さっき"Eats, Shoots & Leaves"を終わった。ネット上の書き込みは、文章を書く作業でもタイピングでもなく「送信」にすぎないにうなずく。「本を読むときに動くのは読者の目で、ネット上で文字を読むときに動くのはスクロールされる画面」。当たり前だが、気がつかなかった。句読点が「感情表現の記号」としての使用が氾濫、定着すると、本来の機能がいずれ消え去り、後人は句読点を捨て去るのではないかとは恐ろしい。さまざまな記号は文字数削減に役立っているが、Trussが言うように文章による表現能力のなさをさらけ出しているのも同然だ。ネットの便利さは疑う余地もないが、たとえばオンライン辞書では、紙に印刷された辞書のページをめくりながら、いつのまにか「辞書を読んでいる」といった「楽しみ」は発生し得ない。電子辞書についても同じ。
インターネットは欲する情報のありかを示してくれるが、ページをめくる読書の感覚は与えてくれない。(擬似感覚を作り出そうとするソフトは開発されているようだが。)最後のページが近づいて来たときの満足感と"Please don’t go"感覚がうれしいのに。"Never Ending Story"に出てくる少年が本ではなく、コンピューター画面を見つめている場面を想像できるだろうか?あの本に没頭してページを進める"What's next?"感覚がうれしいのに。
Kay Redfield Jamisonの「何が自分に起こっているのかわからなかった」「病気だと気づかなかった」はまったく同感。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment