I came across this passage today: “It is important to go through all the details outlined…”
Outlined details?? If it’s only outlined, it can’t be details!! And you asked me to translate this into a coherent Japanese sentence?? I believe only people whose first language is English can write this kind of stupid sentences.
Should I have my hair cut….??? It’s been six months since the last haircut. But then… how about this maestro, here at his last concert at Tanglewood as Music Director?
Wednesday, January 30, 2008
Sunday, January 27, 2008
George Habash and Suharto Dead
Obits: George Habash, a great fighter for the Palestinian cause and the leader of the Popular Front for the Liberation of Palestine (PFLP), and Suharto, the second President of Indonesia and a friend of MM Lee
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Last Friday night, I went to two Indian pubs with A and DD in Little India.
Thursday, January 24, 2008
"Gong Xi Ni" Song Again... and My First Class
Here we go again. This is the time of year when we are forced to hear that “恭嬉, 恭嬉, 恭嬉你” song. I can’t quite explain why, but I hate the song. It just irritates me. Is it because of the melody? Everywhere, it’s “♫ 恭嬉, 恭嬉, 恭嬉你”!! Who created the music???
This has been my very first time to teach English in English. A nice experience, but I had great hesitation to sing a song… (I wish to have a higher voice. It’s not good to sing songs in a depressingly low voice in class, maybe unless I am a Zappa. Well, perhaps I should do some karaoke exercise.)
The students (we had three) are all from the mainland China. One of them really can’t count numbers in English! One hundred, two hundred… and ordinal numbers, first, second, third… This is exactly one of the situations where creativity counts to elicit just about anything from them. That’s the reality about mainlanders here, I guess. Although I know that I could have been more “uninhibited,” some nervousness crept into me…
As I recall the days when I was teaching in Japan, it is very important to connect with students. If I have a good rapport with them, it certainly facilitates for moving a class forward. It takes time, I know, to get to know the students. But it was fun today.
*
This afternoon, I went to an extra class in Kallang where I and my classmates were supposed to observe a lesson to be conducted by a trainee teacher. It turned out that we, not yet teachers, would conduct the class!!This has been my very first time to teach English in English. A nice experience, but I had great hesitation to sing a song… (I wish to have a higher voice. It’s not good to sing songs in a depressingly low voice in class, maybe unless I am a Zappa. Well, perhaps I should do some karaoke exercise.)
The students (we had three) are all from the mainland China. One of them really can’t count numbers in English! One hundred, two hundred… and ordinal numbers, first, second, third… This is exactly one of the situations where creativity counts to elicit just about anything from them. That’s the reality about mainlanders here, I guess. Although I know that I could have been more “uninhibited,” some nervousness crept into me…
As I recall the days when I was teaching in Japan, it is very important to connect with students. If I have a good rapport with them, it certainly facilitates for moving a class forward. It takes time, I know, to get to know the students. But it was fun today.
Wednesday, January 23, 2008
Yo, Man, Study More!
It seems that I should devote far more time to the TESOL course. While some assignments are fairly easy, others take substantial time to complete. Definitely, I must avoid a situation where assignments are piling up.
