。今ではストレスのSOS と認識している「あの」めまいの最初だった。
給与を決めるとき、ネズミ男は「最終的にはミドリ(嫁はん)と相談して決める」と言ったにもかかわらず、次の給料日までに何の知らせもなかった。「いつ金額が決まったのか」とたずねると、「ミドリと相談」の話などなかったように主張する。実嫁はんにしっかり経営を握られているという事実がよほど悔しいのか、一歩も譲らない。自分は金額を問題にしていたのではなく、いつ誰が金額を決めたのかを正したかったのだ。
すでに不信感が爆発しそうだったので、その日は半日ほど会社にいただけで、さっさと帰った。と言っても、オヤジの所に寄って事情を説明した。あぁぁ、まだあの狸オヤジのことを信用していたんだ。この信用はシンガポールに来てからもしばらく続いた。人を見る目のなさに、我ながらあきれかえる。
会社の近くにたばこ屋があって、そこのおばちゃんと毎日のように話すようになった。仕事や会社の話をした覚えはないが、ネズミ男は、自分がおばちゃんと話している光景を目撃したらしい。退社してから、確かあいさつに行ったとき、おばちゃんが教えてくれたのは、ネズミ男が何の話をしていたのかといろいろ探りに来たということだった。
こんな男が万一弁護士になっていたらと想像すると恐怖を感じる。社名も忘れていたが、京都の翻訳会社や印刷会社でネット検索するとあった。ネズミの寿命は何年ぐらいなのだろうか?
昨夜、眠れずに朝になった。京都の印刷屋のことを思い出していた。1994年だったと思うが、先ごろ倒産した某英会話学校を辞したとき、のちに自分をシンガポールへ呼び寄せることになるオヤジが、「翻訳もやってる印刷屋」を紹介した。何らかの取引があったのだろう。ある意味、自分は人質だったのか。面接に行った日は雨で、またわかりにくい場所に会社があって約束の時間に遅れていった。
最初から臆病の裏返しのような空威張りの目立つ男だと感じたが、その通りだった。訪問する人に会社の場所を伝えるときには「自社ビルです」との一言を忘れずに付け加えていた。まもなく、「ネズミ男」と呼ぶようになった。
どこかの貿易商社にいたが、身の程知らずで司法試験に合格して弁護士になる気になったらしい。社会正義とは無縁のような男だが、司法試験という「むずかしい」試験に合格することで何かを誇示したかったのだろう。長年、浪人したが結局合格せず。
勤務時間が終わると、さっさとタイムカードを押して退社する社員の態度が気に入らないらしく、「残業費は全額支払わない」と宣言しておった。
ある日の朝、出勤の準備をしていると、視野が左右から狭くなっていって、真っ暗になってしまった。「見えない」と言ったまま、床に倒れた。今ではストレスのSOS と認識している「あの」めまいの最初だった。
給与を決めるとき、ネズミ男は「最終的にはミドリ(嫁はん)と相談して決める」と言ったにもかかわらず、次の給料日までに何の知らせもなかった。「いつ金額が決まったのか」とたずねると、「ミドリと相談」の話などなかったように主張する。実嫁はんにしっかり経営を握られているという事実がよほど悔しいのか、一歩も譲らない。自分は金額を問題にしていたのではなく、いつ誰が金額を決めたのかを正したかったのだ。
すでに不信感が爆発しそうだったので、その日は半日ほど会社にいただけで、さっさと帰った。と言っても、オヤジの所に寄って事情を説明した。あぁぁ、まだあの狸オヤジのことを信用していたんだ。この信用はシンガポールに来てからもしばらく続いた。人を見る目のなさに、我ながらあきれかえる。
会社の近くにたばこ屋があって、そこのおばちゃんと毎日のように話すようになった。仕事や会社の話をした覚えはないが、ネズミ男は、自分がおばちゃんと話している光景を目撃したらしい。退社してから、確かあいさつに行ったとき、おばちゃんが教えてくれたのは、ネズミ男が何の話をしていたのかといろいろ探りに来たということだった。
こんな男が万一弁護士になっていたらと想像すると恐怖を感じる。社名も忘れていたが、京都の翻訳会社や印刷会社でネット検索するとあった。ネズミの寿命は何年ぐらいなのだろうか?
