「……いま見るかつての日本人花街は、シンガポール人にたいする非礼をかえりみずに記せば、スラムという言葉がもっとも当たっているような街であった」
「伝手がないためわたしは、それらかつての日本人娼館の内部に入ってみることはでなかったが、しかし、この街の近くで育ったという太田さんの話では、二、三階の部屋はいずれも日本の六畳間ぐらいの広さであるという、台所とトイレットの備わっている部屋はひとつも無く、各階に共用のものがあるばかりだというが、そのことは、元来これらの部屋が居住のためではなく娼売用のものであったことを間接的に示していると言わなくてはなるまい、そして現在、老朽したこれらの部屋のひと月の間代は三十ドル前後で、住んでいる人はもちろん華人系に限られ、しかも船員・店員・工員・運転手など主として肉体労働にたずさわる人びとと、いわゆる水商売関係の女性などが多いということだ」
「――わたしが書物や古老の談話などから得た知識によるなら、シンガポールにおける日本人娼婦の第一号は、明治初年にシンガポールで夫のイギリス人が死んだため生活の方途を失った日本人妻だとも言われ、また明治四年にシンガポールへ上陸した横浜生まれのお豊という女性であるとも言われている。このほかにもまだ、黒髪を切り男装してシンガポールへ渡って来たおヤスという女性が最初だとか、サーカス団の一員としてシンガポールに来てそのまま帰らなかった通称<伝多の婆さん>が嚆矢だとかいった説もあるが、いずれにせよ明治期も非常に早い頃からからゆきさんの歴史ははじまっていると言わなくてはならない。そして西郷隆盛が鹿児島で死んだ明治十年に、早くもマレー街に二軒の日本人娼館が建ったのを手はじめとして、年を追って日本人娼館はふえてゆき、明治二十年にはからゆきさんの数およそ百人、明治三十五年には娼館八十三、からゆきさん六百十一人、日露戦争の勃発した明治三十七年には娼館百一、からゆきさん九百二人というぐあいに急増して行ったのである」
貧困と性差別を根底の原因とした海外売春だったが、平成も20年を過ぎた今、日本国内では少女によるフリーランス売春がめずらしくない。数年前だったか、「貧困を理由としない売春が存在するのは日本だけ」と言った人がいたはず。女性史にとってどういう意味を持つのだろうか。
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金曜日が祝日だったため3週間通訳の最終日となった木曜日の夜、「ヴァカ社長」の姿を運悪く見た。そして翌金曜日の午後、その社長と一時期、抜き差しならぬ間柄にあり、自分にとっては社長同様に忌み嫌いたい女性から電話があった。わざわざうちの電話番号を人に確認してまでの連絡だったが、偶然なのか。その話の内容は、政治史を中途半端にかじった人の戯言のように聞こえた。
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