Tuesday, October 31, 2006

Are You Still a "Girl"????

「出会い系サイト」へ行くと、30 歳以上でも自分のことを“woman” “lady” ではなく、「平気で」“gal” とか“girl” とか呼んでる人が大勢います。どういう意識なんやろか。

Monday, October 30, 2006

Voice of "Soka" People in Neighborhood

毎日、「そうか」のみなさんのありがたいお題目が聞こえるのは気のせいか。幻聴かな。それとも選挙が近いのか。大阪と神奈川の選挙は終わったばっかりのはずやけど。

今日。何とかジムに行けた。1カ月ぶりかもしれない。しかし、かなりつらかったので、早々と引き揚げた。せやけど、また行く。

Yappari the Nankai Hawks + Dream with an Unhappy Ending

早めの夕食を済ませて、「うとうと」しているとヘンな夢。

セントーサ島へのケーブルカーが発着する様子がわずかに遠く見える地域。「ケッペルタワーやな」。ホンマかな。

集合住宅はなく、テラス風の一戸建てが並ぶ。中にはプール付きの家もある。そのうちの1軒を間借りしているようだが、そのうちには他に人がいない。近所を歩いてみると、狭い坂道が多いことに気付く。よく似た家が多いんで、自分が住んでるのを「自動的に」見つけられない。駐車場か公園か不明なスペースもある。子供が遊んでいたり、近所に生活は存在するが、自分が誰かと話すことはない。引っ越してきたばっかりなんかな。

「あぶさん」のコミックが急に出現して、あのカッコいい“Hawks” を久しぶりに描いてみる。“H” の形を再現するのがいつものように難しい“w” から“ks” と続く部分も見事なデザインだと感心。数年前から、姿を消した球団の帽子やユニフォーム・デザインを再現したTシャツを作ってる人がおるけど、あの“Hawks” “H” の1画目の「とんがり方が十分やない」し、「ちょっと甘いな」と批評する。(実際にユニフォームに使用されていたデザインは、ファンブックやなんかで使われていた印刷ともちょっと違う。“s” の「しまい方」を見れば一目瞭然。ただ、この“Hawks” デザインをはっきり写した資料がネット上にはほとんどない。いずれ、忠実に再現してTシャツを作りたい。)

日暮れ時。「ケッペルタワー」の方向で花火が上がる。「もうちょっと遅い時間にやったら、もっときれいとちゃうんかな」と疑問に思いながらも、EM ちゃんに“Fireworks” SMS する。

夜。「家族」がやって来る。心で泣きながら「帰れ」と会うことに抵抗。皿まで投げつける。目が覚めて汗いっぱいの自分を発見した。

金曜日の夜。「こら、わしのうつ病の原因のひとつはおまえや。話しかける前に謝罪せんか。自分の主張ばっかり押し通そうとするな。おまえ、わしのこと、どんなけ知っとるんじゃ」

昨日の夜、今日の昼と「そうか」のみなさんの題目が迷惑だ。

「東京大空襲」の集団訴訟が始まるらしい。米国政府が被告かと思ったら、日本政府だった。

探したら昭和48年プレーオフと日本シリーズの写真を「ソフトバンク・ホークス」のサイトでいくつか発見した。以前はなかったはず。日本シリーズ第2戦には父親に連れて行ってもらう約束だった。当日、天候が悪くて中止だと思って、実現しなかった。下の写真にあるように、グラウンドを何とか整備して行われたのが第2戦だった。

「なんばパークス」の「南海ホークス」コーナーにはその名前さえまったく触れられていないノムラさんの写真がソフトバンク・ホークスのサイトにある不思議。

このブログ・サイト、エラーが多すぎる!まともにアップできない。日本語版やないとか言うのは言い訳にならん。何とかせい!