Monday, August 14, 2006
Not Very Surprising
From The Economist, August 5th 2006
In the 1960s Israel was praised, and thousands of idealistic Brits tilled the soil each year on kibbutzim. Now people fired with similar ideas are more likely to go to Palestine, guided by the International Solidarity Movement and other pro-Palestinian groups, to stand in the way of Israeli bulldozers.
In the 1960s Israel was praised, and thousands of idealistic Brits tilled the soil each year on kibbutzim. Now people fired with similar ideas are more likely to go to Palestine, guided by the International Solidarity Movement and other pro-Palestinian groups, to stand in the way of Israeli bulldozers.
Friday, August 11, 2006
Yesterday, Not Too Bad...
昨日午前。B に行って読んだあと、昼食。1カ月以上ぶりにジムに行って、T さんオフィス。帰りにもう一度B で読む。こんなに活動的だったのは6月末以降初めて。夜12時ごろ、Ativan 1錠飲む。1時すぎには眠くなる。
けさ。5時に目が開く。眠りが深くて目が覚める時間が早いのかどうかわからないが、早すぎ。また眠ったが、Q が来て、自分が眠っているにもかかわらず、ベッドシーツを取り替える。あんまりだ。
けさ。5時に目が開く。眠りが深くて目が覚める時間が早いのかどうかわからないが、早すぎ。また眠ったが、Q が来て、自分が眠っているにもかかわらず、ベッドシーツを取り替える。あんまりだ。
Thursday, August 10, 2006
Funny Ativan
2時ごろにAtivan を飲んだ。3時すぎには眠ったようだったが、4時半、5時半と繰り返して目が覚め、しっかり眠れないので、さっき起きることにした。
From The Economist, August 5th 2006
… A USA Today/Gallup poll conducted on July 28th-30th showed that eight in ten Americans believed that Israel’s action was justified – though a majority were worried about the scale of action… An earlier USA Today poll found that 53% put “a great deal” of the blame for the current crisis on Hizbullah, 39% on Iran and only 15% on Israel.
… A Pew Global Attitudes survey taken between March and May found that 48% of Americans said that their sympathies lay with the Israelis; only 13% were sympathetic towards the Palestinians. By contrast, in Spain for example, 9% sympathised with the Israelis and 32% with the Palestinians.
… Two in five Americans believe that Israel was given to the Jewish people by God, and one in three say that the creation of the state of Israel was a step towards the Second Coming.
From The Economist, August 5th 2006
… A USA Today/Gallup poll conducted on July 28th-30th showed that eight in ten Americans believed that Israel’s action was justified – though a majority were worried about the scale of action… An earlier USA Today poll found that 53% put “a great deal” of the blame for the current crisis on Hizbullah, 39% on Iran and only 15% on Israel.
… A Pew Global Attitudes survey taken between March and May found that 48% of Americans said that their sympathies lay with the Israelis; only 13% were sympathetic towards the Palestinians. By contrast, in Spain for example, 9% sympathised with the Israelis and 32% with the Palestinians.
… Two in five Americans believe that Israel was given to the Jewish people by God, and one in three say that the creation of the state of Israel was a step towards the Second Coming.