*
“Google AdSense” is quite funny and ludicrous. Now it is showing, 「冷却塔」「巨乳」「巨尻」「前田敦子」. I’ve never talked about any of them in my blog. And who is 前田敦子? 毎日放送の「石田敦子」なら知ってるけど。
Tuesday, January 22, 2008
Remembering October 15, 1988
1988(昭和63)年10月15日。大手スーパーのダイエーへの球団売却が決まった南海ホークスが行った本拠地、大阪球場最後の試合。内外野席は無料解放だった。かろうじて確保した場所は1塁側スタンドの最上段で、大阪球場で最初で最後の立ち見を経験した。難波到着がもう少し遅れていたら、入場することさえできなかったはず。
南海・西鉄の黄金期を過ぎてから、この球場での満員札止めは、公式戦ではなく、対巨人、対阪神のオープン戦か、オールスター戦ぐらいのものだった。
77(昭和52)年の10月、同年の最終戦は対日本ハムだった。この試合は当時2シーズン制だったパリーグが後期の全日程を終えた後に組んだ前期消化試合で、観客は1人、2人と数えられるほど。おまけに10月の夜間という全く寒いものだった。野村解任が発表された後、急遽指揮を執ったのは、穴吹義雄二軍監督で、同じく大阪球場最終戦だった。試合後、首脳陣と選手全員がグランドに整列。ベンチに帰ってくる時、すでに退団が噂されていた江夏はうつむいたまま。一方、同じく退団が確実視された柏原はスタンドに向かって笑顔で、「柏原は残る」と思ったのに……。
さて、身売りの決まった南海の先発は西川佳明。出塁した近鉄の新井宏昌に対し、1塁ベースを守るのは河埜敬幸。かつては同じホークスのユニフォームを着て、ここを本拠地として、ほぼ同時期に「センター新井」「セカンド河埜」とレギュラーとなった2人が、最終戦で顔を合わせるとは。試合終了後、杉浦忠監督、コーチと選手の全員が名前をアナウンスされながら、グランドに出てきた。「藤原満コーチ」と聞こえた時、近くにいたおっさんが「藤原……」とつぶやいた。門田博光とともに南海ホークスを引っ張った藤原に対するこのおっさんの気持ちが痛く痛くわかった。彼が現役をもっと長く続けていれば、南海ホークスの成績は多少はマシだったはず。コーチに就任させてしまった穴吹監督(当時)の責任は重いと思う。
ホークスの福岡移転から20年。杉浦監督に花束を渡した近鉄の仰木彬監督。両人ともこの世から去ってしまった。
余談だが、大学生のとき学校にテレビ朝日解説者だったノムラさんが講演に来たことがあった。「穴吹という男は律儀深く、中元歳暮をかかさなかった。しかし、解任の年には中元が来なかった」らしい。さらに余談。ベースボールマガジン社が88年12月に発行した別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス・永久保存版」には、少なくとも2カ所の誤りがある。ひとつは藤田学の写真に付けたキャプションで、「……入団していきなり……新人王に」とある。彼が新人王になったのは入団3年目。もうひとつは、101ページ。「陽気なホームラン打者、ジョーンズ」のキャプション。この写真、「ジョーンズ」やなくて「ピアース」。
しかし、同じく88年にオリエントリース(現オリックス)への売却が決まって消滅した阪急ブレーブスは南海ほどの扱いを受けなかった。誰も予期していなかったからかもしれないが、常勝阪急への扱いとしては全く不十分。阪急ブレーブスについても、ベースボールマガジン社は別冊号を出すべきだった。
南海・西鉄の黄金期を過ぎてから、この球場での満員札止めは、公式戦ではなく、対巨人、対阪神のオープン戦か、オールスター戦ぐらいのものだった。
77(昭和52)年の10月、同年の最終戦は対日本ハムだった。この試合は当時2シーズン制だったパリーグが後期の全日程を終えた後に組んだ前期消化試合で、観客は1人、2人と数えられるほど。おまけに10月の夜間という全く寒いものだった。野村解任が発表された後、急遽指揮を執ったのは、穴吹義雄二軍監督で、同じく大阪球場最終戦だった。試合後、首脳陣と選手全員がグランドに整列。ベンチに帰ってくる時、すでに退団が噂されていた江夏はうつむいたまま。一方、同じく退団が確実視された柏原はスタンドに向かって笑顔で、「柏原は残る」と思ったのに……。
さて、身売りの決まった南海の先発は西川佳明。出塁した近鉄の新井宏昌に対し、1塁ベースを守るのは河埜敬幸。かつては同じホークスのユニフォームを着て、ここを本拠地として、ほぼ同時期に「センター新井」「セカンド河埜」とレギュラーとなった2人が、最終戦で顔を合わせるとは。試合終了後、杉浦忠監督、コーチと選手の全員が名前をアナウンスされながら、グランドに出てきた。「藤原満コーチ」と聞こえた時、近くにいたおっさんが「藤原……」とつぶやいた。門田博光とともに南海ホークスを引っ張った藤原に対するこのおっさんの気持ちが痛く痛くわかった。彼が現役をもっと長く続けていれば、南海ホークスの成績は多少はマシだったはず。コーチに就任させてしまった穴吹監督(当時)の責任は重いと思う。
ホークスの福岡移転から20年。杉浦監督に花束を渡した近鉄の仰木彬監督。両人ともこの世から去ってしまった。
余談だが、大学生のとき学校にテレビ朝日解説者だったノムラさんが講演に来たことがあった。「穴吹という男は律儀深く、中元歳暮をかかさなかった。しかし、解任の年には中元が来なかった」らしい。さらに余談。ベースボールマガジン社が88年12月に発行した別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス・永久保存版」には、少なくとも2カ所の誤りがある。ひとつは藤田学の写真に付けたキャプションで、「……入団していきなり……新人王に」とある。彼が新人王になったのは入団3年目。もうひとつは、101ページ。「陽気なホームラン打者、ジョーンズ」のキャプション。この写真、「ジョーンズ」やなくて「ピアース」。