ついでに日拓ホーム・フライヤーズの7色のユニフォーム(左から中原勇、渡辺秀武、大下剛、藤原眞、中原全敏、山崎武昭、三浦政基)。太平洋クラブ・ライオンズも4つあったからなぁ。奇抜なのがはやりで、自分としては「美しい」とさえ思うけど、あんまり評判ええことない。しかし、なんで日拓がカラー写真で南海がほとんど白黒やねん。のち、大下剛は広島、三浦政基は南海に移籍する。

Sunday, October 29, 2006

Kim Il Dies

26 日、金一(キム・ル、大木金太郎)が死去した。原爆頭突きのほかには、キーロックぐらいしか技のないレスラーだったけど、猪木とのNWF タイトル戦は感動ものだったし、キム・ドク(戸口正徳、タイガー戸口)と組んだ全日本での試合は憎らしかった。

「大木よ永遠に」ブッチャーが祈り捧げる(日刊スポーツ)
 アブドーラ・ザ・ブッチャーが26日(日本時間27日)、米アトランタの自宅で、77歳で亡くなった大木金太郎さんをしのんだ。2人は75年12 月に頭突き合戦を繰り広げた好敵手。ブッチャーは何度も韓国を訪れ、療養生活を送る大木さんを励ましてきた。訃報(ふほう)を聞いたこの日、教会で祈りを ささげた。「彼のファイティングスピリットはすさまじかった。ベストフレンドだった。大木よ永遠なれ」と寂しそうに話した。(デーブ・レイブル通信員)

韓国まで行ってたなんて、ブッチャー、なかなかやるやないか。「教会で祈りをささげ」ている写真が欲しかったな。

Thursday, October 26, 2006

Dinner and Tawawa-chan


さっきの夕食。ソーセージ1本とセブンイレブンで買った「チンする」たこ焼き3つ。

「たわわちゃん」が掲載されてたのは朝日新聞だった。やっぱり情けない。

Wednesday, October 25, 2006

Hari Raya Puasa & Tawawa-chan

最近、食生活も貧しい。睡眠時間が多くて、食欲は減退。それでも、もちょっといいもの食べたい。台南の首相大飯店近くの牛肉麺と水餃。また、食べたい。

今日(火曜日、Hari Raya Puasa)、郷土で最も醜悪な建造物(京都タワー)に「たわわちゃん」というマスコットがいることを知った。どの新聞か失念したが、通天閣の「ビリケンさん」がたわわちゃんに会いに行ったそうだ。「タワー」だから「たわわ」。記事には写真も付いていたが、ビリケンに負けず劣らず情けないマスコットだった。

よく眠れなかったけど、朝7時半には起き上がった。上出来。

Monday, October 23, 2006

I Should Kick My Ass

気分は悪くないけど、どうもおかしい。熱があった1週間ほど、抗うつ剤を飲まなかったので、そのせいかもしれない。仕事に行けなかったりする自分がホントに腹立たしい。I should kick my ass.

Q does not seem to understand the kind of relationship we are somehow maintaining. This current relationship is totally different from what it was. We have had a few discussions over this. But she STILL doesn’t get it… Whomever I see and whomever I mingle with are all my privacy and I must protect it. The very basic is she is the owner of the unit and I the tenant, no more and no less. I seriously doubt her span of memory. I do not want to repeat those unhappy, uncomfortable talks.

Talks over Drinks

“American Prometheus” にそんな場面がときどき出てくるが、酒飲みながらの議論っていい。人と話す機会はあっても、まじめにバカな話やまじめにまじめな話をする機会は多くない、と言うよりほとんどない。

自分より大きなことに関して、命を賭けてもいいと思わせるようなことに関して、話す機会はない。「日本村」に留まっていたのでは実現できないだろう。かと言って、この国に理想を語れる環境や人が存在するかと考えれば、そんなものはないようだ。「生存=物質」が成立するとしても、ソビエト圏で比較的裕福だった東ドイツがあっという間に崩壊した事実を思えば、この公式は普遍ではない。その後、思想対立が消滅してますます物質が幅を利かせている。

土曜日、友人のいとこが福岡で殺害されたことを知った。

Saturday, October 21, 2006

Oppenheimer -- A-bomb Researcher

Berkley SF の労組運動から、また周辺の共産党員たちの影響、はたまたソビエトがドイツに敗北するようなことになってはならぬと左翼思想に少なくとも同情的なオッペンハイマー。「マンハッタン計画」も原爆開発でドイツに遅れてはならないとの考えで、大量破壊兵器の実用化研究に参加する。原爆がドイツではなく、日本に投下されることになったいきさつについて読み進めなければならない。

