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何で今頃と思われるだろうが、山崎朋子の「サンダカン八番娼館」を木曜日夜から読み始め、その「エピローグ」まで進めた。同書によると、「おサキさん」の夫だった北川新太郎は、「明治弐拾九年五月拾八日、京都府紀伊郡深草町字**参拾壱番地」で出生とあり、「深草」の文字に心が騒いだ。次いで、「昭和参十弐年七月弐拾参日午後参時八分、京都市伏見町深草向畑町官有地で死去」とあるではないか!そこはおそらく国立京都病院の住所だろう。ちょっと先読みして、併録されている「シンガポール花街の跡」を覗くと、
「……さっきまで歩いていたモダンな大通りとちがってそのあたりは、さして広からぬ道をはさんで両側に古びた二、三階の商店がひしめく街―いわゆるチャイナ・タウンであった。そしてわたしがその街の商店看板などのどぎつい色彩に眼を奪われているうち、太田さんはいくつかの街角を指さして、『山崎さん、ここがその昔のステレツですよ――』といったのである」
「ちょうど眼の前が十字路で、道をへだてた向こう側の建物の壁に細長い街路標があったので瞳をこらすと、一方の側のそれには、『MALAY STREET(馬来街)』の文字が、もう一方の側のそれには、『HYLAM STREET』の文字が読めた。わたしは、胸のとどろくのをおさえることができなかった」
1974年に書かれたものだ。「Malay Street」に「Hylam Street」、そして同じ地区にあると記述されている「Malabar Street」。聞き覚えはあるが、「チャイナ・タウン」にあるように思えず、オンライン地図(www.streetdirectory.com)で確認しようとすると、いずれの通りも検索にかからない。それもそのはずで、どれも現在は1995年9月にオープンした「Bugis Junction」内の「屋内標識」でしかお目にかかれない通りなのだ。あの辺りはチャイナタウンの一部とされていたのだろうか。当地の国立図書館のウェブサイト(http://infopedia.nl.sg/articles/SIP_297_2004-12-20.html)には、「Malay Street」の呼称について「Chinese: Jit-pun koi (Hokkien), meaning "Japanese Street", referring to the Japanese prostitutes on this street. Yat pun chai kai (Cantonese), meaning "Japanese brothel street"」との記述がある。
「おサキさん」が北ボルネオのサンダカンへ渡ってから90年ほど経過している今でも、人種や出身国の構成が変化しただけで出稼ぎ売春はなくなっていない。
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