彫りの深い顔立ちと長身を生かし、映画からテレビ、ミュージカルまで活躍した二枚目俳優の岡田真澄(おかだ・ますみ)さんが29日午前4時5分、食道がん のため東京都内の病院で死去した。70歳。フランス・ニース生まれ。葬儀は近親者のみで営む。お別れの会を6月2日午前10時から東京都港区南青山2の 33の20、青山葬儀所で行う。喪主は妻恵子(けいこ)さん。 昨年6月、食道がんが見つかり手術、芸能活動を再開したが、体調を崩し療養していた。 日本人の父親とデンマーク人の母親の間に生まれた。1952(昭和27)年、日劇ミュージックホールで初舞台。54年に日活入社。「初恋カナリヤ娘」で映画デビューし、故石原裕次郎さん主演の「狂った果実」や、「幕末太陽伝」など100本以上の作品に出演した。 日活退社後は、東宝ミュージカルなど舞台を中心に活動。劇団欅を結成し、シェークスピア劇に傾倒したことも。80年に上演された「ファニー・ガール」で鳳蘭と共演し、好評を博した。 一方、テレビでは人気番組「マグマ大使」の父親役を演じたほか、NHKドラマ「若い季節」などで活躍。バラエティー番組やショーの司会役でも人気で「ファンファン」の愛称で親しまれた。 司会者の故E・H・エリック氏は兄。 60年に舞踊家ヨネヤマ・ママコさんと期限付きの「契約結婚」を発表し、翌年に別れた。その後、女優藤田みどりと結婚、離婚。95年恵子さんと再婚した。(スポーツニッポン)
う~ん……。「マグマ大使の父親役」じゃなくて「まもる少年の父親役」なんだけど。
Tuesday, May 30, 2006
Two Obituaries
作家の米原万里(よねはら・まり)さんが25日、卵巣がんのために死去していたことが29日分かった。56歳だった。東京都出身。葬儀・告別式の日取りなどは未定。
日本共産党衆院議員だった父・故米原昶氏の仕事の関係で少女時代を旧チェコスロバキアのプラハで過ごした。帰国後、東京外語大、東大大学院で学び、ロシア語通訳として国際会議や要人の同時通訳で活躍した。
通訳の体験をつづった軽妙なエッセー「不実な美女か貞淑な醜女か」で95年に読売文学賞を受賞。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(大宅壮一ノンフィクション賞)、長編小説「オリガ・モリソヴナの反語法」(ドゥマゴ文学賞)などで広範な読者を得た。
テレビのコメンテーターとしても活躍。ロシア語通訳協会会長、日本ペンクラブ常務理事を務めた。(産経新聞)
映画や舞台で二枚目俳優として活躍した岡田真澄(おかだ・ますみ)さんが29日午前4時5分、食道がんのため東京都内の病院で死去した。70歳。
フランスで、日本人の父とデンマーク人の母との間に生まれ、昭和14年に日本に移住。29年に日活に入社し、翌年、「初恋カナリヤ娘」でデビュー。長身の二枚目役で人気を呼び、川島雄三監督の「幕末太陽伝」では遊郭の青い目の若衆役をコミカルに演じた。
「嵐を呼ぶ男」など石原裕次郎主演のアクション映画にも多数出演。テレビ番組やショーの司会でも活躍、53年の第1回日本アカデミー賞の司会者を務めた。
主な出演作に鈴木清順監督「悲愁物語」、熊井啓監督「海と毒薬」、東陽一監督「四季・奈津子」など。舞台にも多数出演した。タレントの故E・H・エリックさんは実兄。(産経新聞)
日本共産党衆院議員だった父・故米原昶氏の仕事の関係で少女時代を旧チェコスロバキアのプラハで過ごした。帰国後、東京外語大、東大大学院で学び、ロシア語通訳として国際会議や要人の同時通訳で活躍した。
通訳の体験をつづった軽妙なエッセー「不実な美女か貞淑な醜女か」で95年に読売文学賞を受賞。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(大宅壮一ノンフィクション賞)、長編小説「オリガ・モリソヴナの反語法」(ドゥマゴ文学賞)などで広範な読者を得た。
テレビのコメンテーターとしても活躍。ロシア語通訳協会会長、日本ペンクラブ常務理事を務めた。(産経新聞)
映画や舞台で二枚目俳優として活躍した岡田真澄(おかだ・ますみ)さんが29日午前4時5分、食道がんのため東京都内の病院で死去した。70歳。
フランスで、日本人の父とデンマーク人の母との間に生まれ、昭和14年に日本に移住。29年に日活に入社し、翌年、「初恋カナリヤ娘」でデビュー。長身の二枚目役で人気を呼び、川島雄三監督の「幕末太陽伝」では遊郭の青い目の若衆役をコミカルに演じた。
「嵐を呼ぶ男」など石原裕次郎主演のアクション映画にも多数出演。テレビ番組やショーの司会でも活躍、53年の第1回日本アカデミー賞の司会者を務めた。
