近藤紘一は自身の外国語能力の不足について他でも触れて
いるが、「目撃者」に収められている「物類の総称のこ
と」(「アジア」1979年8月)を読むと、カタカナ基準の
発音だったことがわかる。フランス語に長けていたはずに
も関わらず、奇妙なことだ。
文法運用の複雑性や柔軟性と対照的に、単純な母音「アイ
ウエオ」を基礎にしている日本語の発音体系には、アとエ
の中間やアとオの中間といった音は存在しないし、子音が
連続することも(おそらく)ない。フランス語の発音体系
については無知だが、日本語より何倍も複雑だということ
は想像できる。
シンガポールの会見は英語で行われるが、自分以外の記者
の皆さんが会見中に質問した場面に遭遇したことはない。
どの国や地域であろうと、その地の言語、それが無理なら
少なくとも英語で迅速に情報を入手したり、取材したりで
きなくて、発信する記事の信頼性を保つことができるのだ
ろうか。
まさにこれは30年ほど前に自分がアメリカの新聞や雑誌を
読み始めた大きなきっかけだった。「米紙ニューヨーク・
タイムズによると…」だったり、「米誌タイムによると
…」だったり、「米誌ニューズウィークによると…」だっ
たり、また「米誌USニューズ・アンド・ワールドレポー
トによると…」だったりしたが、日本の新聞紙面で報じら
れている内容を自分で確かめたかった。そうすると、読み
飛ばしてしまいそうな小記事が元だったりして、なんでわ
ざわざこれを日本で報じる必要があるのかと、疑問を感じ
た。
記事中で引用される発言の日本語での紹介も、相変わらず
「われわれは…するだろう」といった中学生レベルの訳文
が見られ、記者の日本語レベルも疑わしかったりする。
「サイゴンの十字架」に収録されている開高健による訳文
もこの調子で、読んでいられない。
Alcohol intake record:
October
3 (Mon.):
red wine
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