Friday, September 17, 2021

Trần Lệ Xuân -- ドラゴン・レディー(6)

   しかし、クーデター以前から姉との関係、またその後の弟や娘に関わる事故、事件で、ヨーロッパでの生活が彼女に平静をもたらしたわけではなかっただろう。

 マダム・ニューの姉レ・チ(Trần Lệ Chi)の夫は義妹の下で働く立場にあった。ファーストレディーとなった妹への嫉妬からか、フランス人の愛人を持つこととなったが、離婚禁止法の制定を知って手首を切った状態で大統領官邸に向かうが妹は会おうとはしなかった。

 一九六七(昭和四十二)年四月十二日、アメリカ訪問にも同行し、二十二歳になっていた長女がフランスでの自動車事故で死亡する。四台のトラックが長女の車に向かってくるように衝突し、マダム・ニューの弁護士が後に謝罪の言葉を述べたことから、彼女はこの事故を殺人だと信じて疑わなかったようだ。そして、これは彼女の死後であるが、二〇一二(平成二十四)年四月十六日には末っ子の次女がスクーターとバスとの衝突事故で命を落とす。

 次女を亡くすことになる事故のずっと以前、一九八六(昭和六十一)年の夏、マダム・ニューの両親が期待をかけていた唯一の息子、彼女にとっては実弟が両親をワシントンDCの自宅で殺害する。実弟キエム(Trần Văn Khiêm)は国民議会議員となったものの、良家にありがちかもしれないドラ息子であり、クーデター後の軍事政権によって逮捕される。母親のマダム・チュオンは「only a stupid boy」「foolishly under the sway of his older sister」と訴え、アメリカ国務省やロッジ大使に哀願するが、聞き入れられることはまったくなくサイゴンの、そしてその後は南部の島、プロコンドールの刑務所に送られる。

 "Who knows what backroom negotiations got him out of Vietnam and to France."

 フランスを経て、両親の住むアメリカに渡ったキエムは、両親の遺産に相続権がないことを知る。マダム・チュオンは、

"[He] behaved all his life like an exceptionally ungrateful and bad son and has been too often to his parents a great source of worries and deep sorrow. Such behavior cannot be forgotten and forgiven in a traditional Vietnamese family."

と述べて、次女に続いて長男も突き放すのだった。 

 弟による両親殺害事件の後、

"This is a family affair.29"

との言葉を最後に、マダム・ニューはメディア報道から消える。暗殺や事故死という悲劇の繰り返しは、デメリーが書くように「Kennedy Curse」を思い起こさせたりもするが、ケネディー一族に親族間の殺人があっただろうか。

 フランス公安当局が記録している当時の噂を信じれば、色仕掛けで社会的地位を得てきた母親を持ちながら、優雅でありながらも平穏と呼べる一生であるはずだったが、結婚によって生々しい政治の世界に引きずり込まれ、望まずとも与えられたような役割を見事に演じてみせ、またそれによって両親との縁が切断されたうえ、クーデターによって祖国を離れざるを得ず、さらには彼女が知る形の祖国さえ完全に消滅してしまったのである。悲劇であることに間違いはない。

29 Demery, Monique Brinson. Finding the Dragon Lady: The Mystery of Vietnam's Madame Nhu, 2013

 

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