しかし、同じく88年にオリエントリース(現オリックス)への売却が決まって消滅した阪急ブレーブスは南海ほどの扱いを受けなかった。誰も予期していなかったからかもしれないが、常勝阪急への扱いとしては全く不十分。阪急ブレーブスについても、ベースボールマガジン社は別冊号を出すべきだった。
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TESOLテキストを読んでると、1時間以内に眠ってしまう。いかんいかん。たくさん課題があるのに。
Saturday, January 19, 2008
No Season, No Date
That there is no season is causing problems here, while I’m processing pictures. I try to bring up any memory to know when photos were taken when there are no dates specified. No change of clothing. No change of the color of the sky. It is often extremely hard, or simply impossible, to search and find any clue from images of any person or object in the photos as to when they were taken.
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I attended the second workshop of TESOL today. Things are becoming a bit complicated and it shouldn’t be so easy to turn what I’m learning into something tangible that can be applied to the real situation, e.g. classrooms. The “the more bizarre you are, the better you are” principle was not something to be observed when I had a teaching job back in Japan.
Thursday, January 17, 2008
Angela Asaoka
おととい、昨日と「南海ホークスファンブック」をデジカメ撮影していた。日劇ミュージックホールのダンサーだったアンジェラ浅丘の写真を見て、「ウィキペディア」を検索するも該当なし。夫であるはずの「佐藤道郎」のページを見て、離婚していたことを知って、ちょっとびっくり。「前夫人」には言及しているが、なぜか「アンジェラ浅丘」の名前はない。
佐藤ミチは、南海から大洋にトレードされて現役引退してから、南海であろうと、ダイエーであろうと、ソフトバンクであろうと、一度もホークスには戻ってきていない。
南海ホークスで唯一センスがあったのは、ユニフォームの胸を飾っていた「Hawks」マーク。だが、後年の印刷物で使用されているものは実際のユニフォームのマークとは微妙に違う。ファンブックを見比べていると、野村時代の印刷には実際に近いものが使われている。野村解任と何か関係があるのだろうか。
佐藤ミチは、南海から大洋にトレードされて現役引退してから、南海であろうと、ダイエーであろうと、ソフトバンクであろうと、一度もホークスには戻ってきていない。
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それにしても、特に広瀬が監督になって3年目以降、「南海ホークスファンブック」の洗練さ欠如は見事だ。残しておきたいと思わせる写真がどんどん減っていく。球団は余程の「シブちん」だったようだ。残念なのは、確かA3版だった昭和49年度版を所有していないこと。前年はパリーグ優勝の年で、後年のものと比べて豪華だったに違いない。一方、阪急ブレーブスの「イヤーブック」はA5版だったと思うが、阪急沿線の上品さを反映してか、子供の目には「カッコイイ」ものだった。一冊も残していないのが悔やまれる。また、太田幸司が表紙だった近鉄バファローズのファンブックを球団に電話して注文したところ、速達で送ってくれたこともなつかしい。これも残っていない。南海ホークスで唯一センスがあったのは、ユニフォームの胸を飾っていた「Hawks」マーク。だが、後年の印刷物で使用されているものは実際のユニフォームのマークとは微妙に違う。ファンブックを見比べていると、野村時代の印刷には実際に近いものが使われている。野村解任と何か関係があるのだろうか。
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「ジャングル・バード」は姿を消したようだ。しかし、睡眠は相変わらず浅い。Epilim3錠も効き目なし。聴覚が生きているので、眠った気がしない。*
阪神淡路大震災から13年……。
Wednesday, January 16, 2008
Return of the Jungle Birds
おとといから、あの「ジャングル・バード」が戻ってきた。夜明けに、離れた場所にいる仲間と呼応しながら、あんなけたたましい声で鳴かれたら、眠られへんやないか!!
