Saturday, November 27, 2010

Hoshino Kantaro

山本小鉄の後を追うように星野勘太郎まで……。 ミル・マスカラスが初来日した時の最初の対戦相手だったなぁ。

Thursday, November 25, 2010

Shortening Words Does Not Always Work

先週だったか、あるいは先々週だったか、ある当地日本語メディアで水処理大手企業の「Hyflux」を「ハイフラ」と省略している見出しを見つけた。やり過ぎだと思う。また、日本語メディア全般について言えば、比較的新しいと思える「infrastructure(社会基盤)」を「インフラ」とするのはまだ許せるとして、「流行性感冒(流感)」という日本語がありながら「influenza」を「インフル」と略すのにすでに抵抗を感じる。同メディアでは、見出し語数の制限から「マレーシア」を「隣国」することが多いが、しばらく前にはそうすることがないコラムの中でさえ「隣国」を使い、最後までどこの国なのか結局特定されていなかった。「インフラ」「インフル」「インフレ」「ハイフラ」……。

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For the annoying “lock” problem, I’m now suspecting my keyboard that’s connected externally.

Monday, November 22, 2010

DO NOT LOCK MY PC

The PC lock problem is happening without “Trados.” So annoying. And my apology to the program. A funny thing is that it occurs overwhelmingly during the day, not at night. It may be a trouble with the wireless broadband connection, which is not really broad and can be frustratingly slow especially in the weekday daytime.

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State Secretary Kissinger laments about the failure of the Year of Europe partly caused by the reluctance, and covert and overt sabotage, of the West European allies to deal with President Nixon who is embroiled in the escalating Watergate scandal. Dr. Kissinger still manages to organise a conference in Geneva for the Middle Eastern issues, an aftermath of the war of 1973. His comparative analysis into how Japanese politics, and society by extension, works is insightful.
It makes me wonder to what extent the same analysis can be applied to today’s society. If the same system is still controlling there, it can be yet another reason that I shouldn’t go back. This should not be an issue of “either or.” It should be about how much the negative side of the small-village thinking still dominates in Japan’s society. This thinking can be seen through the cover-up of the collision video in Senkaku and the resignation of the Justice Minister today. In fact, the minister was shown the door.

Monday, November 15, 2010

Hello Again, Dr, Kissinger

「サンダカン八番娼館」を数日前に、そして「物語 フィリピンの歴史」を今日の午後に終えて「Years of Upheaval」にまた戻った。「物語 フィリピンの歴史」の最後あたりは、非日本語の文献からの短い引用文のような「……した」の連続で終わる文紋切り型が減って幾分読みやすかった。「Years of Upheaval」を再開したものの、繰上げ選挙から「People Power」までの日々を報じた米誌「TIME」と「Newsweek」の記事を読み返したい気持ちもある。

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Without “Trados,” my PC does not give me that “lock” trouble. The suspicion is growing even bigger.

Saturday, November 13, 2010

Trados Mischief?

It seems “Trados” is making my PC crazy. Two days ago, it entered its locked mode while I was working on a “Trados TagEditor” file. I’ve never set the mode, or changed if it was set by default. I’ve been using the PC for more than two years and this has never happened before. As “Trados” has history of giving trouble to me and this phenomenon of turning the screen all black happens only when a “Trados” file is open, the main suspect is this program. The locked condition appears in a progressively short interval. Every time the symptom appears, I have to press the power button and the “user icon” displayed to return to the normal condition. After a few cases of this cat-and-mouse, the screen starts turning black even before I hit any single key. “Trados,” I’m blaming you with reason. This program, which supposedly assists my work, is bullshit. It doesn’t care how I read documents and inhibits the natural flow of reading. Is any programmer who understands my mother tongue involved in the program development? Or has there been any meaningful progress for a decade or more?

Thursday, November 11, 2010

Senkaku Video, "Story: History of the Philippines," + Nomura-san on Money

先週5日、尖閣での衝突事件のビデオが「流出」した。こんな展開を予測できた人はまずいないだろう。政府は全く公開する気がなかったようだ。公開せよという声に抗しきれず、今月1日に衆議院の「予算委員会理事人ら30人」がこの映像を視聴したが、全面的に公開したくない理由は明らかだ。日本の法規に照らして容疑のある者を釈放しておいて、その措置が誤りであったかのようなことを示す映像を見てもらいたくなかったのだ。相も変わらず日本村の解決法だ。しかし、解決にはほど遠かった。一方で逮捕容疑者を無罪放免にしておきながら、映像を流出させた海上保安庁保安官を公務員の守秘義務違反で問うことの矛盾をどう解決するつもりなのだろう。企業の悪行を密告した場合とどう違うのだろう。実は先週連絡してきた某女は、この流出ビデオに中国語字幕を付けたいと言ってきたのだったが(「あんたがやらんでも、もう誰かがやってるわ、そんなこと」とは言わずも、そういう気分だった)、そんなことより日本国民なら日本政府の対応を厳しく批判するのが筋ではないか。

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「物語 フィリピンの歴史」(中公新書)は読みにくい。「物語」と呼べず、「これ、日本語」と言いたい。

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産経電子版で読んだ夕刊フジの記事に、岩隈の大リーグ落札金について「13億円はどこに入るんや? これで星野の(年俸)分が出たな。楽天は完全な金儲け主義」と、ノムラさんのコメントがあった。友人はなくしたが「カネは残った」と言った人がいうことか。

Monday, November 08, 2010

And Then Joe Higuchi

ジョー樋口の訃報あり。山本小鉄に続いて……。

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産経電子版の見出し:【尖閣ビデオ流出】投稿者特定に限界 “密告用”プロシキならたどれず

「プロシキ」って何?「ピロシキ」?