主な出演作に鈴木清順監督「悲愁物語」、熊井啓監督「海と毒薬」、東陽一監督「四季・奈津子」など。舞台にも多数出演した。タレントの故E・H・エリックさんは実兄。(産経新聞)
Sunday, May 28, 2006
Letters from The Economist
Debating Singapore (The Economist, May 11 2006, Letters)
SIR – Singapore's minister mentor, Lee Kuan Yew, seemed to imply that Singaporeans are trading their freedom of expression for a stronger nation when he referred to the recent political upheavals in Thailand and the Philippines in a riposte to a suggestion (from a participant in a TV debate) that a little more such freedom might actually help the city state (“A rational choice”, April 22nd). To think that Singapore would lose any of its hard-won economic development if its citizens enjoyed more freedom of expression is fallacious. Equally, the clamping down of free speech in the Philippines and Thailand does not help their quest to become new Asian tigers.
William Kwan
Hong Kong
Prosperous or free? (The Economist, May 27 2006, Letters)
SIR – Mr Lee Kuan Yew judges the strength of a country by its economic prosperity (“A rational choice”, April 22nd). Other people prefer to do it by its people's liberty.
Katha Chalotorn
Bangkok
SIR – Singapore's minister mentor, Lee Kuan Yew, seemed to imply that Singaporeans are trading their freedom of expression for a stronger nation when he referred to the recent political upheavals in Thailand and the Philippines in a riposte to a suggestion (from a participant in a TV debate) that a little more such freedom might actually help the city state (“A rational choice”, April 22nd). To think that Singapore would lose any of its hard-won economic development if its citizens enjoyed more freedom of expression is fallacious. Equally, the clamping down of free speech in the Philippines and Thailand does not help their quest to become new Asian tigers.
William Kwan
Hong Kong
Prosperous or free? (The Economist, May 27 2006, Letters)
SIR – Mr Lee Kuan Yew judges the strength of a country by its economic prosperity (“A rational choice”, April 22nd). Other people prefer to do it by its people's liberty.