Oppenheimer-related Peolple

“American Prometheus” を始めてから、The Economist (28th September)ではWim Leemans (Lawrence Berkeley National Laboratory)Simon Hookers (Oxford) の行っている素粒子(高エネルギー)物理学実験の記事を見つけ、

“The Leemans-Hooker apparatus, which is a mere 3.3cm long, is able to accelerate electrons to a point where they have a fiftieth of the energy of those accelerated by the nearby Stanford Linear Accelerator (SLAC), an electron-accelerator 3.2km long…”

今日はまさにJoseph Weinberg が登場したページを読んでいると、彼の訃報に接した。

“Coincidentally, the same week, a twenty-one-year-old graduate student named Joseph Weinberg found his way to Room 219 in LeConte Hall and knocked on the door. Cocky and opinionated, Weinberg had been sent packing in mid-year by his physics professor at Wisconsin, Gregory Breit, who told him that Berkley was one of the few places in the world where ‘a person as crazy as you could be acceptable.’ He belonged with Oppenheimer, Breit had said, ignoring Weinberg’s protests that Oppenheimer’s papers in Physical Review were the only articles that he couldn’t understand.” (p. 167)

けさは蚊に襲われて、十数カ所刺された。仕事に行けないとイライラする。何とかならんのか!

Friday, October 20, 2006

Nuclear Japan

「核武装に関する議論を封じるべきではない」という自民党の中川昭一政調会長と麻生太郎外相の主張に与野党から批判が出ている。民主党の小沢一郎代表は自由党党首時代の2002年4月6日に福岡市で行った講演で中国を批判し、「あまりいい気になると日本人はヒステリーを起こす。核兵器を作るなんて簡単だよ。一朝にして何千発の核弾頭を保有できる。原発にプルトニウムは30004000発分あるんじゃないか。そんなになったらどうするんだ。日本はそういうことになれば軍事力だって負けない」と述べている。

原則主義者のはずの小沢氏だが、新生党、新進党、自由党の創設の中心となったあと、民主党に合流。自民党田中派の同志で、新進党解体時に別れたはずの羽田孜とまたいっしょに民主党にいるなんて、どこに原則があるのかと言いたい。自民党を離党したころに持った政治家としての期待はすっかり失せた。

「鳩」なのに、これまでタカ派的発言の多かった鳩山由紀夫氏は周辺事態法について「核実験は中国もロシアも実施している」から適用すべきではないという。適用が適切かどうかはともかく、北朝鮮は日本に向けてミサイルの発射実験を行ったという事実が存在する。中国やロシアが日本列島に向けてミサイル発射実験を実施したことがあるのだろうか。

Friday, October 13, 2006

Ham Fighters, Randy Bass and Daryl Spencer

日本ハム・ファイターズがパリーグ優勝。25 年ぶりって……。ということは、工藤幹夫のプレーオフ登板直前まで「骨折で投げられません」からそんなに時間が経ったのか。京都にあったパブで工藤登板の話をしてたことを覚えてるけど。あれ、あの時はまだ未成年か。

Robert Whiting “You Gotta Have Wa” という名著があるが、その中で「日本ハム」という食肉会社の名前がユニフォームにでかでか書かれているのが、「どうも奇妙でたまらん」というような話があったと記憶する。今、同書をパラパラめくっても簡単には見つからない。

その代わり、日本の野球ファンのみなさんには、次のくだりを紹介する。

[Randy] Bass’s batting exploits [in 1985] even won him recognition in the U.S. He was a guest on “Nightline” and on the David Letterman show, where he deadpanned, “It’s just as well they walked me. If I had broken [Sadaharu] Oh’s [home run] record, they probably would have taken away my visa.”