Sunday, November 07, 2010

Japanese in Those Days of Singapore + Unwelcome Call

続いて「シンガポール花街の跡」から引用すると、
「……いま見るかつての日本人花街は、シンガポール人にたいする非礼をかえりみずに記せば、スラムという言葉がもっとも当たっているような街であった」
「伝手がないためわたしは、それらかつての日本人娼館の内部に入ってみることはでなかったが、しかし、この街の近くで育ったという太田さんの話では、二、三階の部屋はいずれも日本の六畳間ぐらいの広さであるという、台所とトイレットの備わっている部屋はひとつも無く、各階に共用のものがあるばかりだというが、そのことは、元来これらの部屋が居住のためではなく娼売用のものであったことを間接的に示していると言わなくてはなるまい、そして現在、老朽したこれらの部屋のひと月の間代は三十ドル前後で、住んでいる人はもちろん華人系に限られ、しかも船員・店員・工員・運転手など主として肉体労働にたずさわる人びとと、いわゆる水商売関係の女性などが多いということだ」
「――わたしが書物や古老の談話などから得た知識によるなら、シンガポールにおける日本人娼婦の第一号は、明治初年にシンガポールで夫のイギリス人が死んだため生活の方途を失った日本人妻だとも言われ、また明治四年にシンガポールへ上陸した横浜生まれのお豊という女性であるとも言われている。このほかにもまだ、黒髪を切り男装してシンガポールへ渡って来たおヤスという女性が最初だとか、サーカス団の一員としてシンガポールに来てそのまま帰らなかった通称<伝多の婆さん>が嚆矢だとかいった説もあるが、いずれにせよ明治期も非常に早い頃からからゆきさんの歴史ははじまっていると言わなくてはならない。そして西郷隆盛が鹿児島で死んだ明治十年に、早くもマレー街に二軒の日本人娼館が建ったのを手はじめとして、年を追って日本人娼館はふえてゆき、明治二十年にはからゆきさんの数およそ百人、明治三十五年には娼館八十三、からゆきさん六百十一人、日露戦争の勃発した明治三十七年には娼館百一、からゆきさん九百二人というぐあいに急増して行ったのである」

貧困と性差別を根底の原因とした海外売春だったが、平成も20年を過ぎた今、日本国内では少女によるフリーランス売春がめずらしくない。数年前だったか、「貧困を理由としない売春が存在するのは日本だけ」と言った人がいたはず。女性史にとってどういう意味を持つのだろうか。

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金曜日が祝日だったため3週間通訳の最終日となった木曜日の夜、「ヴァカ社長」の姿を運悪く見た。そして翌金曜日の午後、その社長と一時期、抜き差しならぬ間柄にあり、自分にとっては社長同様に忌み嫌いたい女性から電話があった。わざわざうちの電話番号を人に確認してまでの連絡だったが、偶然なのか。その話の内容は、政治史を中途半端にかじった人の戯言のように聞こえた。

Saturday, November 06, 2010

Hatoyama Considers No Career Change + Karayuki-san

ずいぶん書かなかった間のことだが、鳩山前首相が引退発言から大幅に後退した。驚かないが、ずいぶんと人を落胆させる政治家だなぁ。在任中の泳ぐ目線と説得力のなさはともかく、この人から真っ直ぐな潔さがすっかりなくなってしまった。

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何で今頃と思われるだろうが、山崎朋子の「サンダカン八番娼館」を木曜日夜から読み始め、その「エピローグ」まで進めた。同書によると、「おサキさん」の夫だった北川新太郎は、「明治弐拾九年五月拾八日、京都府紀伊郡深草町字**参拾壱番地」で出生とあり、「深草」の文字に心が騒いだ。次いで、「昭和参十弐年七月弐拾参日午後参時八分、京都市伏見町深草向畑町官有地で死去」とあるではないか!そこはおそらく国立京都病院の住所だろう。

ちょっと先読みして、併録されている「シンガポール花街の跡」を覗くと、
「……さっきまで歩いていたモダンな大通りとちがってそのあたりは、さして広からぬ道をはさんで両側に古びた二、三階の商店がひしめく街―いわゆるチャイナ・タウンであった。そしてわたしがその街の商店看板などのどぎつい色彩に眼を奪われているうち、太田さんはいくつかの街角を指さして、『山崎さん、ここがその昔のステレツですよ――』といったのである」
「ちょうど眼の前が十字路で、道をへだてた向こう側の建物の壁に細長い街路標があったので瞳をこらすと、一方の側のそれには、『MALAY STREET(馬来街)』の文字が、もう一方の側のそれには、『HYLAM STREET』の文字が読めた。わたしは、胸のとどろくのをおさえることができなかった」
1974年に書かれたものだ。「Malay Street」に「Hylam Street」、そして同じ地区にあると記述されている「Malabar Street」。聞き覚えはあるが、「チャイナ・タウン」にあるように思えず、オンライン地図(www.streetdirectory.com)で確認しようとすると、いずれの通りも検索にかからない。それもそのはずで、どれも現在は1995年9月にオープンした「Bugis Junction」内の「屋内標識」でしかお目にかかれない通りなのだ。あの辺りはチャイナタウンの一部とされていたのだろうか。当地の国立図書館のウェブサイト(http://infopedia.nl.sg/articles/SIP_297_2004-12-20.html)には、「Malay Street」の呼称について「Chinese: Jit-pun koi (Hokkien), meaning "Japanese Street", referring to the Japanese prostitutes on this street. Yat pun chai kai (Cantonese), meaning "Japanese brothel street"」との記述がある。
「おサキさん」が北ボルネオのサンダカンへ渡ってから90年ほど経過している今でも、人種や出身国の構成が変化しただけで出稼ぎ売春はなくなっていない。