Katha Chalotorn
Bangkok
Sunday, May 14, 2006
Friday, May 12, 2006
Monday, May 01, 2006
All Dreams
この週末の夢。雨天。夜の東京。「後楽園」遠征のときに宿泊するホテルに向かう「ノムラさん」といっしょにバス停にいた。高速道路が目前にあり、ガードレールに座っている力士が数人いた。高速道路の向こう側のビルには相撲部屋の看板が掛かっていた。不思議なことに高速道路にいる人たちは大阪球場での観戦を終えたおじさん連中のようだった。阪神高速か……。
ノムラさんとは昔の新聞や雑誌の記事を見ながら、(自分にとっては)懐かしい話をしていた。ノムラさんの著書が紹介されていた新聞記事では、そのうちの数冊は出版されることがなかったらしく、世話になった「GM」に感謝するとおっしゃっていた。昭和51年の記事を見ながら、自分は「南海ホークスがまだ強かったころ。阪急ほどではなかったが」と言い、「藤田学」と「定岡智秋」の名前を挙げていた。
別の夢。女性2人といた。場所不明。そこに鮮やかな紺色の振袖を着た3人目の女性が現れた。彼女は自分に会いに来たにもかかわらず、遠慮して離れた場所に座っていた。2人が去ってからだと思うが、彼女に会えたことをたいへん喜んでいた。
また別の夢(のはず)。「朝日新聞」の人で母親の近所に住んでいる夫婦がみんなで出かけようとうるさい。自分は先約があるのでひとりで出かけた。白壁のアパート。上記の彼女に会うため、4階から3階に降りようとしていたが、階段は工事中の建物のそれのようで踏み外せば地上まで落下しそう。「こっちのらせん階段の方が安全ですよ」と住人に言われるが、階段を移る動作の方が危険だと判断して、何とか3階に降りた。
そこは、「高島屋」で、大型の書店が入居していた。その書店内は改装中で一部が立入禁止。店員が入店客を整理しており、勝手に売り場内を移動できなかった。彼女の居場所を携帯電話で確認して、会う。そこにまた朝日新聞夫婦が現れ、「どこに行くのか」としつこくきかれる。その後、不明。
また別の夢。ピンクの着物を着た少女とその友人らしき人が遠くをこちらに向かって歩いていた。場所は幅の広い参道のようだった。この着物の彼女が行方不明となる。自分とどういう関係の人かはわからない。
実家裏の「疎水べり」。数メートル離れたところに警官がひとり立っている。思い切って話しかけ、着物の彼女を「八坂神社」で見たと告げる。
インドネシアにいる長い夢。大学のキャンパスだったが、ジャカルタではなく、どこか地方の町だった。体育館で何かの競技会が開催されているところを機関銃を持った多数の民兵が襲撃。血が飛び散った。生き残った人たちは並ばされ、どこかへ連行された。その途中、周辺の数人と隠れ家となっている家屋へ逃げ込んだ。5~6人の住民がすでにいて、日本人であることなどを明かした。いつの間には、家屋には大勢が逃げ込んでいて、壁の隙間から民兵の動きを観察していた。民兵にはすぐに見つかり、また銃撃を受ける。
また行進。監視する民兵は一定の間隔にいて、処刑場となっている場所に到着すると、「リストにあることを証明できない」住民を選んで銃殺している。行進と銃殺を繰り返す。「以前、前を通ったことのある‘日本センター’に行きたい」と小声で言うと、一緒に連行されている人に「そのセンターは空港の近く」で「ここからは遠い」し、「行進の列から外れるのは危険だ」と言われた。
民兵は処刑を楽しんでいた。誰を撃つのかには関心がないようで数秒感覚で列に向かって発砲する。処刑場では、壁に「2人重ねるように並ばせ」、壁側にいる人の恐怖を数倍にしている。もう1人は当然射殺された。自分は外国人であることを理由に民兵組織の「将軍」に面会することを許された。将軍はインドネシア人ではなく、白いポロシャツを着た華人だった。友好的だったが、結局は壁側に立たされる恐怖を味わうことになった。
報道関係の日本人男性が現れ、自分の含む3人の写真を撮った。「外国の報道機関」であることで、彼は捕らわれてはいなかった。荷物からあわてて「報道」であることを示す名刺を取り出した……。それでどうなったのか覚えていない。
先週末の夢。中国から中央アジアまでの旅。途中立ち寄った駅は、中央アジア風の建物だが漢字で駅名が表記されていた。駅構内の食堂で食事。言葉が通じないので、「ロティプラタ」か「ナン」のようなものを指差して注文。駅裏のアパートに宿泊することにする。かなり古いが、数日のことだと思い我慢する。近くの大学にも立ち寄る。後から来た旅行者には、数日だけでも賃貸可能なアパートがあることを伝える。もっともっと長い夢だったようだが、あとはすでに記憶になし。