それから、ノムラさんが著作で触れる好きなエピソードに阪急のダリル・スペンサーの話がある。ノムラさんとホームラン・キングを争っていた彼が試合後のインタビューで「ホームランはどんな球でしたか」と記者にきかれ、「ミズノの球だった」と答えたらしい。ノムラさんは、これを「さすがはスペンサー、聞きたいことは言わない」などと解釈しているが、記者の質問が“What pitch was it?” かなんかではなく、“What ball was it?” だったのが真実だろう。スペンサーは正直に答えただけだったのだ。

Thursday, October 12, 2006

Sick Man Now Recovering

月曜日にもう一度クリニックに行った。別の医師だった。抗生物質の薬剤を右腿に注射された。

「かなり痛い注射なので、局所麻酔液を加えて注射するね。麻酔が切れると痛みを感じるよ」。足をひきずって帰ってきた。抗生物質の錠剤は、別のものClariwinになった。

そのクリニックから紹介状をもらって、昨日と今日、耳鼻咽喉科に行ってきた。Mt. E 病院内にあって、治療費がかかりそうな豪華なオフィスだった。

医師は低い声でこれまでの経過をたずね、専門医だから当然なんだろうけど、のどの状態を見ても驚くようなことはなかった。鼻腔と口内に何かを噴霧されて、10分ほど待つように言われる。少ししびれた感覚があったので、軽い麻酔だったのかもしれない。

別室に入って、画面を背にして座り、鼻からのどへスコープを通される。検査が終わると、ひげ面も鼻毛も写っている録画した検査の様子を見せてくれた。白い膿汁がはっきり見えた。しばらくして、今後は別室で左肩に2種類の注射。

このクリニックにはロゴ入りのバッグがあって、処方された鎮痛剤を入れて渡してくれる。スコープで撮った映像もDVD にダウンロードしてくれた。そこまでサービスしなくてもといいのにとも思った。

請求金額がちらっと見えたとき、S$200 を超えているのがわかった。しかし、それは合計金額ではなく内訳のうち最後にリストされていた金額だった。合計金額はS$480 近くに達していた……。DVD ぐらいもらってもいい。

帰り際、翌日(今日)も来るように言われ、まっすぐうちに帰った。タクシーでしか移動はムリとほんの1時間とちょっと前まで思っていたのに、バスで帰宅する気になっていた。帰宅して水銀体温計で検温すると、水銀が上昇せずに35 度のまま。測り方が悪いのかと思い、やり直したがやっぱり同じ。すでに熱は下がっていた。

今日。診察には10 分ほどしかかからなかった。ずいぶんきれいになった扁桃腺。「自分でも見てみろ」と手鏡を渡された。その後、昨日の1本目と同じ注射。もらった抗生物質は“Zinnat” で、合計でS$180 ほどだった。

4日間で4本注射。昔の日本では、当たり前だったけど、そのうち注射する医師は減る一方、点滴や薬剤での治療が増えた。シンガポールでは点滴を受けたこともなく、薬剤治療が主流のように思う。今回の注射の回数からして、症状がよほどひどかったんだろう。

しばらくつばも飲み込めないほど、すっかり病人で、中日優勝も北朝鮮の核実験も昨日まで知らなかった。

Sunday, October 08, 2006

Not Recovered Yet. Feeling Even Worse

抗生物質(Augmex)をもらって期待したのに、金曜日の夜にはまた熱が上がっていた。フラフラするし、まったく体調は回復していない。

Friday, October 06, 2006

Throat Infection and Taiwan Story

昨日の夜、薬局でlozenge (トローチ)を買ってきたが、あんまり効果がない。抗生物質が欲しかったんだけど、処方箋なしでは薬局で売ってくれない。前日(水曜日)の夜、すっきり眠れなかったので、昨日は大丈夫かと思えば、台湾に出張したときのことなど、いろいろ思うところあって、文章が浮かび、また眠れなかった。

けさ、熱は下がっていたが、のどの痛みは相変わらずひどかった。我慢できずに病院に行った。

“Quite Bad! Why didn’t you come see a doctor earlier??”