Wednesday, August 09, 2006
Independence Day Pyrotechnics
朝8時ごろ目が覚めた……が、また眠った。夜、国立競技場から打ち上げられる花火を窓から見物。
昨日の夕方、パスポートを返してもらった。
旧暦7月で、外からチャルメラやかねの音が聞こえ、「天国でだけ使用できる紙幣」の燃えかすが部屋まで入ってくる。
仕事の見込みは、少し上向きの様子か。FZ を聴く余裕や、ジムにまた行くことを考えたりして気分もおそらく改善しているようにも思う。“Zappa” は90ページあたり。この人の歌詞や曲名は不思議なものが多いが、謎が解けていくようでおもしろい。
昨日の夕方、パスポートを返してもらった。
旧暦7月で、外からチャルメラやかねの音が聞こえ、「天国でだけ使用できる紙幣」の燃えかすが部屋まで入ってくる。
仕事の見込みは、少し上向きの様子か。FZ を聴く余裕や、ジムにまた行くことを考えたりして気分もおそらく改善しているようにも思う。“Zappa” は90ページあたり。この人の歌詞や曲名は不思議なものが多いが、謎が解けていくようでおもしろい。
Sunday, August 06, 2006
YouTube, SDP, Gloria, Fidel and "News" Program
午後。少し読もうとB に行った。E を3ページも終わらないうちに、店で眠ってしまい、早々と引き揚げた。
もう少しまとめて眠ろうと思ってうちに帰ったが、“YouTube” で「猪木-アリ(ハイライト)」「猪木-グレート・アントニオ」「猪木-ホーガン」(第2回IWGP 決勝戦)「橋本-ムタ」などを見つけてしまう。眠気を忘れて数時間集中してしまった。
政治家、政党の無原則には驚かないが、「戦犯」の名誉回復に積極的だった社民党(旧社会党)の態度は偽善としか言いようがない。すでに消失してしまった日記にも書いたが、ソビエト崩壊とともに党名を変更した欧州の左翼政党に倣って、Socialist Party からSocial Democratic Party に先に「英語表記のみ」党名変更を行った同党。数年後に日本語表記を社民党にしたとき、時の党首は「英語ではすでに変わっているから、これで当たり前」とおっしゃっていた。英語表記の変更時、産経新聞は小さい記事を掲載したが(他紙の報道については知らない)、「当たり前」って、こっそり英名だけ先に変えたことが問題だろうが。
もうひとつ。これも旧日記に書いたが、ペルーの日本大使邸で人質事件が発生して解決していなかった、ちょうどそのころ、反カストロで有名なキューバ生まれの米歌手グロリア・エステファンが某(似非)報道番組に出演した。司会者が「日本はカストロに仲介を依頼しなければならないかもしれない」と話を向けると、グロリアは「カストロに言いたいことがあるなら言えばいい。ただし、そのことでこれまでの悪事が消滅するわけではない」と発言。しかし、通訳はこの部分を訳さなかった。なぜか??
旧日記からさらにもうひとつ。米大リーグのオリオールズで活躍し、日本でもプレーしたデーブ・ジョンソンが来日。同番組に出演し、当日行われたある試合での投球について聞かれ、「高い」と日本語で答えたジョンソンだったが、通訳は「失投です」と訳した。この通訳さん、一生懸命すぎたのか。
もう少しまとめて眠ろうと思ってうちに帰ったが、“YouTube” で「猪木-アリ(ハイライト)」「猪木-グレート・アントニオ」「猪木-ホーガン」(第2回IWGP 決勝戦)「橋本-ムタ」などを見つけてしまう。眠気を忘れて数時間集中してしまった。
政治家、政党の無原則には驚かないが、「戦犯」の名誉回復に積極的だった社民党(旧社会党)の態度は偽善としか言いようがない。すでに消失してしまった日記にも書いたが、ソビエト崩壊とともに党名を変更した欧州の左翼政党に倣って、Socialist Party からSocial Democratic Party に先に「英語表記のみ」党名変更を行った同党。数年後に日本語表記を社民党にしたとき、時の党首は「英語ではすでに変わっているから、これで当たり前」とおっしゃっていた。英語表記の変更時、産経新聞は小さい記事を掲載したが(他紙の報道については知らない)、「当たり前」って、こっそり英名だけ先に変えたことが問題だろうが。
もうひとつ。これも旧日記に書いたが、ペルーの日本大使邸で人質事件が発生して解決していなかった、ちょうどそのころ、反カストロで有名なキューバ生まれの米歌手グロリア・エステファンが某(似非)報道番組に出演した。司会者が「日本はカストロに仲介を依頼しなければならないかもしれない」と話を向けると、グロリアは「カストロに言いたいことがあるなら言えばいい。ただし、そのことでこれまでの悪事が消滅するわけではない」と発言。しかし、通訳はこの部分を訳さなかった。なぜか??
旧日記からさらにもうひとつ。米大リーグのオリオールズで活躍し、日本でもプレーしたデーブ・ジョンソンが来日。同番組に出演し、当日行われたある試合での投球について聞かれ、「高い」と日本語で答えたジョンソンだったが、通訳は「失投です」と訳した。この通訳さん、一生懸命すぎたのか。
Half Ativan Tablet Didn't Work
結局、眠れなかった。“Zappa” (Barry Miles) を70ページほど読み進めたが、眠気はやって来なかった。
確か、“The Real Frank Zappa Book” で、「世の中に本が好きな人がいる。おまけに実際に本を読む人までいるから驚きだ」などと言っていたように記憶しているが、14歳あたりから読書家だったじゃないか。
確か、“The Real Frank Zappa Book” で、「世の中に本が好きな人がいる。おまけに実際に本を読む人までいるから驚きだ」などと言っていたように記憶しているが、14歳あたりから読書家だったじゃないか。
"Sawayaka-san," Dooooozooo!!
