さて、マダム・ニューの生涯の友人は日本人女性だった。
"Le Xuan's best friend from childhood was... a Japanese girl. Their shared misery forged a permanent bond, and they remained in touch for the rest of their lives.26"
本当に幼少時であれば、知り合ったのは彼女が生まれたハノイでのことだと思われるが、残念ながらこの日本人が誰なのかは明らかにされていない。この「shared misery」と言わせる出来事は何だったのか……。説明されてはいない。
昭和十五(一九四〇)年九月に日本軍がインドシナに進駐した後、昭和二十(一九四五)年の三月に明作戦でフランスからこの地域の権力を奪取してから五カ月後に敗戦となるまで、ベトナムには軍人や外交官だけでなく、印度支那産業、大南公司、北川産業、また日本文化会館に関係する民間人など、日本人も多く滞在していたはずで、レ・スアンと日本人との交流があったとしてもまったくおかしくはない。
フランス公安当局の資料には、
"Sometime after his arrival in 1939, the Japanese diplomat Yokoyama Masayuki betrayed his French wife for Madame Chuong; in return, she was described as more than his mistress. Madame Chuong became the Japanese consul's 'right arm' in Hanoi."
とも記されているらしい。
ドラゴン・レディーと称されるようことになるレ・スアンの実母、彼女を十四歳で出産したマダム・チュオン(Thân Thị Nam Trân)は、バオダイ帝の下で外務大臣、またズィエム政権下で駐米大使だったチャン・バン・チュオン(Trần Văn Chương)の夫人であり、また国際連合においてオブザーバー資格だった南ベトナムの代表でもあった人だ。ここに「consul」と書かれている人物、すなわち「Yokoyama Masayuki」は元駐カイロ公使、そしてハノイとサイゴンにあった日本文化会館の創設者で館長、またズィエム兄弟とも親しく、戦後はベトナムとの資源開発協力のために「便宜上組織」された東亜企業株式会社の社長だった横山正幸のことだと思われる27, 28。つまり、日本にとって重要な資源確保という、仏印進駐と同じ目的であり、戦後の賠償ビジネス推進の先駆者の一人という立場ではなかったか。ちなみに、衆議院の外務委員会に横山とともに出席した「著述業」の「グエン・リン・ニエット君」とは何者であろうか……。
さてまた、こんな記述もある。
"According to one rumor that gained traction many years later as café gossip, among Madame Chuoung's many lovers in Hanoi was a man by the name of Ngo Dinh Nhu."
さらに、
"Le Xuan's mother signed on for Japanese-language lessons, and her romance with Yokoyama, the Empire of the Rising Sun's envoy in Hanoi, was soon rewarded. In 1945, her lover Yokoyama was appointed resident of Annam, and Tran Van Chuong, her husband, was promoted to a cabinet position in the Japanese puppet government."
とも記されている。妻の不貞を知ってか知らずか、チュオンは日本の統制下にあったベトナムで外相にまでなる。
レ・スアンは血筋継承のために男児を望む文化の中で次女として一九二四(大正十三)年八月に誕生した。その後に長男が生まれたため、両親にとって子としての立場は低いものだった。まだ乳児だった頃、両親は彼女をハノイに残して、南部カマウ近くに赴任する。次女の病の報を聞いてハノイに一時戻ったマダム・チュオンは、再会した次女の容貌が記憶と異なることで、他の女子とすり替えられたのではないかという疑念を生涯にわたって抱いていたという。
ノ・ディン・ニューと結婚し、その後、大統領宮殿で暮らすようになってから現れる歯に衣着せぬを超える毒舌や批判をまったく恐れない行動は、カトリック教徒としての自らの清廉さを疑わず、他者にもそれを求め、また明晰さと幼少時を原因とする受け入れがたい感情に裏打ちされた両親への反発の表現だったのかもしれない。
マダム・ニューがローマで亡くなったのは二〇一一(平成二十三)年四月二十四日。八十六歳だった。
辛辣きわまりない言動からアメリカ政府からさんざん疎ましがられ、さすがに義兄である大統領からも黙っていろと命じられ、南ベトナム国民議会の議員でもあった彼女はユーゴスラビアのベオグラードで開かれる「列国議会同盟」の会議への出席を都合のいい名目にしてしばらく国を離れることになった。会議後は大西洋を渡ってニューヨーク、ワシントンDC、そしてノース・カロライナ、イリノイ、テキサス、カリフォルニアで取材を受けつつ、熱烈な歓迎と激しい抗議を同時に受けながら講演も行っている。この旅行には当時十八歳だった長女が同行している。公式訪問ではないのでアメリカ政府からは身の安全を保証できないとも言い渡されてもいた。
彼女のアメリカ訪問前に、マダム・チュオンは実の娘を「un barbare(野蛮人)」と呼び、ニューヨークとワシントンDCのベトナム人たちに娘を車で轢くようにとまで呼びかけている。ワシントンDC滞在中、マダム・ニューは、目に余る行動と言動が理由で彼女をすでに勘当し、また公職を辞していた両親の自宅を長女とともに訪れるが、玄関のベルを鳴らしても、ドアをノックしても、応対する人はなく、両親と会うことを果たせていない。
一九六三(昭和三十八)年十一月のクーデターの知らせを、彼女はロサンジェルスで聞く。クーデターが渡米中に発生したことから、帰国が叶わなくなった彼女はローマに向かい、そこでクーデター発生時にサイゴンを離れていて無事だった長男、次男、次女と再会する。マダム・ニューはその後、長年パリで暮らしたが、体調を崩した最晩年に子どもたちがいるローマに移ることになる。
26 Demery, Monique Brinson. Finding the Dragon Lady: The Mystery of Vietnam's Madame Nhu, 2013
27 Tachikawa, Kyoichi(立川京一).『第二次世界大戦期のベトナム独立運動と日本』, 2000
28 第三十三回国会衆議院外務委員会議録第十三号 昭和三十四年十一月二十一日, 1959
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