Friday, October 06, 2006

Throat Infection and Taiwan Story

昨日の夜、薬局でlozenge (トローチ)を買ってきたが、あんまり効果がない。抗生物質が欲しかったんだけど、処方箋なしでは薬局で売ってくれない。前日(水曜日)の夜、すっきり眠れなかったので、昨日は大丈夫かと思えば、台湾に出張したときのことなど、いろいろ思うところあって、文章が浮かび、また眠れなかった。

けさ、熱は下がっていたが、のどの痛みは相変わらずひどかった。我慢できずに病院に行った。

“Quite Bad! Why didn’t you come see a doctor earlier??”

と言われてしまった。熱が急上昇するときは、きまってthroat infection で、Dr. Goh にも、“Bad infection!!” と叫ばれたことがあるし、おどろくことはなかったが、つらいことに変わりはない。何でもっと早く診察に行かなかったのかと言えば、毎日仕事に行くつもりが、それが実現していないので、本当に体調が悪いときでも「休んではならぬ」と感じているから。

1999 年の年末、エンジニアで韓国の仕事を通じて知り合ったKW さんが、「いっしょに台湾、行かへんか」と電話にメッセージを残していた。

1997 年のアジア通貨危機が韓国にも影響して、98 年夏には永久に継続しそうだった仕事の契約がなくなってから、つらい毎日だった。家賃はもちろん、仕送りを停止するわけにもいかず、口座残高が激減していた。99 年夏、建設が進んでいたUSJ の現場で通訳するという願ってもない仕事の話が舞い込んだが、業務内容の説明を受けているときに脳天から汗が噴き出し始め、意識が消えていった。工事現場で同じこと発生することを想像して、さすがに怖気を感じて辞退してしまった。

それから数カ月して、ネットで見つけた長野県の会社から自動車部品関連の翻訳で大量の仕事をもらうことができ、以降まずまず定期的に仕事をいただいていた。そんな状況だったので、大して飲めないのに飲むと酒癖の悪いKW さんから連絡をもらったときには早急に仕事をつかむ必要はなかったが、海外出張の誘惑にはやはり抵抗できなかった。期間は2カ月。資源再生施設、早い話がごみ処理場の電気設計に行くというものだった。

「自分でいいのか」という不安もあった。しかし、出発前にはKW さんと2人組で仕事をすると説明を受け、「仕事ができなかったとしても、選んだ人の責任」だと言ってくれる友人もあり、翌年の年明け早々に渡台した。

施設は彰化県渓州郷、また宿泊先となったアパートは同県北斗鎮にあった。リビングルームの壁には前年の大地震でできたひびが残っていた。アパートから台中までは車で1時間ほどの距離だったように思う。

さて、現場事務所に到着するとさっそく仕事内容の説明を受けた。現場監督が言うには「KW さんには蛍光灯の配線を、それからあなたには……」。「え、別の仕事をするのか」と思った瞬間、ショックでめまいと吐き気に襲われ、トイレに駆け込んだ。到着早々、「失礼しました」と言って日本に帰るわけにもいかず、その日の夜の歓迎会に参加した。

翌日、自分に与えられる仕事の説明で、資料を見ると、シーケンスと端子図ではないか。これで結線表を作成してほしいという。これなら「永久に継続しそうだった仕事」でやっていたことと同じだと思うと気が楽になった。それから、資料と現場の現状を基にしてせっせとエクセルで表作成を進めた。ただ、現場の階段が手すりのない状態だったり、床は金属のメッシュ板がはめこまれただけで、下を向くと吸い込まれそうになって、はなはだ恐ろしかった。

KW さんと自分のほかにもうひとり電気設計を担当していた人がいた。新潟県出身のおじさんで、高校時代はボクサー。大阪のおそらく淡路商店街で警官にパンチをくらわし、堺刑務所にいたことがあると話していた。どうみてもサラリーマン・エンジニアにはなれそうにない人だった。

現場を案内してくれたとき、「どうもヘルメットが似合わなくて」と言うと、「いやいや、ピッタリじゃないですか。優秀な人に来てもらえて助かります」。

知った仕事とは言え、本物のエンジニアではないことがバレるのを心配して、できるだけ業界の話などには加わらず、だまってコンピューター画面を見つめる毎日だった。現場監督からは、「本当に仕事ができる人はだまって仕事をするんだ」とお褒めの言葉さえいただいた。元請けの巨大会社とのミーティングで、資料を作成して問題を指摘したのは自分だけだったりして、さらに評価を上げてしまった。

この現場には特殊なことがあった。現場作業員のほとんどとCAD 操作、資料管理などの担当はフィリピンからの若者だった。彼らとの意思疎通に問題がないのは自分だけ。現場監督は、配線と結線が終了して実施する「調整にも残ってもらおうと考えています」と言い出していた。

1カ月していったん帰国したが数日後に再渡台。監督はマンホールに転落して入院してしまっていた。マンホールの「ふた代わり」に使われていたケーブルドラムを、そうとは知らずに持ち上げたところ数メートル下まで落下してしまったのだ。

以後、滞在延長する話は幸運にして立ち消えとなり、3月半ばに帰国した。延長話が消滅したのは、KW さんの酒癖が大きな原因だったと思う。

帰国する数日前、いっしょに仕事をしていたフィリピン人エンジニアの2人が自分に別々に封筒を渡した。中には履歴書が同封されており、「日本での仕事をよろしく」という意味だとすぐにわかった。エンジニアではない自分にそんな力があるわけがなく、彼らには悪いことをした。2カ月間、みんなを欺き続けたのだから。

“You have been very nice to us. You are THE MAN!!” と別れの挨拶をしてくれたRobert や、“You are a very good engineer!!” と言ってくれたフィリピンと台湾のエンジニアに、ここで感謝、そして謝罪する。

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