眠れないので、起きてきた。日暮れまで眠っていたので、眠れなくても当たり前か。「すがすがしさ」「さわやかさ」のない毎日。さっきAtivan を半錠飲んだ。
Death Happens Only Once to Everybody
金曜日。「藤田さん、また」と言ってお別れした。もう、この世では会えない。
最後に話したのは「達屋」に呼んでくれたときで、「わしは、おまえのことも気になっとったんや」と言って励ましてくれた。
葬儀からいったん帰宅して、また出掛けるつもりだったが、眠りに落ちた。
最後に話したのは「達屋」に呼んでくれたときで、「わしは、おまえのことも気になっとったんや」と言って励ましてくれた。
葬儀からいったん帰宅して、また出掛けるつもりだったが、眠りに落ちた。
Friday, August 04, 2006
Big Cry
けさ4時ごろまで、藤田さんと対面していた。久しぶりに大泣きした。
帰宅してもよく眠れず、うとうとしかけたときにバスルームの棚取り付けのためにやって来たQ が新聞をもって自慢げに「葬儀は明日と書いてある」。知ってるよ、そんなこと。人がやっと眠ろうとしているときに起こすな!
午後になってやっと眠れたが、無数の針で足を刺される痛い夢だった。抜いても抜いても周りから刺されていた。自分の叫び声で目が開くと、午後3時だった。急いで用意して葬儀に向かった。
帰宅してもよく眠れず、うとうとしかけたときにバスルームの棚取り付けのためにやって来たQ が新聞をもって自慢げに「葬儀は明日と書いてある」。知ってるよ、そんなこと。人がやっと眠ろうとしているときに起こすな!
午後になってやっと眠れたが、無数の針で足を刺される痛い夢だった。抜いても抜いても周りから刺されていた。自分の叫び声で目が開くと、午後3時だった。急いで用意して葬儀に向かった。
Thursday, August 03, 2006
Wednesday, August 02, 2006
A Better Day
それほど悪い日でもなかったか……。昨日の夜からずっと起きたままで、朝10時にJ さんにパスポート、会社のかぎなどを手渡す。迷惑だが、駅まで来てもらった。次の年金支払い期限のぎりぎりまで遅らせたが、兄にも現状を報告できた。
Tuesday, August 01, 2006
Rachel Corrie, Edward W. Said
イスラエル軍のブルドーザーにひき殺されたRachel Corrie が参加していたボランティア団体“International Solidarity Movement” (ISM) のウェブサイトを見つけた。研修予定は7月31日までしか掲載されておらず、今後も定期的にチェックしていきたい。サポートグループには欧米の団体しかない。イスラム大国のインドネシア、マレーシアなど、アジアは何をしているのか。
けさ早く(31日)、“From Oslo to Iraq: and the Road Map” を終えた。Afterword (Wadie E. Said): Indeed, it still pains me to remember that in his last full day of consciousness and alertness, prior to succumbing to his illness, my father was overcome by emotion because he felt that he had not done enough for the Palestinians. All present at this extraordinary scene were dumbfounded: if Edward Said had not done enough for Palestine, then what have we done? That will have to be answered by the present and coming generations, but our overwhelming sense of loss is matched by our immense affection and gratitude for his trailblazing example. (p 302)
起きてるのがイヤで眠ると、目的地に辿り着けない悪夢に出会う。
けさ早く(31日)、“From Oslo to Iraq: and the Road Map” を終えた。Afterword (Wadie E. Said): Indeed, it still pains me to remember that in his last full day of consciousness and alertness, prior to succumbing to his illness, my father was overcome by emotion because he felt that he had not done enough for the Palestinians. All present at this extraordinary scene were dumbfounded: if Edward Said had not done enough for Palestine, then what have we done? That will have to be answered by the present and coming generations, but our overwhelming sense of loss is matched by our immense affection and gratitude for his trailblazing example. (p 302)
起きてるのがイヤで眠ると、目的地に辿り着けない悪夢に出会う。
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