ボスは、「キミが欲しいということは、すでに伝えた(どこに?)」と言っていた。
また、支局の掲示板には、絵画コンクールの入選作品が掲示され、自宅近くの中学生の絵があったので、この子に「おめでとう」を言うために電話することにした。
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チャンギ空港のターミナルに「City Train」と表示した掲示がある。8日、「City Train」って、そんな交通機関、あったかなぁと思いながらターミナルをうろうろしてしまった。「MRT」と併記してもらわんと、ここに住んでるもんにはわからんやないか。*
コカコーラとペプシのような関係の米誌「TIME」と「Newsweek」。偶然、両誌が同じ写真を表紙にしてしまったのは、クーデター未遂で軟禁されたゴルバチョフがクリミアから解放された直後の1991年9月1日号だった。*
My three nights in Ho Chi Minh is changing my life, possibly forever. Who could have imagined anything like this before I went there… And I now feel that this change will remain in my heart.*
けさの夢。「NHKシンガポール支局」に採用され、打ち合わせに参加したものの、すぐにリストラされた。支局から放送されている衛星ニュース番組は、原稿が間に合わなかったりしてドタバタしていた。日経新聞にいるはずのTさんが支局いて、自分がリストラされたことに申し訳なさそうだった。ところが、支局長はN社のボスと同じで、すぐに「(首脳会議が開かれる米テキサス州)ダラスに飛んでくれ」と言う。しかし、午後6時10分までに離日するはずだった記者グループへの連絡が遅れ、取材はすべて泡と帰した。ボスは、「キミが欲しいということは、すでに伝えた(どこに?)」と言っていた。
また、支局の掲示板には、絵画コンクールの入選作品が掲示され、自宅近くの中学生の絵があったので、この子に「おめでとう」を言うために電話することにした。
Saturday, January 12, 2008
Vietnam or No Vietnam...
スクーターの波が信号のない交差点を泳ぐホーチミン市。一度だけ自動車とスクーターの衝突現場跡に遭遇。また、一家4人が1台のスクーターで走る姿も。運転する父親の前に子供がひとり。父親と母親にサンドイッチされてもうひとり。2人ともスヤスヤと眠っていた。もちろん子供はヘルメットなし。
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すっきり眠れない日が続く。イライラする。けさはちょうど起きないといけない時間に、またあの葬儀。エレキ、サックス、ドラムに女性シンガー。イライラの極地。*
1st day of the TESOL (ESL) workshop. It was fun and interesting. The director told us that there are six positions immediately available in Vietnam. Here again, a few contradicting conditions are overlapping. Is it ok for me to go straight to Vietnam while having no bridge to return to Singapore? “A” suggested that I get PR status before going to Vietnam or anywhere. I would agree with him, but how is it possible? To get the status, I must be employed here first. Only then can I apply for it and it will prolong my day to go to Vietnam again. However, I can say that this trip of mine to HCM can be a life-changing event for me. And in many senses, it is already changing my life.
Thursday, January 10, 2008
3 Nights in Ho Chi Minh
2008年1月6日(日)0:20 (Singapore time/23:20, January 5 in Vietnam time)
Thanks to an unexpected companion, I spent my very first night in HCM city just fine, though the taxi driver from the airport didn’t give the change and the hotel I had booked was mysteriously full, and I forgot to bring my glasses and the AC cord for the PC.
