Tuesday, January 22, 2008

Remembering October 15, 1988

1988(昭和63)年10月15日。大手スーパーのダイエーへの球団売却が決まった南海ホークスが行った本拠地、大阪球場最後の試合。内外野席は無料解放だった。かろうじて確保した場所は1塁側スタンドの最上段で、大阪球場で最初で最後の立ち見を経験した。難波到着がもう少し遅れていたら、入場することさえできなかったはず。
南海・西鉄の黄金期を過ぎてから、この球場での満員札止めは、公式戦ではなく、対巨人、対阪神のオープン戦か、オールスター戦ぐらいのものだった。

77(昭和52)年の10月、同年の最終戦は対日本ハムだった。この試合は当時2シーズン制だったパリーグが後期の全日程を終えた後に組んだ前期消化試合で、観客は1人、2人と数えられるほど。おまけに10月の夜間という全く寒いものだった。野村解任が発表された後、急遽指揮を執ったのは、穴吹義雄二軍監督で、同じく大阪球場最終戦だった。試合後、首脳陣と選手全員がグランドに整列。ベンチに帰ってくる時、すでに退団が噂されていた江夏はうつむいたまま。一方、同じく退団が確実視された柏原はスタンドに向かって笑顔で、「柏原は残る」と思ったのに……。

さて、身売りの決まった南海の先発は西川佳明。出塁した近鉄の新井宏昌に対し、1塁ベースを守るのは河埜敬幸。かつては同じホークスのユニフォームを着て、ここを本拠地として、ほぼ同時期に「センター新井」「セカンド河埜」とレギュラーとなった2人が、最終戦で顔を合わせるとは。
大阪球場最後のホームランで試合を決めたのは岸川勝也だった。試合終了時にマウンドにいたのは、守護神、井上祐二。
試合終了後、杉浦忠監督、コーチと選手の全員が名前をアナウンスされながら、グランドに出てきた。「藤原満コーチ」と聞こえた時、近くにいたおっさんが「藤原……」とつぶやいた。門田博光とともに南海ホークスを引っ張った藤原に対するこのおっさんの気持ちが痛く痛くわかった。彼が現役をもっと長く続けていれば、南海ホークスの成績は多少はマシだったはず。コーチに就任させてしまった穴吹監督(当時)の責任は重いと思う。
ホークスの福岡移転から20年。杉浦監督に花束を渡した近鉄の仰木彬監督。両人ともこの世から去ってしまった。

余談だが、大学生のとき学校にテレビ朝日解説者だったノムラさんが講演に来たことがあった。「穴吹という男は律儀深く、中元歳暮をかかさなかった。しかし、解任の年には中元が来なかった」らしい。さらに余談。ベースボールマガジン社が88年12月に発行した別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス・永久保存版」には、少なくとも2カ所の誤りがある。ひとつは藤田学の写真に付けたキャプションで、「……入団していきなり……新人王に」とある。彼が新人王になったのは入団3年目。もうひとつは、101ページ。「陽気なホームラン打者、ジョーンズ」のキャプション。この写真、「ジョーンズ」やなくて「ピアース」。

しかし、同じく88年にオリエントリース(現オリックス)への売却が決まって消滅した阪急ブレーブスは南海ほどの扱いを受けなかった。誰も予期していなかったからかもしれないが、常勝阪急への扱いとしては全く不十分。阪急ブレーブスについても、ベースボールマガジン社は別冊号を出すべきだった。

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TESOLテキストを読んでると、1時間以内に眠ってしまう。いかんいかん。たくさん課題があるのに。

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