と言われてしまった。熱が急上昇するときは、きまってthroat infection で、Dr. Goh にも、“Bad infection!!” と叫ばれたことがあるし、おどろくことはなかったが、つらいことに変わりはない。何でもっと早く診察に行かなかったのかと言えば、毎日仕事に行くつもりが、それが実現していないので、本当に体調が悪いときでも「休んではならぬ」と感じているから。

1999 年の年末、エンジニアで韓国の仕事を通じて知り合ったKW さんが、「いっしょに台湾、行かへんか」と電話にメッセージを残していた。

1997 年のアジア通貨危機が韓国にも影響して、98 年夏には永久に継続しそうだった仕事の契約がなくなってから、つらい毎日だった。家賃はもちろん、仕送りを停止するわけにもいかず、口座残高が激減していた。99 年夏、建設が進んでいたUSJ の現場で通訳するという願ってもない仕事の話が舞い込んだが、業務内容の説明を受けているときに脳天から汗が噴き出し始め、意識が消えていった。工事現場で同じこと発生することを想像して、さすがに怖気を感じて辞退してしまった。

それから数カ月して、ネットで見つけた長野県の会社から自動車部品関連の翻訳で大量の仕事をもらうことができ、以降まずまず定期的に仕事をいただいていた。そんな状況だったので、大して飲めないのに飲むと酒癖の悪いKW さんから連絡をもらったときには早急に仕事をつかむ必要はなかったが、海外出張の誘惑にはやはり抵抗できなかった。期間は2カ月。資源再生施設、早い話がごみ処理場の電気設計に行くというものだった。

「自分でいいのか」という不安もあった。しかし、出発前にはKW さんと2人組で仕事をすると説明を受け、「仕事ができなかったとしても、選んだ人の責任」だと言ってくれる友人もあり、翌年の年明け早々に渡台した。

施設は彰化県渓州郷、また宿泊先となったアパートは同県北斗鎮にあった。リビングルームの壁には前年の大地震でできたひびが残っていた。アパートから台中までは車で1時間ほどの距離だったように思う。

さて、現場事務所に到着するとさっそく仕事内容の説明を受けた。現場監督が言うには「KW さんには蛍光灯の配線を、それからあなたには……」。「え、別の仕事をするのか」と思った瞬間、ショックでめまいと吐き気に襲われ、トイレに駆け込んだ。到着早々、「失礼しました」と言って日本に帰るわけにもいかず、その日の夜の歓迎会に参加した。

翌日、自分に与えられる仕事の説明で、資料を見ると、シーケンスと端子図ではないか。これで結線表を作成してほしいという。これなら「永久に継続しそうだった仕事」でやっていたことと同じだと思うと気が楽になった。それから、資料と現場の現状を基にしてせっせとエクセルで表作成を進めた。ただ、現場の階段が手すりのない状態だったり、床は金属のメッシュ板がはめこまれただけで、下を向くと吸い込まれそうになって、はなはだ恐ろしかった。

KW さんと自分のほかにもうひとり電気設計を担当していた人がいた。新潟県出身のおじさんで、高校時代はボクサー。大阪のおそらく淡路商店街で警官にパンチをくらわし、堺刑務所にいたことがあると話していた。どうみてもサラリーマン・エンジニアにはなれそうにない人だった。

現場を案内してくれたとき、「どうもヘルメットが似合わなくて」と言うと、「いやいや、ピッタリじゃないですか。優秀な人に来てもらえて助かります」。

知った仕事とは言え、本物のエンジニアではないことがバレるのを心配して、できるだけ業界の話などには加わらず、だまってコンピューター画面を見つめる毎日だった。現場監督からは、「本当に仕事ができる人はだまって仕事をするんだ」とお褒めの言葉さえいただいた。元請けの巨大会社とのミーティングで、資料を作成して問題を指摘したのは自分だけだったりして、さらに評価を上げてしまった。

この現場には特殊なことがあった。現場作業員のほとんどとCAD 操作、資料管理などの担当はフィリピンからの若者だった。彼らとの意思疎通に問題がないのは自分だけ。現場監督は、配線と結線が終了して実施する「調整にも残ってもらおうと考えています」と言い出していた。

1カ月していったん帰国したが数日後に再渡台。監督はマンホールに転落して入院してしまっていた。マンホールの「ふた代わり」に使われていたケーブルドラムを、そうとは知らずに持ち上げたところ数メートル下まで落下してしまったのだ。

以後、滞在延長する話は幸運にして立ち消えとなり、3月半ばに帰国した。延長話が消滅したのは、KW さんの酒癖が大きな原因だったと思う。

帰国する数日前、いっしょに仕事をしていたフィリピン人エンジニアの2人が自分に別々に封筒を渡した。中には履歴書が同封されており、「日本での仕事をよろしく」という意味だとすぐにわかった。エンジニアではない自分にそんな力があるわけがなく、彼らには悪いことをした。2カ月間、みんなを欺き続けたのだから。