The city is quite vibrant with many shops, restaurants, cars and scooters, and it is rather dangerous to cross roads as there are few traffic lights.
I was transferred to another hotel. An auntie picked me up at the original hotel and she came by a scooter. Without a helmet, I rode with her to her hotel, which is located nearby.
I needed to get a bottle of solution liquid for my lenses because the one I’d had in my bag was confiscated at Changi. My companion brought me to a restaurant where I had beef “pho” for dinner, which was quite nice. After dinner, I had some beer and that’s all for my first night here.
23:05 (22:05 in Vietnam)
This afternoon, Oanh took me to two museums: War Remnants Museum and Ho Chi Minh City Museum. The War Remnants Museum was surprisingly modest built. And inside, I found some of the famous photos, which had been numerously reproduced, along with those jetfighters, a helicopter and a tank of the US armed forces. The City Museum displays exhibits including those of ancient times and the independence struggle against the French.
Later, Oanh showed me the suburban area. In District 7, I found the construction site of a “Lotte Mall” and an “International Exhibition and Convention Center.” In this area, the roads seem newly constructed and paved, and new blocks of apartments have gone up. We also passed the Saigon Port.
*
The city is clean. I can say that Ho Chi Minh is better managed than the dusty and dirty JB. The only nuisance may be hawkers selling guidebooks, Zippos, probably fake sunglasses and DVDs, and shoeshine boys.2008年1月9日(水)21:54
My third and last night, Oanh showed me the city center, again by her scooter. We drove through Dongkhoi Street which was illuminated just like Orchard Road and the both sides of the road are lined with fancy hotels. Though I don’t know what sort of place it was… perhaps a disco or club, I saw bouncers in black. My impression is that HCM will surpass JB just in a few years.
*
My first and second nights, I had a very fitful sleep… with dreams wherein that despicably irresponsible man and my former boss appeared… It's incredible that they even followed me to HCM…
Friday, January 04, 2008
Med Fee over S$970...
I visited the clinic to pay for the tablets sent to me last month and asked if there was some misunderstanding over the bill I’d received from Mt. E Hospital. After all, there was nothing wrong about it, and I’ve settled the bill. Altogether, it went over S$970. To be exact, S$977.52. Oh no… Oh no!!
*
For the almost-forced-upon trip to HCM, I exchanged S$ for US$60. Probably not enough… Because it is very wasteful to change more into US$ and/or Vietnamese dong, if I didn’t need all and I need to change the surplus back to S$, I think I should bring some amount in S$. (But greenback notes in my hand, the very first time since 1993.)
Thursday, January 03, 2008
Bad Sleep..., Nightmare, and a Call to Kyoto
Bad sleep. Two Epilim tablets didn’t work and a few hours later another tablet. The worst pattern… Before I fell into sleep, it was already past 7 am. And until late afternoon, a nightmarish dream.
Q came while I was still 90% slumbering. When I opened the fridge door after I finally got up, I found the bean sprouts I just had bought yesterday were gone. My bean sprouts…
Q came while I was still 90% slumbering. When I opened the fridge door after I finally got up, I found the bean sprouts I just had bought yesterday were gone. My bean sprouts…
*
Trying to be a good son, I called home. Not many important things to talk about, but it’s ok. At least I talked to her.*
I printed out most pages of the materials for the ESL course. I’m not going to be so ambitious or optimistic but then of course I’d like to get respectable assessment.
Tuesday, January 01, 2008
New Year Opened, with Little Changed
A cool night.
After midnight, I went out to prove my positive existence and join some friends at CC. I had not visited there for some weeks. There was not a big crowd. As I had not had anything stronger than beer recently, gulping of shochu and champagne certainly affected me. In the taxi, coming back home, I almost puked a few times. Every time sweet champagne-taste puke came up from my stomach, I swallowed it down successfully.
After midnight, I went out to prove my positive existence and join some friends at CC. I had not visited there for some weeks. There was not a big crowd. As I had not had anything stronger than beer recently, gulping of shochu and champagne certainly affected me. In the taxi, coming back home, I almost puked a few times. Every time sweet champagne-taste puke came up from my stomach, I swallowed it down successfully.
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