ノムラさんとは昔の新聞や雑誌の記事を見ながら、(自分にとっては)懐かしい話をしていた。ノムラさんの著書が紹介されていた新聞記事では、そのうちの数冊は出版されることがなかったらしく、世話になった「GM」に感謝するとおっしゃっていた。昭和51年の記事を見ながら、自分は「南海ホークスがまだ強かったころ。阪急ほどではなかったが」と言い、「藤田学」と「定岡智秋」の名前を挙げていた。
別の夢。女性2人といた。場所不明。そこに鮮やかな紺色の振袖を着た3人目の女性が現れた。彼女は自分に会いに来たにもかかわらず、遠慮して離れた場所に座っていた。2人が去ってからだと思うが、彼女に会えたことをたいへん喜んでいた。
また別の夢(のはず)。「朝日新聞」の人で母親の近所に住んでいる夫婦がみんなで出かけようとうるさい。自分は先約があるのでひとりで出かけた。白壁のアパート。上記の彼女に会うため、4階から3階に降りようとしていたが、階段は工事中の建物のそれのようで踏み外せば地上まで落下しそう。「こっちのらせん階段の方が安全ですよ」と住人に言われるが、階段を移る動作の方が危険だと判断して、何とか3階に降りた。
そこは、「高島屋」で、大型の書店が入居していた。その書店内は改装中で一部が立入禁止。店員が入店客を整理しており、勝手に売り場内を移動できなかった。彼女の居場所を携帯電話で確認して、会う。そこにまた朝日新聞夫婦が現れ、「どこに行くのか」としつこくきかれる。その後、不明。
また別の夢。ピンクの着物を着た少女とその友人らしき人が遠くをこちらに向かって歩いていた。場所は幅の広い参道のようだった。この着物の彼女が行方不明となる。自分とどういう関係の人かはわからない。
実家裏の「疎水べり」。数メートル離れたところに警官がひとり立っている。思い切って話しかけ、着物の彼女を「八坂神社」で見たと告げる。
インドネシアにいる長い夢。大学のキャンパスだったが、ジャカルタではなく、どこか地方の町だった。体育館で何かの競技会が開催されているところを機関銃を持った多数の民兵が襲撃。血が飛び散った。生き残った人たちは並ばされ、どこかへ連行された。その途中、周辺の数人と隠れ家となっている家屋へ逃げ込んだ。5~6人の住民がすでにいて、日本人であることなどを明かした。いつの間には、家屋には大勢が逃げ込んでいて、壁の隙間から民兵の動きを観察していた。民兵にはすぐに見つかり、また銃撃を受ける。
また行進。監視する民兵は一定の間隔にいて、処刑場となっている場所に到着すると、「リストにあることを証明できない」住民を選んで銃殺している。行進と銃殺を繰り返す。「以前、前を通ったことのある‘日本センター’に行きたい」と小声で言うと、一緒に連行されている人に「そのセンターは空港の近く」で「ここからは遠い」し、「行進の列から外れるのは危険だ」と言われた。
民兵は処刑を楽しんでいた。誰を撃つのかには関心がないようで数秒感覚で列に向かって発砲する。処刑場では、壁に「2人重ねるように並ばせ」、壁側にいる人の恐怖を数倍にしている。もう1人は当然射殺された。自分は外国人であることを理由に民兵組織の「将軍」に面会することを許された。将軍はインドネシア人ではなく、白いポロシャツを着た華人だった。友好的だったが、結局は壁側に立たされる恐怖を味わうことになった。
報道関係の日本人男性が現れ、自分の含む3人の写真を撮った。「外国の報道機関」であることで、彼は捕らわれてはいなかった。荷物からあわてて「報道」であることを示す名刺を取り出した……。それでどうなったのか覚えていない。
先週末の夢。中国から中央アジアまでの旅。途中立ち寄った駅は、中央アジア風の建物だが漢字で駅名が表記されていた。駅構内の食堂で食事。言葉が通じないので、「ロティプラタ」か「ナン」のようなものを指差して注文。駅裏のアパートに宿泊することにする。かなり古いが、数日のことだと思い我慢する。近くの大学にも立ち寄る。後から来た旅行者には、数日だけでも賃貸可能なアパートがあることを伝える。もっともっと長い夢だったようだが、あとはすでに記憶になし。
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