“You have been very nice to us. You are THE MAN!!” と別れの挨拶をしてくれたRobert や、“You are a very good engineer!!” と言ってくれたフィリピンと台湾のエンジニアに、ここで感謝、そして謝罪する。

Thursday, October 05, 2006

American Prometheus -- Another Depressed Man

“American Prometheus”… またうつ病の人の話ではないか。りんごに毒を入れて英ケンブリッジ大学での担当教員のひとりを病気にさせようとしたり、友人の首を絞めたりと「穏やかなうつ」ではなく、かなり攻撃的だ。凡人なら得られない履歴であって、この人の場合こそ、頭脳明晰すぎたのかも知れない。

仕事をポコポコ休んでおきながら言うのも変だとわかっているが、不信があるならそれを払拭していくなど、力になりたいと思う。「若者と働く」のはおもしろい。ゲーム開発業界の労働事情のひどさは世界共通のようだ。この前の書き込みで、A社長の意識変革について触れたけど、元はと言えば設立時の責任者、つまり彼の前任者の怠慢が今も尾を引いているというのが真実だ。搾取者ではないとわかってもらいたい。

熱のせいで背中の筋肉が痛い……。

Sickly (but Not Mentally)...

のどが痛い。とっても痛い。熱もありそう。

Tuesday, October 03, 2006

Fushigi na Kuni

先週末、FEER が発禁処分になった。世銀と国際通貨基金の総会で、一部NGO の抗議行動が認められたが、国内問題に関する行動は許されない。

Monday, October 02, 2006

Last Game at Osaka Stadium

YouTube には、南海ホークスの大阪球場最終戦の模様もアップされていた(「プロ野球ニュース」から)。あの日、仕事を休んで難波へ。いつもなら、余裕で入場できる大阪球場も超満員。外野席は無料だったように記憶する。1塁側内野席の最上段にやっと場所を見つけ、試合開始から終了まで立ち見だった。昭和52 年のシーズン終了間際の「野村解任」からホークスはAクラスにすら留まることができず、球団売却の不名誉をいただく。最終戦に向かう途中、京阪淀屋橋駅のプラットホームで当時の吉村ホークス社長とすれ違った。(別人ではないと今でも信じる。)

ウィニングホールを惜しげもなくスタンドに投げ入れた井上裕二。試合終了後、整列した杉浦監督以下、コーチと選手ら。早すぎる現役引退だった藤原満。その後、オリックスに移籍したあと、(福岡ダイエー)ホークスに戻ってくることになる門田博光。スタンドのあちこちに涙いっぱいの人がいた。

同じような思いをしたのは昭和52 年の最終戦。観客は1000 人に満たないほど。日本シリーズ後の前期消化試合という無残な状況だった。穴吹代理監督の下での相手は日本ハム。ボロ負け。退団が確実視されていた柏原だったが、笑顔でスタンドに手を振っていた。同じく「野村派」だった江夏はうつむいたままだった。

今、ノムラさんは楽天監督。息子のカツノリの現役引退が発表された。コーチとしてチームに残るだろう。ヤクルト、阪神、楽天と同一チームに所属。ホークスの監督解任の理由だった公私混同が、ここでもそれがあからさまに観察できる。

Oppenheimer -- Prometheus

けさ(1日)早く。蚊に襲われていた。起きたら右目のまぶたがすっかり腫れていた。腫れが引くことを祈って、ジムに行く時間を遅らせたがムダだった。夕方になってから、久しぶりにRay-Ban をかけて出掛けた。

昨日の夜はJB に行った。どうせ出国するなら別の場所に行きたいが、仕方がない。ただでさえ疑っているような入国審査係官の表情がなおさらそんなふうに見える。

“American Prometheus” (Kai Bird/Martin J. Sherwin) を読み始めた。原子爆弾を開発したロバート・オッペンハイマーの一生を追う。日本人にも当然関係ある人の話だ。プロメテウスは人間に火を与えたギリシャ神。ゼウスによって鎖につながれ、ハゲタカがその肝臓を襲った。