Tuesday, July 27, 2004

Nakajima Ramo Dies

数日前から、右背中下に鈍痛を感じる。「大洋」にいた頃よく感じていた痛みとまったく同じ。当時、「桜橋病院」に行ったが、「そんなところに内臓はないから、筋肉痛だ」と言われた。こんな筋肉痛があるはずないが、原因がわからずガマンしていた。腎臓にすれば位置が下すぎるような気がする。痛みがひどいときは、そこに手を当てて、こらえていた。その後、仕事をやめてから痛みは消えた。

仕事をしていないと痛みがないことから、体が疲れると現れる症状かな、と思っている。最近、疲れていないわけがないから。「大洋」当時と比べて、仕事の時間は圧倒的に長いが、酒量はかなり減った。

先週の木曜日(22日)は、翌日の朝2時半までだった。1週目は4時。2週目は4時半。3週目3時20分。改善が見られる。今週は1時が目標か。

米民主党大会開幕。クリントン登場。やっぱり、「しゃべりはうまい」。

中島らも死去。なんでやねん。

Monday, July 26, 2004

Time Flying

7 月が終わろうとしている。日が経つのが早すぎる。

今日(26日)、第4号が町に出る。

Tuesday, July 20, 2004

Former PM Suzuki Dies. Carlos Kleiber Dies


鈴木元首相のことに触れたら、昨日「おくやみ記事」を見つけてしまった。

けさ、Carlos Kleiber 死去のニュースに出くわす。

Sunday, July 18, 2004

How Come Like Dat One Nah?

木曜日の仕事は金曜日の朝3時20分頃まで。印刷もやっと次号から落ち着くだろう。
印刷に問題がなくなれば、内容が一層問われる。ミスは許されない。

今日(土曜日)、去年の税金払った。

多言語ミックスで「お好み焼き」みたいな「シングリッシュ」とやらには、大いに笑かされる。
ここに来た当初は、シングリッシュが「ケッタイ」で、できるだけマネしていた。"Dis one nah..." と最初に言われたときは、それが関西弁の「これな…」のように聞こえ、親しみを感じたものだ。"lah" とか"nah" とか "ah" とかは気にならない。"th" 音が "t" 音になるので、"tree" と "three" や "true" と "through" が同じ発音になるのも、語尾の子音を無視したりするのもあんまり気にならない。そんなカタカナ的発音は多くの日本人にも共通している。(もちろん、カタカナの場合は、「ツリー」、「スリー」、「トゥルー(ツルー)」、「スルー」だが。)

ただ、極端な英文法無視には絶句する。例えば、
"How come like dat one nah?"(なんでやねん?)
"Dis one from where one nah?"(これどこにあったん?)
"Cannot lah."(でけへんわ/あかんわ。)
"Don wan nah."(いらんわ。)
"Can?"("Can you manage it?" や "Can I do it?" を意味している場合が多い。)
などは許せない例だが、「三単現の"s"」や複数形も平気で無視する。
"She don..." などとよく耳にするでしょう。許さない。

ある時、タバコを買いに行って、"I'm gonna have a pack of Marlboro Lights and a lighter too." と言うと、店のオバちゃんに "Two lighter?" と言われたことがあった。許さない。

付加疑問文っていうのがあるが、ここではすべて文末が"... is it?" で終わる。"It isn't that... " と始めたとも仮定できるが、あり得ない。許さない。

言葉の意味をよく知らずに使っていると思われるものに、
Return back(何回戻ってくるんでしょう?)
U-turn back(何回Uターンするつもりでしょう?)
Call back(誰が誰にかけ直すのでしょう?)
Repeat again(何回繰返すのでしょう?)
なんかがある。

それから、構文が見事に破壊されている例には、
"Prawn can eat already." などの場合。これはいっしょに食事をしていたQちゃんの発言で、もう少し正確に書くと、"Prawn, can eat already." だろうか。

鍋物を楽しんでいる時で、「もうエビは食える」と言ったわけだが、それを知りながら、わざと"Prawn can eat what!?" と聞き返してみた。エビに必死だったようで、"Prawn can eat already!" と繰返されただけだった。

初対面のときは、それなりに「マトモな英語」を話していた人が、親しくなるにつれて「シングリッシュ・スピーカー」と化していくのに遭遇することも多い。まだ「マトモ英語」を話そうとすれば話せる人はいいのだが、上記の例のような言語しか話せない人もいるようだ。シンガポールのバイリンガル教育が果たしてきた役割は大きいが、その一方でどの言語も満足に話せない人たち(「ダブル・ハーフリンガル」)を生み出したことも事実だろう。

うちには、1枚の白黒写真がある。某スポーツ紙に掲載されたもの。昭和55年4月21日(月)、南海×日本ハム(大阪)。「5回から登板した藤田学投手が半年ぶりに白星を挙げる」と書かれている。試合終了の瞬間、帽子に手をやって満面笑みの同投手。

藤田学-愛媛県南宇和高校出身。昭和51年パリーグ新人王。
昭和48年秋、南海ホークスのドラフト1位。江川卓、掛布雅之と同年。
2年間の「英才教育」を経て、51年、始めて一軍昇格。前期成績は1勝2敗。後期10勝1敗。年間防御率1.98。翌年から2年続けて16勝。開幕投手として登板した昭和54年の対阪急戦(西宮)で左内転筋を痛める。以後、満足な成績を挙げることなく昭和61年のシーズン後引退。通算成績は72勝65敗。
『南海ホークスがあったころ』(永井良和/橋爪紳也共著、紀伊國屋書店)は、南海ホークスの歴史を辿りながら、都市計画を論じた一冊。この本が藤田学に触れる個所がある。福岡ダイエーホークスのコーチとして、胴上げに参加している藤田学を見つけた著者が感慨深げに彼を語っているページだ。強すぎた阪急ブレーブスの前に優勝できなかった昭和51年と52年。「野村解任」の後は、パリーグのお荷物となった南海ホークス。そして勝てなくなった藤田学。彼が投げる日は、阪急にも勝てると信じたあのころ。彼の野球人生はあの胴上げで報われたに違いない。

Monday, July 12, 2004

Pacific League Disappearing?

