Monday, May 01, 2006

All Dreams

この週末の夢。雨天。夜の東京。「後楽園」遠征のときに宿泊するホテルに向かう「ノムラさん」といっしょにバス停にいた。高速道路が目前にあり、ガードレールに座っている力士が数人いた。高速道路の向こう側のビルには相撲部屋の看板が掛かっていた。不思議なことに高速道路にいる人たちは大阪球場での観戦を終えたおじさん連中のようだった。阪神高速か……

ノムラさんとは昔の新聞や雑誌の記事を見ながら、(自分にとっては)懐かしい話をしていた。ノムラさんの著書が紹介されていた新聞記事では、そのうちの数冊は出版されることがなかったらしく、世話になった「GM」に感謝するとおっしゃっていた。昭和51年の記事を見ながら、自分は「南海ホークスがまだ強かったころ。阪急ほどではなかったが」と言い、「藤田学」と「定岡智秋」の名前を挙げていた。

別の夢。女性2人といた。場所不明。そこに鮮やかな紺色の振袖を着た3人目の女性が現れた。彼女は自分に会いに来たにもかかわらず、遠慮して離れた場所に座っていた。2人が去ってからだと思うが、彼女に会えたことをたいへん喜んでいた。

また別の夢(のはず)。「朝日新聞」の人で母親の近所に住んでいる夫婦がみんなで出かけようとうるさい。自分は先約があるのでひとりで出かけた。白壁のアパート。上記の彼女に会うため、4階から3階に降りようとしていたが、階段は工事中の建物のそれのようで踏み外せば地上まで落下しそう。「こっちのらせん階段の方が安全ですよ」と住人に言われるが、階段を移る動作の方が危険だと判断して、何とか3階に降りた。

そこは、「高島屋」で、大型の書店が入居していた。その書店内は改装中で一部が立入禁止。店員が入店客を整理しており、勝手に売り場内を移動できなかった。彼女の居場所を携帯電話で確認して、会う。そこにまた朝日新聞夫婦が現れ、「どこに行くのか」としつこくきかれる。その後、不明。

また別の夢。ピンクの着物を着た少女とその友人らしき人が遠くをこちらに向かって歩いていた。場所は幅の広い参道のようだった。この着物の彼女が行方不明となる。自分とどういう関係の人かはわからない。

実家裏の「疎水べり」。数メートル離れたところに警官がひとり立っている。思い切って話しかけ、着物の彼女を「八坂神社」で見たと告げる。

インドネシアにいる長い夢。大学のキャンパスだったが、ジャカルタではなく、どこか地方の町だった。体育館で何かの競技会が開催されているところを機関銃を持った多数の民兵が襲撃。血が飛び散った。生き残った人たちは並ばされ、どこかへ連行された。その途中、周辺の数人と隠れ家となっている家屋へ逃げ込んだ。5~6人の住民がすでにいて、日本人であることなどを明かした。いつの間には、家屋には大勢が逃げ込んでいて、壁の隙間から民兵の動きを観察していた。民兵にはすぐに見つかり、また銃撃を受ける。

また行進。監視する民兵は一定の間隔にいて、処刑場となっている場所に到着すると、「リストにあることを証明できない」住民を選んで銃殺している。行進と銃殺を繰り返す。「以前、前を通ったことのある日本センターに行きたい」と小声で言うと、一緒に連行されている人に「そのセンターは空港の近く」で「ここからは遠い」し、「行進の列から外れるのは危険だ」と言われた。

民兵は処刑を楽しんでいた。誰を撃つのかには関心がないようで数秒感覚で列に向かって発砲する。処刑場では、壁に「2人重ねるように並ばせ」、壁側にいる人の恐怖を数倍にしている。もう1人は当然射殺された。自分は外国人であることを理由に民兵組織の「将軍」に面会することを許された。将軍はインドネシア人ではなく、白いポロシャツを着た華人だった。友好的だったが、結局は壁側に立たされる恐怖を味わうことになった。

報道関係の日本人男性が現れ、自分の含む3人の写真を撮った。「外国の報道機関」であることで、彼は捕らわれてはいなかった。荷物からあわてて「報道」であることを示す名刺を取り出した……。それでどうなったのか覚えていない。

先週末の夢。中国から中央アジアまでの旅。途中立ち寄った駅は、中央アジア風の建物だが漢字で駅名が表記されていた。駅構内の食堂で食事。言葉が通じないので、「ロティプラタ」か「ナン」のようなものを指差して注文。駅裏のアパートに宿泊することにする。かなり古いが、数日のことだと思い我慢する。近くの大学にも立ち寄る。後から来た旅行者には、数日だけでも賃貸可能なアパートがあることを伝える。もっともっと長い夢だったようだが、あとはすでに記憶になし。

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