I believe that it’s nicely healing. I can’t wait another week to have the stitches removed!!
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Today, I read through some past Straits Times articles on dengue fever and chikungunya fever and summarized them into a short report in a preparation for an interpretation work for a Japanese TV station crew scheduled next week and the one after. On 23rd, regrettably, I won’t be available because it is the day when the stitches will be removed.*
著者の書き方がそうさせるのかもしれないが、高畠コーチの生涯は悲壮なものさえ感じさせる。自分の知る野村ホークスには、彼が欠かせない存在だった。彼の中学・高校時代、ノンプロ時代、ノンプロを経ての大学時代、そして現役時代。どれも彼について新たに知ることばかりだ。「甲子園への遺言」での藤原満の述懐。「……力まかせと根性野球が、私がそれまで学んできた野球でしたね」
「私が14年間、プロで現役をつづけられたのは、打法を変えたからです。シンキングベースボールと呼ばれた当時の南海の野球と、高さんからもらった“すりこぎバット”。この2つのおかげで私はプロ野球選手として生き抜いていくことができましたね」
「あれは5年目のシーズンが始まる年のキャンプでした。オープン戦の最終戦、自分の使っていたパットがすべて折れてしまいましたね」
「残った最後のバットが、高さんが、武上さんからもらってきてくれていたすりこぎバットだったんです。高さんが、このバットはいいぞと熱心に勧めてくれていました。それで打席に入って、思いっきり引っ張ったら、打球がレフトスタンドに飛び込んだんです。これは、と思いましたよ。さっそく同じ形のバットを注文してつくりました。僕のはマスコットバットより重くて、1000グラム以上はありましたね」
藤原は打席に入ると、必ずこの1000グラム以上のバットでホームベースをガツンと叩いてからバッターボックスでの自分の足場をスパイクで慣らし、固めていた。どこで読んだのか忘れてしまったが、ある日、いつものようにバットでベースを思いっきり真上から叩くと、バットが折れてしまったという逸話もある。彼の引退は早すぎた。特に当時の選手不足を考えると……。コーチに就任するなら、現役と兼任でよかったのではないかと今でも思う。
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