パリーグがなくなる可能性大だ。関西のパリーグ・ファンの悲しみはとりわけ大きいだろう。

南海、阪急が一気になくなり、今度は近鉄。「お荷物」と呼ばれた時代から、何とか球団経営を続けていた近鉄球団には敬意さえ感じていたが、「身売り」して「バファローズ」の名を残そうと努力をしたようにも見えず、「命名権売却」を言い出したと思ったらすぐにひっこめ、今度は勝手に合併して、おまけにパリーグを消滅させたとしたら、その罪は限りなく重い。

フランチャイズは移っても、「ホークス」の名を叫ぶことのできる旧南海ファンはまだ幸せなのか。しかし、もう「ひとつの合併」が噂されており、「ホークス」は今度こそ消え去ってしまうかもしれない。

ドーム球場の出現した頃から、野球は野球ではなく、もっと大きなレジャー産業の一部となってしまったようだ。ドーム球場では野球を観る必要はない。それなりに「気の利いた」レストランで食事する合間に、「目をそらして野球を眺める」ということもできる。行き先に迷った家族は、退屈しないドーム球場へと足を運ぶ。野球場であるのは単なる偶然に過ぎないし、野球場である必要もない。

そして、「1リーグ制」などと言って、読売に同調するような態度の阪神球団。「アンチ巨人」のはずなのに。情けない。

「大阪」、「西宮」、「日生」がなつかしい。

大学で「国際関係論」を受講していた。大学名と担当教授名は伏せるが、かなり乱暴な授業だった。時代は80年代後半で、まだ中曽根康弘が首相で、ソビエト連邦が存在し、G7 サミットが大ニュースだった頃。教授は、「オモシロ、オカシク、ワカリヤスク」授業を進める意図だったのかもしれないが、こんなことがあった。

「国鉄と農家の子、いるか?」何人かの学生が手を上げた。
「耳、閉じろ。」
「???」
「泥棒の子!」

また、こんなこともあった。鈴木善幸が首相になったとき、漁村出身のこの人を海外メディアが"Fisherman Suzuki"と報じていたと嘆いた後、「中曽根、やったねぇ」。

アメリカのウィリアムズバーグで開かれたG7 サミットの記念撮影で、中曽根首相が真ん中に近い場所に写っていたのだ。それまでの(その後も)日本の首相と言えば、隅っこに遠慮がちに半ば仲間はずれにあったように写真に収まるのが決まりのようだった。しかし、私が確認したところでは、中曽根氏はこの「フォト・オプ」で、やはり隅っこにいたのだ。ただ、この人がすごいのは、準備していたかのように、撮影直前にスルスルと中央に場所を移したこと。チャッカリ者ですね、この人。

この教授の授業では、またまた、こんなこともあった。教室に入ってきた教授は、教壇の上に「雪見大福」の空箱が(なぜか)置かれていることに気づき、いたく気分を害したらしく、その日の講義はその時点で終了となった。

Sunday, July 11, 2004

Edwards Chosen as VP Candidate

創刊号、世に出る。SPH の印刷は大失敗。最初からつまずく。一面記事に誤字発見。情けない。

8日(木)。金曜日の朝4時半まで仕事。やり方を考えないと、遅かれ早かれ破綻が来る。

党大会での正式指名を前に、米民主党のケリー上院議員が副大統領候補にエドワーズ上院議員を選んだ。

副大統領候補が大統領選挙の結果に影響することはほとんどないと言われているが、テキサス州をケネディー陣営にもたらしたジョンソン候補の例(60年)などもある。

「国家元首の葬儀参列が副大統領の仕事」とかつては言われていたが、ゴア前副大統領や現在のチェイニー副大統領などは政策決定に深く関わり、以前の副大統領のイメージを変えてしまったと言えるだろう。
また、注目度の低い副大統領候補のテレビ討論でも、記憶に残る場面はあった。

88年のテレビ討論で、「若さだけ」が売り物だったクエール候補(共和)が自らを JFK になぞらえたが、ベテラン議員だった民主党のベンツェン候補は、「ケネディのことなら知っている。キミはケネディじゃない」と一蹴。クエール候補の顔は確かに引き攣っていた。

92年、ペロー氏の立候補で三つ巴となった年。彼が副大統領候補に選んだのは政治経験も知名度もない元軍人のストックデール氏。討論のオープニングでの発言。"Who am I? Why am I here?"

Sunday, July 04, 2004

Very First Issue to Be Published

木曜日(1日)の仕事、翌日の朝4時まで終わらなかった。出版物の編集作業とは、こんなもんだろう。

昨日夜、去年の所得税請求書が届いていた。

5日(月曜日)、いよいよ創刊号が世に出る。

"The Scent of Green Papaya" と「東京物語」、「生きる」の DVDを HMV で発見したので買ってしまった。散財。どれも見たかった映画で探していたものばかり。「生きる」と先週買った"Roger & Me" はまだ見ていない。